16 暗闇の中で『影の下で、我々は何を忘れたのか』
『ヴァルデン・ツァイトゥング』1244年4月15日朝刊・社説
【影の下で、我々は何を忘れたのか】
先週、天柱雲が帝都の上空を渡りその影が正午の街を包んだまさにその時、街は不意の停電により灯りを失った。
街灯は消え、走行中の路面電車は線路上に立ち往生し、手術中の病院からは悲鳴が上がった。配給を待つ行列では混乱に乗じた小競り合いが起き、闇に紛れて暴徒に晒された商店もあった。
戦火は止んだとはいえ、終わりの見えぬ猛烈なインフレと物資不足に喘ぐ帝都において、灯りまで奪われることはもはや神に見放されたという疑念さえ生じさせたことだろう。
だが思い返してほしい。ほんの二十年前は影傘の暗がりは静かに過ごす時間であったことを。
工場は機械を止め、商店は戸を下ろし、人々は家に戻って蝋燭の灯りでもってこれまでの一年を省み、来たる一年の平穏を願い、神へと祈った。
しかしいつからか帝都を送電線が覆うようになれば、人々は影を照らすことを神に捧げる献身と考えるようになっていった。
電灯が街路を照らし、工場はコンベアを止めず、路面電車は定刻通りに走り、家庭では競うように窓に彩影灯を飾り付け、ラジオからは軽快な音楽を流しつづける。
影の時でさえ昼を続けることこそが文明なのだと誇り、いたずらに天をライトで灼かんとした。
終戦ののち我々は多くを失った。海外の領土も、誇りも、豊かさも失った。
だからこそ乏しい燃料をやり繰りし日々の生活を切り詰めてでも、せめて天が来臨する間だけはと、街中を不自然なほどの光で満たす。それが敗戦で傷ついた我々のせめてもの意地であったのかもしれない。
その心情は大いに理解できるものである。
だが我々は本質を見失ってはいないか。
もう一度繰り返そう。天柱雲の到来は我らに静なる祈りの時間をもたらすものであり、その静寂こそが我らの魂を癒やすことができるのではないのか。
今の帝都に必要なのは新しい発電機だけではあるまい。神の腕に抱かれる安らかな暗闇をもう一度思い出すこともまた必要なのではないか。
きっと来年の天柱雲が影光を照らすとき、我らの生活は平穏を取り戻していると信じよう。だがあえて照明の紐をひき、かつての祖父母たちのように暗がりに祈りを捧げようではないか。
真の復興とは電線の復旧ではなく、闇の中に我ら一人一人が心に消えぬ火を灯すことから始まるのだ。
なお当日の第一報で本誌は停電の原因を帝国工業技術院の爆発事故による送電網の断線と報じたが、その後の調査で停電自体は帝国電力公社の発電機の老朽化によるものであると判明した。工業技術院の事故は停電によって農肥用アンモニア合成装置内に留まったガスに引火した偶発的なガス爆発であると判明している。改めてここに訂正しお詫びする。
論説委員 エーリヒ・ジャイル




