28 信仰『天空宮に残された告解書』
これは告解である。だが地上からはるか離れたこの場所に、私の声を聴く者は誰もいない。ゆえに私はこれを帳面に記す。いつの日か、ここへ辿り着く誰かが開くだろう。
私の名はグラーフ。
ヴァルノー本教会に所属する神官である。翼院の次席として航空研究部会の指揮をとり、あるいはアンタイオスの運行においてはヴァルデン政府に招聘された機関設計官となる。
今はもう、どちらの肩書きも意味を持たない。
いや、捨て去ったというべきだろう。
神に仕えることをやめ、祖国であるヴァルデンを裏切ったのだから。
では私という一個の人間とはなんであるのか。
まずそれを記そう。ボンベの空気は私の半生を振り返るくらいは保つだろう。
私は影の外で育った。
生まれた村は国境近くの小さな寒村であった。父は他所からの流れ者を妻としたことで村の者から疎まれており、二人が流行り病で世を去ったあと、私は村の家を転々としていた。血筋で言えば村の多くは親戚ばかりであったが、扱いは厄介者の類であった。飯は残り物、寝床は石床の隅。それが私の幼年である。
それはひどくぼやけた記憶であり、もはや何の感情も伴わないが、ただひとつだけ鮮明に残っているものがある。影への羨望である。
年に一度、天柱雲が村の空を渡る日。村人は皆、近くの丘に登った。ヴァルデンに天柱雲が来臨することを寿ぐ祭りであった。巨大な雲の影が丘を舐めるように過ぎてゆき、その数刻のあいだ人々は神に祈りをささげ、影に包まれて祝福を受ける。だが務めを果たさぬ罪の子に丘に登る資格はなかった。私は村に独り残され、遠ざかる影を見て泣いていた。
その私を抱きしめてくれた人がいた。
村の教会のシスターであった。
といっても寒村のことで常駐の神官などおらず、村長宅の納屋を改造した仮の聖堂で下働きをする娘であった。正式なシスターですらなかったろう。普段は親の畑を手伝う、ただの農家の娘である。だが私にとって彼女こそが教会だった。
丘に登れず全てから見捨てられたと嘆いていた私に、彼女は言った。
神様ははるか昔に雲の中にお隠れになったのと。それはどれだけ大きくて足の早い空の宮殿だってすべての人を眼差すことはできないから。だから雲の中に入って、そうすれば天上のすべての雲が神様を抱えた尊い雲ってことだから、どんな人のことだって眼差してあげることができるようになったんだよと。
それはシスターが聞きかじったろう聖書の一片で、今まさに天柱雲を特別なものと扱う祭りの最中で告げるには滑稽さもあった。
だがシスターは哀れな子供が祭りから弾かれたことに気づき、どうやってかわずかな時間を縫ってそれだけを伝えようとそこまで来てくれたのだ。
彼女が空を指した。小さな千切れ雲がひとつ、村の上を流れていた。その薄い、頼りない影が私の上を通り過ぎた。
私は小さく手を合わせて祈りを捧げた。
神を感じたのではない。シスターが自分の手で私の両手を握りしめて、祈りの言葉を唱えたからだ。神の眼差しなど信じずとも、シスターの眼差しは確かに私だけに向けられていた。それだけは、疑いようもなく本物だった。
それから後も、彼女は変わらず私を見ていてくれた。畑仕事の最中に顔をあげれば遠くから手を振ってくれていた。村の悪童たちが私に絡んでいれば一端のシスターとして諌めてくれた。教会の下働きの名目で私を呼び寄せ、その成果を親戚に大げさに伝えてくれていた。
名ばかりのシスターには厄介者の立場を覆すほどの力はなかったが、それだけで十分だった。
誰かの眼差しに包まれているという温かさの前では、村での扱いなど大したことに思えなかった。
そういう日々が、数年続いた。
シスターはやがて隣町へ嫁いでいった。
二、三年ののち、巡回の神官が村を訪れて私を呼びつけた。シスターが嫁ぎ先で村に見どころのある子がいると伝えてくれていたのだという。神官は私にいくつかの問答や計数を試し、そして中央へ連れて帰った。
私は神学校に入った。
日が昇らぬうちに起き、聖堂を磨き、写経を重ねて生活の糧を稼ぎ、就寝は夜半を過ぎた。だが田舎の寒村に育った子供には、どうということもなかった。薄くともシーツを敷いたベッドがある生活に文句などなかった。
