15 雲の向こう側『ヴァルデンを落とした英雄の真実』
『ヴァルデンを落とした英雄の真実』
(イルミア王国軍当局により50年の公開を禁じられた証言記録)
空を飛びたかった。ただそれだけだった。
子供の頃の俺は日が暮れるまで原っぱで空を見上げて過ごしていた。
雲の形を一つ一つ覚えて、鳥が群れて飛んでいればその端っこに自分も付いていこうと駆け出し、何度もけがをした。
やがて雲と鳥に交じって音を立てて飛ぶ機械のことに気づくと、街外れの飛行場に通い詰めるようになった。学校が終われば毎日のように錆びた金網にへばりついては焦げたひまし油と排気ガスの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
銀色に塗られた機体がガタガタと土の滑走路を蹴ってふわりと宙に浮かび上がる瞬間を、飽きもせずいつまでも眺めていたんだ。風防越しに見える油まみれのパイロットたちに手を振って、いつか自分も彼らと同じように雲の向こう側まで飛んでいくのだと信じて疑わなかった。
だが俺が大人になる頃には翼を持てる仕事は軍にしかなかった。だから空軍に入った。だから大勢を殺した。
誰より速いから敵兵を逃さずに機銃で掃射した。誰よりも鋭く旋回できるから敵機を撃ち落とした。誰よりも高くを飛べるから地図に印をつけて砲兵部隊の的にした。
毎日のように飛行機に乗った。だけど空は飛べなかった。
子供時分の空想では空に上がれば世界の全てが手に入るはずだったのに、そのころの俺はただの軍という仕組みの一つにすぎなかった。広大なはずの空には、効率的に敵機を撃ち落とし高射砲を避けるためのレールが決められていた。
それでも俺は飛行機から降りることはなかった。
そうして二年が経って前線がヴァルデン近くまで押し上げられた頃、俺は短い休暇を与えられた。
天柱雲が近づいており、敵も味方もその通過後に大攻勢をかける手筈で今しばらくは双方に動きはないはずだという空気が前線全体に漂っていた。
俺は滑走路の脇の草むらに寝転がり、地平線を真っ二つに分断するように迫ってくる、その途方もなく巨大で分厚い白雲の柱を見上げていた。
そして、ふと思ったんだ。
あの天柱雲の中を飛びたい、と。
高度8千の神の領域。あの中に入った者は、神の雷槌に撃たれて二度と帰ってこないという。
そうでなくたって普通の積乱雲だって暴風に機体が引き裂かれるんだ、あのサイズならあっという間だろう。
だけどそいつはとびきりの空への挑戦に思えた。たとえそれで命を落とすんでもそれが冒険ってもんだろうって。
俺は整備班を極秘任務だと騙して乗機から余計なものを全て引っ剥がした。
二丁の機関銃と重たい弾薬箱、座席裏の防弾鋼板、通信用の無線機、さらにはひどくかさばる大型コンパスに至るまで。エンジンと翼だけの空を飛ぶための機体になった。
俺はそいつに乗って滑走路を飛び出した。
まっすぐに天柱雲を目指し機首を上げた。
余計な重しの無い機体はまるで別の生き物のように軽やかに空に舞い上がった。操縦桿を握る手に、機体が切り裂く風が直接伝わってくる。
陽光が翼の上面で白く弾け、眼下に広がる雲海が金色に輝いていた。
子供の頃に憧れていた空の景色だった。その中を俺自身が手を広げて空を飛んでいたんだ。
やがて高度6千を越えたあたりから空は生命を拒絶し始めた。
気温は氷点下をはるかに下回り、風防にはびっしりと霜が張り付いた。分厚い革の飛行服を着ていても骨の髄まで凍りつくようだ。気圧の低下で息ができず、俺は唯一もちこんだ酸素ボンベの硬いゴム管を必死に咥え、ひび割れた唇から薄い空気を肺に流し込んだ。
