21 天還の滝『合衆国海軍大佐 E・J・マーロウ 遺書』
『合衆国海軍大佐 E・J・マーロウ 遺書』
フェルナンド神父様へ
私、エドワード・ジョセフ・マーロウは、合衆国海軍に三十一年を捧げました。士官候補生として海軍学校を卒業した日のことを今でも覚えています。国旗の前で国と国民への忠誠を宣誓した時、私は本心からその言葉を信じ、またその言葉に恥じぬように務めてきました。
タルキアの海賊軍から商船を守り抜きました。時化の中で座礁した友軍船から乗組員二十三名を救出しました。ボーツ海域でヴァルデンの潜水艦部隊を沈めたときは、官邸で大統領への拝謁が許されました。
表沙汰にできない任務がありました。互いに旗を掲げぬ船と争いました。封鎖された水域に潜り込みました。敵機を隠し積んだはずの貨物船を沈めたことすらあります。
それは軍人であれば誰しも経験することでしょう。私はその度にこれは国のためであり、我が子らの未来のためであると自分に言い聞かせ、また実際にそう信じることができました。勲章を受け取るたびに、私はその重みに値する仕事をしたと思っていました。最後の一つを除いては。
私の最後の任務は新造の潜水艦の艦長への就任でした。
それは記録上、深海域における新型推進機関の性能評価のために建造された試験艦とされていました。まさしくそれは既存の潜水艦を凌駕する潜航深度と推進力を見せました。
深度計の針が旧式艦なら祈祷を始める領域へ入っても、船体はほとんど軋みませんでした。過去に多くの潜水艦を沈めた海底峡谷をものともせずに通過して推進力を証明しました。
私が開発者たちを称賛すると、ヴァルデンのおこぼれなのだと吐き捨てるような言葉が返ってきました。
それを聞いて私は納得しました。ヴァルデンの恐るべき航空兵器グレンデルは、やはり巷で噂されるように、おとぎ話に語られる天からの落とし物に由来していたのでしょう。
この新しき潜水艦もその切れ端から生み出されたのだとしても。その成果でもってヴァルデンの暴威に対抗できるのであれば、それこそが私の忠誠の向かう先であると肩の星を誇りに思いました。
そうして試験と改修を繰り返す日々の中で、私はこの艦がいずれ実戦に出ることを察していました。試験艦であれば引退間近の士官や、担当部門によれば逆に新任の士官が割り当てられるはずです。ところがこの艦に当てられたクルーは違いました。私が長年かけて育てた者を含め、各方面から引き抜かれた最も腕の立つ者ばかりでしたから。
当然それは空を支配したヴァルデンを海から対抗する任務であると信じていました。
ですがいよいよ改修を終え、数字ではなく正式な艦名が記された新造艦と我々に降されたのは、ヴァルデンの防衛線を破るのではなく人が踏み入ってはならない聖域を侵犯せよという命令でした。
あなたならばきっと私が犯した罪はもうお分かりでしょう。私たちの乗る潜水艦と多くの支援艦が向かったのは一年前のゼロポイントだったのです。
そうです。あの日、天柱雲の影下に天還の滝が開かれたとき、我々はあの場所にいたのです。
我々が流砂状海域の外周に位置したとき、同じ場所には天昇会の教会船が並んでいました。
一年に渡って船の侵入を拒む流砂状海域が僅かに凪ぎ、やがて逆転して海水を天空宮に届ける天還の滝。天昇会の敬虔な信徒たちはその短い刻に海域の中心を目指し、天に昇る激流に自らの船ごと呑まれ神の御許へと召される恩寵を待ち望んでいたのです。
私たちも天還の滝が昇るときに合わせてやってきました。
ですが私たちが目指すのはその海の底でした。
そこには莫大な海水を天へと届ける神の築かれた機構があったのです。
グレンデルはまさにその機構を利用した兵器であり、その一部でもを盗み出すためにあの新造艦は作られ、私たちが集められたのです。
それこそがヴァルデンから空を取り戻す唯一の手段でした。
ヴァルデンが建造中の航空兵器の二号艦が、報告書通りに長距離移動能力を備えていればアネニスも旧大陸と同じ運命を辿るでしょう。
国と国民を守るために我々は神のものへ手を伸ばしたのです。
作戦は天空宮が近づく頃、哀れな天昇会の信徒たちへの攻撃から始まりました。