何より雲が白に輝く内は世界を学べることが嬉しかった。
天昇会はオルスを奉じる諸派の中でも、神の御許への帰還を祈りではなく学問によって果たすことを旨とする宗派である。天柱雲の軌跡をなぞり、その眼差しが遍く大地を収めることを証明すべく幾何の理を見出した。天上の全ての雲を記録し、そのわずかな形状の変化から天候を読む術を纏めた。巨大な凧をもって雷を引き寄せて除籍された神官を尊者に列したのはこの宗派である。
天へ辿り着くために必要なあらゆる学問を、信仰の名のもとに探求を積み重ねてきた。オルスを奉じる諸派の中でこれほどをする会は他になかった。
その最たるは航空機の研究である。
翼の形状、揚力の理論、気圧の把握、推進機の出力と燃料の比。研究の過程で幾人もの神官を失い、墜落した機体の残骸から数値を拾って次の設計に活かした。その知識は人の争いのために使われ、さらに多くの命が失われた。だがそれすらも神へ近づくための尊い代償と見なした。天昇会がいくつかの時代や地域では異端とまでされた所以である。
成功も失敗も神へと近づく僅かな一歩とするのが航空機開発であり、科学という名の巡礼であるとされた。
私はそのような環境で持ち合わせていた適性を伸ばした。
誰に教わらずとも数式は私の中で組み上がり、倉庫に転がる古ぼけたエンジンの改良型を思いつき手近な紙に書き散らせば、それは指導講師の最新の設計図と合致した。
神学校の教師陣の推薦により、十二の歳には翼院へと移った。三年後には、私自身の名で気圧補正翼型の特許を取った。次の年には飛行中に雷に機体を打たれても電流を外殻づたいに逃がす機構を考案した。これはさすがに院の推薦は得られず、付き合いのある民間の機械商経由で軍に図面を譲り渡した。
だが、それが縁で後にアンタイオスに関わることになった。
私が翼院の次席となった頃、私は過給機の改良により航空機の上限高度を10セクまで引き上げることに成功した。天空宮のお座す高度である。天昇会の幹部からはこれは神の御許への大きな一歩だと称賛を得たが、その高度からの天空宮への水平方向のアプローチは失敗に終わった。
精霊の哨戒は天空宮の下方のみならず横側がその範囲であることが分かったのみである。エイトン価の高いガソリンエンジンを用いる以上、この聖域を越えることは許されないことが改めて自明となった。
ヴァルデン政府がアンタイオス建造への協力を求めてきたのがこのときであった。
求められたものは明白だった。軍用兵器でもって天空宮へ昇るという前代未聞の行為に、聖性のお墨付きを与えること。それによって国内の動揺を鎮めること。
それと翼院の持つ特許と技術のいくつかがその建造に必要だったからである。
教会上層は当初これを拒んだ。神の宮殿へ俗人が踏み入ることに聖性を与えるなど、教義の根幹を裏切る行為である。聖典によれば正しき者だけがその栄誉に包まれるのだから。だが政府は交渉の場に一つの約束を置いた。建造に協力すれば、いずれ教会の人間も乗艦させる、と。
この約束はていのよい餌だったろう。だが天昇会にとって、それは抗いがたい精霊の並べる食盤であった。学問によって神の元へ還ることを千年説いてきた宗派である。その手の届く場所に、初めて具体的な階が架けられたのだ。断れるはずがなかった。
もとより私自身が触れてみたかったのだ。科学の最高峰たる神の技術、天賜遺物である反重力結晶に。
故に政府への協力の条件として天昇会からも技術者を出向させることを約束させれば、私自身がその一員として乗り込んだ。
その先の交渉の結果、私が手にすることができたのは元の結晶塊からいくつも切り出された破片の一つに過ぎなかった。それでもその小さな結晶片は一つの工場を丸ごと動かせるほどの電力を呑み込み、プレハブの実験小屋そのものを軽々と宙に浮かせてみせた。指の腹に収まるほどの欠片がそれだけの力を秘めている。神の摂理はまだ我々の眼差しの及ばぬ遥か先にある。その事実に私を震えを抑えられなかった。
