三日目
翌朝の食卓には、熊が並んでいた。
正確には熊鍋である。
昨日アルベルトが夜通し山を駆け回り、一人で仕留めてきた巨大な熊は、私が寝ている間に城の料理人たちによって見事に解体されていた。
昨夜あれだけの騒ぎを起こした熊を朝から食べるのかとも思ったけれど、この世界では狩った獲物を皆でいただくのも珍しくないらしい。
恐る恐る口にしてみれば、思っていたほど癖もなく、濃い味付けのおかげもあって普通に美味しい。昨日の夜からほとんど何も食べていなかった私は、熊鍋だけでなく、焼いた肉までしっかりいただいた。
ただ、食べ終わってしばらくすると妙に身体が熱くなってきた。熊肉は滋養がつくからと侍女から聞いたので、そのせいだろうと思っていた。
実際、その日は朝からやけに元気だった。
そして困ったことに、元気になると昨夜のことまで考えてしまう。
(……今日こそは)
そう思っただけで頬が熱くなり、私は誰も見ていないのに一人で恥ずかしくなった。
二十二歳まで日本で生きてきて、恋愛経験なし。
当然、処女。
そんな女が異世界へ来たからといって、突然男の誘い方が分かるはずもないのだ。
だからといって、アルベルトが何かしてくれるのを待っていれば、また何が起きるか分からない。昨日なんて、初夜の続きをするどころか熊を狩ってきたのだ。
何かこう、私が直接言わなくてもアルベルトが察してくれる方法はないものだろうか。
そんな都合のいい方法を真剣に考えていた午後、城で働く女性たちの話が耳に入った。
「普段なら絶対に着ないような格好で迫ったら、夫が凄かったのよ」
その一言で、私の足が止まった。
何でも、街のストリップ小屋で踊っている女性から衣装を借りたらしい。その日は動物に扮して踊る催しがあり、それまで妻が何をしても見向きもしなかった夫が、その格好を見た途端、まるで獣のように夢中になったのだとか。
(あーね! コスプレね!)
それなら私にも分かる。
なるほど、こちらの世界にもそういうものがあるらしい。しかも素晴らしいことに、言葉で誘う必要がない。
着て待っていればいいのだ。
これなら私でもできる。
そこまで考えたところで、朝から食卓に並んでいた熊が頭に浮かんだ。肉はすでに美味しくいただいたが、皮はまだ残っている。さすがに本物の熊皮をコスプレ扱いするのは違うだろうと思ったものの、一度浮かんだ考えはなかなか頭から離れてくれなかった。
ところが、その日の私はどういうわけか、いつもより少しだけ気持ちが前のめりだった。朝から身体に残っている熱も消えず、アルベルトのことを考えるたび、普段なら恥ずかしくてすぐ蓋をするような想像まで勝手に浮かんでくる。
もう夫婦なのだ。
少しくらい大胆になったっていい。
それに昨日、アルベルトが私のために仕留めてくれた熊なのだから、まったく関係のない動物よりむしろいいのではないだろうか。
何が「むしろいい」のか、自分でもよく分からない。それでも私は、残されていた熊の毛皮を譲ってもらった。
◇
夜になってから、猛烈に後悔した。
鏡の前に立っているのは、熊の毛皮を身体に巻いた公爵令嬢である。
日本で想像するようなコスプレ要素など一つもなく、どう見ても本物の熊を仕留めて皮を剥いで被っている人。
(マタギだな……これ……)
今ならまだ着替えられる。
そう思うのに、なぜか脱ぐ気にもなれなかった。
毛皮に包まれていると暖かく、朝から続いていた身体の熱まで強くなっているような気がする。
そこへアルベルトの顔を思い浮かべてしまえば、もういけなかった。
昨夜、私の膝で眠っていた顔。泥だらけの髪を撫でたときの感触。あれだけ無茶をした理由が私だったこと。思い出しているうちに胸の奥が落ち着かなくなり、私は毛皮の端を握りしめた。
(……夫婦なんだし)
誰に言い訳しているのかも分からない。
それでも今日は、アルベルトに少しくらいドキッとしてほしかった。自分から誘うなんて死んでも無理だけれど、この格好なら何も言わなくても察してくれるはずだ。
やがて寝室の扉が開き、帰ってきたアルベルトが私を見るなり立ち止まった。
(よし、効いてる)
ここまで頑張った甲斐があったと、私は恥ずかしさを押し殺して何でもないふうに髪を耳へかけた。アルベルトはまだ私を見つめているし、昨日までとは明らかに反応が違う。
(これ……本当にいけるんじゃない?)
そう思った途端、朝から身体の奥に燻っていた熱が頬まで上がってきた。
あとは何か一言、誘うようなことを言えばいいのだろう。けれど二十二年間処女だった里子に、そんな洒落た台詞が出てくるはずもない。
仕方なく私は熊の毛皮をまとったままアルベルトへ近づき、精一杯それらしい目で見上げた。
(これで分かるよね? 分かって。お願いだから察して)
ところが、近づくにつれてアルベルトの表情がおかしいことに気づいた。
ドキッとしているのではない。
青ざめている。
「マドレーヌ……」
期待していた甘い声とはまるで違い、アルベルトはひどく心配そうに私の名を呼んだ。そのまま慌てて額へ手を当てられ、朝から続いていた熱を確かめるなり、さらに顔色を変える。
「誰か! すぐ街へ降りて医者を呼んでくれ!」
「えっ?」
なんで?
アルベルトは呆然とする私から熊の毛皮を外すと、倒れないようにするかのように身体を支えた。
「すまなかったね、マドレーヌ。私がこんな熊なんて仕留めてきたばかりに……きっと呪われてしまったんだ」
そこでようやく、私はアルベルトから自分がどう見えているのかを考えた。
昨日までこんなことをしたこともない妻が、朝から熊をたらふく食べた挙げ句、その熊の毛皮を身体に巻き、顔を真っ赤にして無言で迫ってくる。
なるほど。
これは呪いを疑われても仕方ない。
もちろん本当の理由は熊の呪いなんかではないのだけれど、それを説明するには「あなたを誘いたくてこんな格好をしました」と白状しなければならない。
そんなことが言えるくらいなら、最初から熊なんて着ていない。
私は何も言えないまま、心配そうに抱き寄せてくるアルベルトの胸へ顔を埋めた。せっかく熊肉のせいにできていた頬の熱が、今度こそ自分自身の恥ずかしさで耳まで広がっていった。
結婚三日目――失敗!