希薄な空気の中でエンジンは苦しげに喘ぎ、激しく脈打つ自分の心臓の音だけがヘルメットの中に響く。肉体は悲鳴を上げていたが、心は恐ろしいほど澄み切っていた。自分の命が燃え尽きようとしている悲鳴が空に響くことがたまらなく誇らしかった。
高度7千。
視界の端が暗くなり始めた。指先の感覚はとうになく、操縦桿を握っているのかどうかも分からなかった。それでも機首は上を向いていた。
高度8千。
限界を超えたエンジンが断末魔のような金切り声を上げたその瞬間、ついに機体は分厚い天柱雲に付随する小さく厚い雲の一つへと突入した。
視界が灰白色で塗りつぶされ、凄まじい乱気流に機体が揺さぶられた。雷光が断続的に光り轟音が耳をつんざく。
機体が真っ二つになるか、雷に撃たれるのか。俺はじきに訪れるはずの死の瞬間まで、それでもその上を目指した。
そして気付いたんだ。俺の周囲に何かがいることに。
そいつは人間くらいのサイズのホーロー引きのポットのような形をしていた。上の方には赤い硝子の三つの目玉があった。取っ手みたいな枠が二つあってその中に薄い膜が張っていて、羽根を連想したが羽ばたいてるわけじゃあない。どういう科学だかそいつが数体雲の中を浮いていたんだ。
そこで初めて気付いたんだ。風の音が聞こえないことに。雷も消えていた。厚い雲の中だというのにただ霧の中を飛んでいるかのように穏やかだったんだ。
三つの赤い目が揃って俺を見ていた。
じいっと機体と俺とを見定めるように。まるで丸裸にされているようだった。
どれだけ視線に晒されていたのか、すっとポットたちの目玉の赤色が消えた。
がつんと機体が揺れた。
そう思った瞬間に俺は雲を抜けていた。
息を呑んだ。
そこは途方もなく巨大な空間だった。
天柱雲はまさに衣だったんだ。ぐるりと雲の壁に囲われて、その上から柔らかな日の光が注がれていた。
雷雲なんてなかったように静寂な空間だった。
そしてその中心、俺の頭上には逆さまの山が生えていた。中心に巨大な山があって、その周囲に六つの小さな山が取り囲んでいた。
わずかにその端に銀色の輝きが見えた。
天空宮だった。
何千年も昔からただここにあり続けていたんだろう。雲の中に隠れ続けて。
きっとこの下で人間が殺し合っていることなんて、神様はこれっぽっちも関心はないんだ。俺はその事実に怒りも悲しみも覚えなかった。
空の上にいればちっぽけな人間の争いなんてどうでもよくなるなんて、とても当たり前のことに思えたから。
どれほど長くその光景を見上げていたのだろうか。
不意にエンジンが咳き込み始めた。回転が落ち、上がってまた落ちた。極限まで薄くなった空気にとうとうエンジンが限界を迎えたんだ。プロペラが力なく空回りを始め、機体はふっと揚力を失った。
機体が落下していく。ポットたちまで。
そのときになってこいつらは神話に言われる精霊なんだと気づいた。
突然の乱入者を警戒しにきたというわけだ。
律儀に俺を見送ってくれるんだと笑いが漏れた。
再びの雲の衣はあっという間に通過した。
雲を抜ければそこにはヴァルデンの爆撃機の編隊が飛んでいた。
前方の爆撃機の2機が今まさに爆弾を放出しているところだった。
精霊から赤い光線が放たれた。
爆撃機が落とした爆弾ごと爆発した。
気づけば俺は病院のベッドの上だった。
どうやってパラシュートを開いたかは覚えていない。
俺は英雄になっていた。ヴァルデンの奇襲を防いだと言われて、いくつもの勲章を渡された。
そいつは今も引き出しの中にある。一度も着けたことがない。
俺にとってあの最後のフライトは自分が空を飛ぶためのものだったからだ。
ヴァルデンの爆撃機を道連れにするためでも、国を守るためでもない。
俺はただ空を飛びたかっただけなんだ。