政府は我々にこの神秘の欠片を与えて黙らせるつもりであったのだろう。だが私はこの結晶の破片内部の磁性方向のわずかな変化に電圧の違いによる法則性を見出し、外部からの磁性の整列装置を作って結晶の出力を十二パーセント引き上げた。
その数字を報告してから、私の扱いは一変した。教会から資金と便宜を引き出すための体裁の良い名誉職としてではなく、アンタイオス開発の主要メンバーの一人としてヴァルデン政府から直接名を呼ばれるようになった。
二年後にアンタイオスが完成したとき、その乗員名簿に私の名が加わることとなったのは天昇会と世間への見せ金として聖職者を一人は乗せておくという体裁のためだけではなかったろう。ヴァルデン政府としては神を盲信する原理主義者よりも、内部構造を把握した技術者を一人加えたつもりであったろう。
それでもヴァルノー本教会にとっては、神の宮殿へ至る最初の一歩に教会の人間が立ち会うという事実こそが重要であった。教義上の議論に決着がつかぬまま、アンタイオス浮上のその日、私には天路司教の位階が与えられた。この称号が生者に与えられるのは私が初めてのこととなる。
天への路を拓く者。聞こえのいい称号であるが、実際に私が一年以上をかけて進めてきたのは浮揚プラットフォームの三号機であるアンタイオスを精霊の目をごまかすために改装することであった。
高度8セクにある境界線。武器に転用できる一切を排除する精霊の門を突破するために、アンタイオスはそこまでを従来のガソリン発電機で反重力結晶に莫大な電力を注いで浮上する。そして8セクより上はアンタイオス上部の円盤状の分離甲体のみが上昇を続ける。直前までに最大限に電力を注入した反重力結晶は、重量を1/5に減じた円盤部をおよそ9セクまでの上昇を可能とし、そして残りの距離は非効率ながら蓄電池の力押しで達する。そのような計画であった。
子供の理屈。いやまさに子どもだましに等しいが、国家予算の相当な割合と多数の技術者の労力が注ぎ込まれた。
そして、それは成功した。
天空宮がヴァルデンの上空を巡礼したのと同時、アンタイオスは浮上した。各国の攻撃にさらされながら、さらにはハミングバードの特攻をも受けながら、分離甲体は精霊の門を抜けた。
操舵室の厚く曇った窓の向こうに、ポッドの形をした精霊がアンタイオスと共に浮上しているのが見えた。神の門番が人の屁理屈に騙されて我々を見逃しているのだ。
周囲の技術官や乗員たちはどよめき、本当に通ったのだと、ついに乗り越えたのだと口々に漏らした。
私は計器の数値が予測値から外れていたことに気づき、隣の制御官に告げた。
浮力偏差が計算値より二分ほど大きい。姿勢制御はそちらで拾えているのかと。
制御官は高揚した顔でつまらないことを命じられたという態度をとった。いま成し遂げた奇跡の前に、なぜ些末な数字を追うのかと言いたげだった。
その数値に意味があったと分かったのはアンタイオスが天空宮にたどり着いた後のことである。
分離甲体が逆山を越えたとき、まさに機体の正面に開けた一帯が見えた。左右を木々に囲まれた草地であった。
導かれるように機体はその神の庭へと進められた。
そこで機体の速度計が小さく揺れた。結晶体の横向きの出力は変えていない。それなのに対気速度だけが一瞬、鈍った。まるで目に見えない水の中を通り抜けたかのような、ぬるりとした抵抗。
窓に張り付いていた観測手も、ガラスにぶつかったようだとわずかな光の揺らぎを報告する。
神話にある透き通る帷であった。
この暴風吹き荒れる高度10セクの世界で神の安寧を守るための防壁。
事実、着地の後に我々が恐る恐る機体から降りれば、そこには温かな春の空気があった。
踏みしめた足元には草が茂り、周囲には名も知らぬ木々が枝を伸ばし、小鳥が飛び交っている。栗鼠と思わしき小動物が地面を跳ねていた。人の匂いを一度も知らぬかのように我々を恐れなかった。分離甲体が停止するための排気音にも逃げる素振り一つ見せなかった。
そこへゴーレムが姿を現した。
地上の伝承で語られる通りの、鋼色の巨躯である。果たして神に仕える彼が我々をどう迎えるのか。皆が緊張に身体をこわばらせたが、ゴーレムは我々に一瞥もくれず、ただ黙々と庭木を見回っていた。