支援艦隊が教会船と、そこから降ろされ出発準備中の何艘かのボートに向けて砲撃を加えました。それは船にもボートにも当たることがないように、ですが信徒たちが流砂海域へと逃れざるをえないように調整されていました。
彼らは我々の冒涜を許しはしないでしょうし、作戦のためには海面の流砂の変化を見る必要があったのです。口封じと測量ブイ代わりに彼らは流砂に呑み込まれていきました。
私たちは艦内のレーダーでその流れをつぶさに捉えていました。
程なくレーダーの海流図が一変しました。渦を巻いていた流砂が、まるで大きく息を吸い込むように内側へ収束し始めたのです。天還の滝の前兆でした。海が天へ自らを捧げようとしている、その準備の刻でした。
海面は凪ぎ、ですが海底ではまた別の暴風が吹き荒れています。しかしその渦の中にはわずかに中心へと向かう流れが生まれたのです。
教会船の残骸が舞う流れを避け、我々は縫うように底を進みました。
やがて海底に、ひとつの丘が見えました。
丘というよりは、何か巨大な神殿が儀式のためにその天板を開いた、そのような有り様でした。
幾何学模様の走った白い板が入り組まれた神殿は、乱雑しているようでありながらそこに神の定めた調和が成っているのは明らかでした。
何よりそこは生きていたのです。海底ならば堆積物に覆われているはずが、神殿の石板の上には砂の一粒も積もっていませんでした。数百年数千年をそこに在り続けながらも勤勉な堂守が箒をかけ続けていたように。石と石の継ぎ目にも、丸みを帯びた縁にも、海藻一本、貝一つ付いていないのです。数千数億の時間が幾層にも重なっていくはずの海底にありながら時間が止まっているかのように。
そうです。この新造の潜水艦の最たる特徴は小さな耐圧観測窓が付いていたことでした。双眼鏡程度の視界でしたが、濁りのないこの海の底ならば遥かを見通すことができたのです。
あの光景を見ることができたのは私と観測長のみでした。それはせめてもの救いというべきでしょうか。真に己の罪を理解したのは私たち二人ですんだのならば。
私は艦の前進を命じました。
艦は神殿の中央に向かいました。
そこには巨大な白亜の円蓋が据えられ、周囲に枝状の柱が何本も立っていました。葉は茂らずとも、それは冬の静かな木立の中に建つ教会を思わせました。
その上方には幾筋もの巨大な海流が、その根本が集まっていました。
まさに海上の流砂状海域はここで生み出され、今また新たな潮流に組み替えられようとしていたのです。天に神泉を導こうと。
それを目にしながら。
私はクルーにアタックを命じました。
観測長が声を振るわせながら針路と俯角の微修正を指示しました。
最も外側にあった、小さな枝分かれの少ない柱に向かい、成形炸薬を用いた特殊魚雷が発射されました。
塵一つない神殿にこのとき初めて白い粉塵が舞いました。音響探査が柱の反応を返します。
攻撃手が寸分違わず同じ箇所に魚雷を撃ち続けました。
攻撃手が全ての弾を使い果たしたと告げました。それでも柱は何一つ変わらない姿で立っていました。
観測長の報告に攻撃手が泣き出しました。
それは神への暴挙が遂げられなかったことへの安堵だったのでしょう。
ですが艦には神に向ける炎の槍がもう一つ残されていました。あの艦には本来の潜水艦にはあるはずのない衝突角が付いていたのです。
全推進力をもちいた衝突が柱にぶつけられました。
艦が衝撃に震え、操舵室にいくつもの悲鳴が重なりました。私も頭をぶつけ、額から流れた血が片目を塞ぎました。
しかしもう片方の目で、私は見ました。
柱がゆっくりと折れていくその様を。
柱は艦首区画に仕込まれた回収槽に取り込まれていきました。
私が命じたはずですが、そのときのことは覚えていません。ただ胃の腑が裏返るような感覚と己の手の冷たさだけを覚えています。
柱の回収が完了したとの報告が届いた、まさにそのときでした。
上部の海流が一変したのです。
それまで神殿の上空で一つの大きな奔流に束ねられようとしていた水流の根が、再び多くの流れに乱れ、荒れ狂いだしたのです。
同時に観測長が叫びました。
何かが近づいてくると。