長い手で地面を撫でるように梳き、木の上の鳥の巣に伸ばしたのは落ちた卵を戻したのだろうか。巨躯に似合わぬ繊細な仕草だった。
我々の存在などその眼中に一切なかったようだった。栗鼠がその足元をかけ回るのには歩みを止めるのに、全権代表や軍人たちの呼びかけにはまるで見向きもしなかった。
栗鼠に誘われたようにゴーレムはそばの森の中に消えていったので、残された我々は銀色の宮殿へと向かった。
そこには聖典の既述通りの精霊の住まう街と神の宮殿があった。
地上からの観測ではその縁に輝く銀色の建造物の輪郭しか捉えられていなかったが、その様式は地上のいかなるものとも違っていた。
細い根元から伸びた支柱が天に近づくにつれて笠のように広がり、その先端に丸みを帯びた棟が乗っている。
と思えば途中途中に幾何的な多角形や波線型にはり出したビルディングが立ち並ぶ。
それらの間には環状の透明な筒がいくつも伸び、宙に浮いたまま緩やかな弧を描いて隣の棟へと吸い込まれていく。支える柱の一本も見当たらない
地上であればどれほど華美で荘厳な城であっても、そこには物理と建材との緻密な計算が読み取れたが、ここにはあたかも絵師がこうあれかしと思いつくままに筆をふるったかのような現実の制約の痕跡の一切が見受けられなかった。
まさしく神の技術でしか成し得ない光景があった。
そして同時に私たちは気づき始めていた。
その整然とした宮殿は外周の僅かな一画だけであったのだ。その先は無残に崩れ、瑠璃色の断面を晒していた。
試みに一人の兵士が命じられて崩壊区画に入ると、数歩も進まぬうちに息ができないと胸をおさえよろめきながら戻ってきた。
宮殿を守るはずの透明な帷が先の区画で損なわれているのが明らかであった。
そして無傷の清澄な区画も、そうと見れば塵一つも落ちていないことが異様であった。神の風雅によって保たれているのではない、誰も使っていないからの清閑なのが明らかであった。
ときおり最初に現れたのと同じゴーレムが宮殿を歩いているのを見るが、やはり我々に関心を向けることはなく、ただ決められたであろうルートを巡回しているだけであった。破れた帷に近づいた一体もただ折り返しただけであった。
誰かがはっきりと口にした。
それは10年前に天還の滝が途絶えたときであろうか。いやそれよりはるか昔、千年以上前の顕現の日のときであろうか。
神はもういないのだと。
その一言に誰も返答はしなかった。ただその言葉が全員の胸の内に深く染み込んでいるのが分かった。
皆は息をのみ、しばし一行はその場に立ちすくんだ。
そこへ兵士の一人が建物の中に黄金の装飾品を見つけたと騒ぎ立てながら走ってきた。まるで商店に並ぶ林檎のように無造作に棚に置かれていたという。
考えなしに現物を提出してきた兵士であったが、通りがかったゴーレムがそれを咎めることなく素通りしていったことで皆は止まらなくなった。
いや、それは最初からの計画だったのだろう。
全権代表はヴァルデン政府としての命令を発した。
価値あるものを探せと。
むろんそれは黄金や宝石などではなかった。
神話にある穂なき槍や、太陽の火に焼けぬ皮衣、天から地上にまで伸びる銀の紡錘、山を飲み込む名無きの壺。天賜遺物のような地上に落ちた僅かでも社会を一変させる力があったのだ。ここにはそれらが無造作に置かれているはずなのだ。
兵たちは宮殿に散らばっていった。
酸素ボンベと頭部完防マスクをつけて崩壊区画にも入っていく。
私は全権代表に近づいた。
彼は私の姿に怯み、だが凄むような顔をつくった。
私が神への不敬を糾弾すると思ったのだろう。
しかし私は一人、アンタイオスに戻ることを告げた。
すると彼は私を憐れむような目で見た。神無くとも国を背負う自分には為すべき指針があるが、教会の人間である私は信仰の支えを失ったのでしょうからと、そんなことを言った。
私にとってはやはり雲の中に神はいなかったのだと、幼い頃からの確信をただ確認したにすぎなかったのだが。
アンタイオスに戻った私は一人の少女と出会った。
分離甲体の下部にある配管点検用の外部区画、そのハッチが半分開いており、確認のために近づけば中から人のうめき声が聞こえてきたのだ。
そこにいたのは加圧服に身を包んだ赤毛の若い少女であった。
肩口のひまわりのワッペンに書かれたハミングバードの名前を見ればその正体は自明だった。高度8セクでアンタイオスに取りついたハミングバード機、そのパイロットであると。
恐らく彼女はハミングバードでアンタイオスを爆破しようとでもしていたのだろうが、そこで上部の分離構造に気づいて計画の失敗を悟ったのだろう。そこで単身、分離甲体に忍び込んだというわけである。
なんとしてもヴァルデン政府の企てを阻止しようと。
あまりに短絡的な試みであった。
配管の抱える熱で最悪は免れてはいたが、高度帯の外殻で冷え切った身体は凍傷寸前であった。
それでも意識を取り戻した彼女はそばの補修用の工具を突きつけ、私を指揮官のところまで連れて行けと脅かしてきた。
私は教会の司教であると名乗り、治療が先だと告げた。
物音を聞きつけてやってきた居残りの兵士に対し、私が機器の点検だと告げて追い払ったことでようやく少女は工具を降ろした。
私はハッチ内に置かれた応急処置用の救急用品で手当をしながら、少女に責めたてられていた。
神に仕える身なのに、神を私物化しようとするヴァルデンに協力するのか、そんなにも神に会いたかったのかと。
私は神はいなかったと答えた。
所属で言えば軍人であろう彼女だが、傍目には街中で友と着飾って騒いでいるのがお似合いの少女が神の不在をどう受け止めるのかを知りたかった。
少女はあっさりとした表情で答えた。
ここにはいなかった、ただそれだけの話だろうと。
彼女は続けた。
自分は飛行機乗りだから。飛行機乗りはみんな知っている。雲の中に神様なんていないって。何百回も突っ切ってるんだから、そんなの当たり前なんだと。
だけれども、こんな広い空を、ネジが緩んでいたり銃弾が掠めただけで墜落してしまうちっぽけな翼で飛ぶことを信じられるのは、雲の中に神様がいることを知っているからだと。
その守りがあることを空を飛ぶ者なら誰もが信じていると。
その矛盾した素朴な信仰を語った少女の顔が、かつてのシスターのものに重なった。
精緻な論理に裏付けられたのではなく、ただ自らの善性のままに神の教えを語った彼女に。
シスターの紐解いた聖書の一節は誤謬に満ちていて、彼女が問い聞かせた神の言葉は長い歴史の中で正典に混ざり込んだ民衆受けするだけの寓話にすぎなかった。
だが彼女自身は神の愛を無条件に信じていて、その一端を私に分け与えんとしていたのだ。私にとってはそれこそが―――神学校で学んだ正しき教義よりもはるかに―――救いだった。
そのときになって私は自分がすべきことに気づいた。
技術者としての自分はここまでたどり着いたことで役目を終えた。
神官としての立場ならば神の不在に発狂しているだろう。
ヴァルデン国民としてならばこれから帰還するアンタイオスがもたらす繁栄を喜ぶのだろう。
だが幼きあの日、シスターに祈りの捧げかたを教わった私にはやらねばならないことがあった。
私はそれを教えてくれた少女を草地におろした。
そこへ森から出てきた栗鼠が寄ってきた。
少女はあんたはこんなところにもいるんだ、と言ってかぢかんだ手を差し伸べた。栗鼠はその指先に触れ、匂いをかぎ、腕を這い上って肩先に立った。
少女が面白がってポケットから取り出したひまわりの種を与えれば、栗鼠は何の疑いもなしにかじりだした。
栗鼠は種を平らげると満足したとばかりに小さくきゅっと鳴いた。
あんたがあのお友達を呼んだの、と少女は言った。
見れば森からゴーレムが近づいてきた。まさか本当に栗鼠が呼び寄せたわけではなかろうが、今度はそのゴーレムはまっすぐに我々の元へとやってきた。
そしてゴーレムは膝を折り、その巨躯には不似合いなほどゆったりとした動きで少女の顔を覗き込んだ。頭部の大小3つの紅い眼の瞬きは彼女を気遣っているかのようであった。
治せるのか、と私は思わず口にした。
その言葉に反応があった。