先の衝突など比べ物にならない衝撃が艦を叩きました。私は椅子ごと壁に叩きつけられました。計器が飛び、破裂した油圧管に部下が腕を焼かれました。警告音が重なり合い、どれが何を告げているのか判別できません。
二度目の衝撃が来ました。
艦が大きく跳ねあがりました。
文字通り一回転したはずです。どこかに叩きつけられ、激しく揺れた艦内に観測長の首がへし折られました。それでも艦は折れずにスクリューを稼働させ外壁ががりがりと擦れる音がしました。
私は観測窓に這い寄りました。
暗く濁った海の中に、三つの赤い光がありました。
それが何であるかは分かりません。ですがただ直感しました。あれは神殿の番人に違いないと。愚かな盗人を見逃すまいと燃え立つ、憤怒の眼であると。
私は祈りました。
神の裁きを前にして。
ですが次の衝撃は艦を上方へ引き上げました。
乱れた海流に呑み込まれたのです。
我々は聖地の生い茂る木々の小枝を奪ったつもりでしたが、神の機構は決してそのわずかでも欠いてはならないものだったのでしょう。それまで引き込むばかりであった流砂の海は艦を排出するように作用したのです。
番人は追ってはきませんでした。
海面へと浮上した我々が見たのは支援艦の壊滅でした。
私たちの行いによって流砂状海域が広がっていたのです。その外周に位置していたはずの友軍船は既に呑み込まれ、あるいは今も恐るべき速度で渦にかき回され、と思えば半壊して中身のない戦艦が海中から飛び上がり、また沈んでいきました。
我々をすくいあげた海流が彼らには逆に働いたのです。
そこから抜け出すことができたのは我々の艦だけでした。全ての元凶でありながら複雑怪奇な海流の迷宮となった海域を脱出したのです。
我々はそのまま西へと針路をとりました。
無線には海域に囚われた友軍からの悲鳴が届いていましたが、一切の応答を行いませんでした。
それは我々の帰還が最優先だったからではなく、天空宮がそのとき正に海域に静止したからです。
あれほどのことをしながら、私はその影下に入ることがたまらなく恐ろしかったからです。
カルタ島への推進のために艦は浮上させねばなりませんでしたが、私は艦橋に上がることはできませんでした。その眼差しに射抜かれるくらいならば空調が壊れた艦内で息を殺すことを選んだのです。
ですから天還の滝が天空宮へ届かなかったことは後から知りました。
神父様。
先ほど、今年も天還の滝が昇らなかったと新聞の号外が届けられました。
流砂状海域は大きく乱れたまま、凪ぐことがなかったそうです。
世間はさほど慌てていないようです。昨年の薄い影に慣れてしまったのでしょうか。
新聞は今年からシャドーシーズンではなく、更衣の季と呼ぶことを提唱しています。
教会は、これをかつての顕現の日とは異なるものだと説いています。
天空宮が雲の衣から顔を見せたのは、かつて人が犯し、神がその瞼を閉ざした原罪が赦されんとする兆しなのだと。
人々も今はこれを奇跡だと受け止めています。
稀に覗ける天空宮の全景を捉えようと望遠鏡が売れています。
御姿を最も鮮明に捕らえた絵葉書がもう何枚も送られてきました。
もしかしたら千二百年前と同じように、また雲は戻るのかもしれません。
それは数年後でしょうか。私はそれまでの数年を耐えることができません。
いっそ天空宮が訪れない南へ逃げようとも思いました。
ですが私は国家と国民に忠誠を誓った軍人なのです。
この国と国民の手を永劫の歴史に汚してしまった身でありながら、己ひとり逃れることはできません。
ですがここに留まり、やがて訪れる薄明るい影に身を浸すほど傲慢ではないのです。
神父様。私がこの手紙をあなたに送るのは、あなたが海軍司令部附従軍司祭だからです。あなたが軍の人間でありながら神の言葉を預かる者だからです。
あなたがこの手紙を告解とするのか告発とするのか。それは分かりません。
いずれにせよ更衣の季が来るまでに終わるでしょう。
それだけが、いまの私に残された願いです。
神と国と国民のために
E・J・マーロウ 1253年10月23日
※本テキストは永遠の箱の編纂委員による個別登録区分から採取したものである。