ゴーレムの巨大な長い腕、そこに埋め込まれた薄い石板に刻印が浮かんでいたのだ。それは姿を表したときには無かったはずなのに。だがそれよりも私を驚かせたのは、その刻印が文字であったことである。
それはヴァルデン語に翻訳すれば『状態の時間を戻しますか』となる。
この状況であればそれが意味すること。
私は頼むと答えた。だがゴーレムは動かない。
そこで石板の端に二つの刻印が浮かび上がっていたことに気づいた。是と否を意味する文字。
私は是を指差し、頷いた。だがそれでもゴーレムは動かず、もう一度はっきりと指させば、その先が印に触れた瞬間に石板は最初の真っ平らに戻った。
ゴーレムの指先が淡く光り、その光が少女の手先や足先に向けられた。時間にしてほんの数分だったろう。
それだけで彼女の死につつあった細胞は元に戻った。
少女の凍傷が、たとえそれが初期状態だったとはいえ、何の薬も処置もなしに癒されたのだ。
私はあっけにとられ、少女は無邪気に足先だけで立ってみせると、ジャンプをしてゴーレムに抱きついた。
感謝と愛の言葉――――市政の少女が気取った映画に感激したときに発するような――――を浴びせられ、ゴーレムの右腕の石板には『状態は未来で完了する』の刻印が浮かんだ。
まだしばらくは経過を見る必要があるそうだと伝えると、少女はなんで神様の言葉が読めるのか、神官だからなのかと聞いてきた。
私はそうだと答えた。
実際には神官であっても知る者は多くはあるまい。
それは天昇会派に伝わる開祖の残した覚え書きに記された文字だった。会を興した弟子たちによれば神と精霊が用いる文字だという。
教導師の位に至ったものの内、真理の梯子に足をかけたと認められた者のみが閲覧を許される、秘儀とされるものだ。
そこに書かれているのは天へ昇るための神の技法である。その一端でも理解に至れば、地上と天空宮への隔たりは赤子の一歩に等しくなると。
私も翼院での業績を評価され、閲覧を許された。
天昇会の始まりからの千年以上、これまでの閲覧者たちが書き加えてきた注釈と翻訳とが幾重にも重なった写本を。
つまりのところ、それは技術書であった。
初期には開祖の哲学が物体になぞらえたものと解釈されていたが、時代が下るにつれ、それが比喩などではなく純然たる技術について記されたものなのだと、理解されるようになった。
原子より小さい物質から星を回転させる動力を取り出す方法、ぶつかり合う金属を互いに通過させる方法、太陽を閉じ込め携帯させるランタンの構造、等々。
たしかにその一つの表層だけでも実現すれば天空宮へ至るどころか、それそのものを自ら作ることすら可能であろう技術の数々である。
今の我々にはその概念すら掴めぬ次元の。
私にできたのは原子より小さい物質が、アネニスの物質学会で提唱された核構造理論につながりがあろうという注釈を入れただけであった。
それでもその覚え書きは開祖が神より手ずからオグの種を与えられた証であると、ある種の名誉として習うことが許された。
私がゴーレムの腕にある石板の刻印文字が読めたのはそういう理由であった。
そして私はこのゴーレムならば望みを叶えらえるのではと考えた。
私がそれを口にすると、石板が名前を問うてきた。
戸惑っていると石板に神の文字の全てが一覧となって刻印された。
これは神の用いる符号盤やタイプライターであろう。
ところが我が名前をどう綴ればよいのかが分からない。
少女が、なら自分の名前は刻めばどうかなどと言った。彼女の名前はミルクに由来するという。神様だってミルクは飲むはずだから、それで通じるんじゃないかなどという。
たしかに神の文字でのその言葉は覚え書きに存在していたが、まさか彼女の名前を使うわけにはいかず、結局私は神の文字で綴れる唯一の名前を選んだ。触れた文字が上部にも刻印されていく。
刻まれたのは開祖の名前であった。
この名ならば神と精霊に通じるやもしれない、いやそもそもあるいは彼こそが。
事実、その名前によってゴーレムは動いた。
石板に様々な言葉が並んだ。
その中で『繰り返す歩みの状態』に触れると、隣に他の言葉が並ぶ。私は『眼を二つ解放』を選んだ。
覚え書きの注釈によればそれは警戒を意味する。
果たして、ほどなくして小さく悲鳴が聞こえてきた。
大きな破壊音が続いた。
私がゴーレムに願ったのは、彼らを止めてほしいというものだった。
なぜこの宮殿に残るゴーレムたちが神の神器の強奪を目にしながら、何も咎めようとしないのか。それは神の不在の証明に他ならなかったが、私は彼らに自身の役目を思い出せと、その本分に立ち返れと呼びかけたのだ。
次第に喧騒が近づいてきた。
散っていた兵たちがここまで逃げてきたのだ。
だが上空に張り巡らされた円筒の一つが開き、郵便管から吐き出される書筒のごとくに丸まったゴーレムが排出された。身体を開きながらゴーレムは地面に降り立つと、神器の数々――――結局はそれが一番手近だったのか多くは金銀宝石であったが――――を抱えた兵士たちに襲いかかった。
兵たちは成果を放棄し、唯一帯刀を許されていた儀礼用に擬した軍刀を必死に振り回した。しかし古に万の軍勢を一蹴したゴーレムがたかが数振りの刃を相手に、その足を止めるはずもなかった。
長い腕の一薙ぎで軍刀は砕かれ、兵士自身も小石のように弾き飛ばされた。
黄金の器とともにその一歩に踏み潰された。
とうに全てを投げ捨ていた何人かが分離甲体にまでたどり着いた。
すでに再稼働を済ませていた分離甲体はハッチの昇降板を伸ばしたまま浮上を始めた。
昇降板や外殻に必死にしがみつく兵たちをそのままにゴーレムの長い腕も届かぬ高さに急浮上した分離甲体であるが。
数体のゴーレムの3つの目が回転した。紅い目から光線が走った。何本も。それはまるでナイフでバターを切ったかのように分離甲体を細かにした。
一瞬の落下の挙動と同時に分離甲体は爆発した。
我々は、少女と栗鼠と共についてきたゴーレムとは、それら全てを森の中で見ていた。
やがて神の庭は静寂を取り戻した。
あれほどいたゴーレムはどこにその巨体を収めたのか、もはや見当たらない。
少女は言った。
あんたはこれでよかったのかと。
軍人たちの略奪を止めるのは彼女の望みであったろうが、その一方的なまでの排撃の光景に気を動転させているのは明らかだった。
私はそれには答えず、地上へ帰ろうと言った。
アンタイオスの残骸の中に使えそうなものがあった。展開式のグライダーである。元より帰還の形が定かでなかったアンタイオスには、このような乗員と神器だけでも地上に降ろすための設備はいくつか積み込まれていた。
爆発四散した中でも何とか無事に使えそうなものを見つけ、少女の前で広げた。
少女は使い方など教えるもなく理解し、羽根の形状から取れる滑空距離や耐風力を見抜き、自分の帰還ルートを算出してみせた。
現在時間からの天空宮の座標を考え、南東に抜ければ友軍に合流できるはずだと。
それなりの装備はしていても凍傷からあけたばかりの手足である。高高度で複雑な操作など至難の業である。だがこの娘ならばやってみせるのだろうと、そう信じさせるものがあった。
天空宮の縁までグライダーを引っ張っていけば、 栗鼠がゴーレムの背中から少女に飛び移った。
あんたも一緒に来てくれるんだ、と喜んだ少女はスーツの胸元を開いて栗鼠をその中に収めた。
きゅうきゅうと温かさにか栗鼠が声をあげた。
最後に礼を言って私の名前を尋ねてきた。
私は自分の名前を地上に伝える気はないと答えた。
そう、と少女は寂しそうに言った。
聡い子である。私が地上に戻るつもりはないことに気づいていたが、その意思を邪魔をしようとはしない。
天空宮の縁に立ち、少女は進路を定める。見えぬ帷の向こうの風の流れが掴めているようであった。
やがてよしとタイミングを口にすると少女はグライダーを空に浮かべた。まるで鳥の羽根が空に流れるかのようにふわりと流れていったそれは、あっと思ったときにはすでに下方に豆粒のように小さくなっていった。
私は天空宮が彼女の向かった先とは反対方向に距離を進むのを待って、ゴーレムの石板に手を伸ばした。
先ほど石板が刻んでみせた言葉にはさらに剣呑なものがあったのだ。
『小さき雷の束帯』と。それは開祖の覚え書きにある流星を撃ち落とすことすらできる矢として理解がされていた。そして天から放たれるのならばそれは我々の言う裁雷であろうと。
開祖の名前ならばその神の雷を放つことができるのだ。
あの少女は私がこの天空宮に残る理由を何と思ったか。仲間を裏切った贖罪であるか、地上での報復を恐れてか、いや真っ当な神官であればせめて神の御座所で最期を迎えたいと願うのが自然と思ったであろうか。
だが私が地上に帰らなかったのはこのためであった。
私がすべきことはアンタイオスの乗員の略奪を止めることではなかった。
それは通過点にすぎない。私が望んだのは神として振る舞うことであった。
地上に、あの日、私の手を取ってくれたシスターに、神がここにいると示すことであった。
神学論争など経ずとも、私は雲の中に神がいるなど信じてはいなかった。その事実に誰より衝撃など覚えていないのが私だった。
だがシスターは違う。
親や神官に説かれるままに神が雲の中にいると信仰するシスターは。
私は彼女たちの信仰を守るために神の実在を騙ろうとしたのだ。
神の寝所を暴かんとした不届き者は罰せられた。
それを企てたヴァルデンも神の怒りをかった。
だから裁雷を落とされる。
そうしてシスターは安堵するだろう。
神様はいらっしゃるのだと。
だからいい子にしないといけませんよと、きっと今も哀れなはぐれ子に雲への祈り方を教えているだろう。
神の雷は是を三度押すことで放たれた。
衝撃は無かった。全身の毛が逆立つ感触がして、周囲にある帷が光ったことでそれと知れた。
この雷で地上がどれほどの被害を被るのか。
時からすれば何もない山々に落とされていようが、その火力によればどこまでが削られるのかは分からない。
私はいまさらながらにその事実に恐れを感じた。
だから石板に天空宮の高度の上下を見つけると、すぐに上昇を選んだ。
雲のない今の天空宮が、地上を見なくてもすむように。
それにそれは必要なことであった。
すでに高度10セクは人の領域となった。
ヴァルデンの次はアネニスか、イルミアか。いずれ次の人間がここに来るだろう。だから今度こそ人の到達できない高度にまで上がろうと。月ほどの隔たりならば人の手が届くことはないだろうと、私はその数字を刻んだ。
天空宮は全体を小さく振動させると、ゆっくりと、いや実際には天空要塞など比べ物にならぬ速度で上昇を始めた。
全ての雲を突き抜け、空の色が藍から、深い紫、そして黒へと沈んでいった。それでいて、まだ昼間だった。太陽は変わらず高い位置にあるのに、周りには星が見える不可思議な光景であった。
だがそこで上昇は止まった。
高度40セク辺りの成層圏だろう。
私が望んだのはもっと上であったが、石板が停止の理由を示していた。
住人の生きるための守りといった言い回しであった。
それが私のことであるのならば、どのみち食料のない環境では長くはない。強行を願おうとして気づいた。
住人とは私ではない、この小さな森や草地に住む花や植物に小動物たちのことなのだと。
多くが崩壊した神の宮殿で、最期に帷に守られたのはこの区画なのだ。
神と精霊がここだけはと残したであろうのが小さな庭だったのだ。
私は石板から手を離した。
ゴーレムがもう満足したのかと言わんばかりに紅い目を瞬かせた。
私は頭を下げ、ゴーレムから離れていった。
もうゴーレムは私の後をついてくることはなかった。ふと振り返れば代わりに小鳥がその肩に止まっていた。
草地を歩きながら思う。
この高度ならばいつの日にか人類は再び訪れることだろう。
すでにアネニスのHVRならばその半分までを可能としている。
だがそれならばそれもまた神の残された意思なのやもしれぬ。そう思った。
まさに神は人が梯子をかけるのを待ち望んでいたのだろうか。
私は神の庭を抜けた。
崩壊区域との境に立つと、兵たちの落としていった酸素ボンベと完防マスクをかぶった。そして帷を通って崩壊した宮殿の中の部屋に入った。
何もない部屋である。
だがそれがよい。私はここを自分の最期と決めた。
そうしてここまでを記した。
神の力を振るい、神を騙った男の告解である。
いつかこの帳面を開く者に裁きを委ねる。
もう神はいないのだから。




