第六章 怪獣の外側
誕生日からしばらくして、気づけば新学期が始まっていた。
相沢との連絡は、以前よりさらに「波」がはっきりしてきた。数日間、ほとんど何も来ないこともあれば、夜遅くになって突然、
〈今日、会えない?〉
とだけ送られてくることもある。
ある日、バイトが終わってロッカー室で着替えていると、スマホが震えた。
〈今から会えない? 駅の近くにいる〉
時計を見ると、夜の十時をまわっている。明日はゼミがあるし、発表の準備もまだだ。
〈今日はちょっと……〉
そう打ちかけて、指が止まる。
〈どこにいますか〉
送信ボタンを押したあと、しばらく後悔した。でも、その後悔は、相沢と顔を合わせた瞬間、どこかへ消えてしまう。
ある週の終わり、ふと気づくと、「相沢からの連絡が来ていない日」が、初めて一日できていた。朝も昼も夜も、スマホは静かだった。
胸の奥底では、「嫌われたのかもしれない」という恐怖が膨らんでいく。
翌日の夕方、ようやくメッセージが届いた。
〈ごめん、昨日、スマホ壊れかけてて。いろいろバタバタしてました〉
「心配していた」という言葉を、私はあえて書かなかった。書いた瞬間、自分がどれだけ彼に依存しているかを、自分で認めてしまう気がしたから。
友達とのランチのとき、何気ないふりをして、連絡頻度の話をしてみた。
「一番しんどいのは、"会う"のも"連絡"も、全部向こうの都合になってくるとき」
友達の言葉に、私の手が止まる。
「向こうの機嫌次第で呼ばれて、こっちから誘うと"忙しいから"ってかわされるようになったら……それ、けっこう危険信号」
帰り道、私は頭の中でチェックリストを作る。連絡の頻度。時間帯。誰の都合で会っているか。そのどれもが、少しずつ相沢の側に傾いていることに、薄々気づいてはいた。
でも、認めたくなかった。
――だって、この人は、私が初めて好きになれた人だから。
その一点が、全ての違和感に蓋をしてしまう。
その夜、部屋でレポートを書いていると、本棚の隅に目が止まった。去年の冬、友達にすすめられてなんとなく買った本。「自分の人生を取り戻すためのノート」。
買ったときは、「自己啓発っぽいな」と思って数ページで閉じてしまった。今は、タイトルが、少しだけ胸に刺さる。
ぱらぱらとめくると、「恋人を最優先にすると、自分がいなくなる」という見出しが目に入った。「彼の予定に合わせるために、自分の予定を後回しにする」という例が並んでいる。
――これ、私だ。
スマホを手に取る。相沢とのトーク画面を開く。スクロールしていくと、自分がどれだけ「空いてます」「大丈夫です」「合わせます」と言っているかがよく分かる。
胸の中で、じわじわと恥ずかしさが広がる。
――私、なにやってるんだろう。
その素朴な疑問が、今までどんなアドバイスよりも強く響いた。
机の上に小さなノートを開く。ページの真ん中に線を引いて、左側に「今まで」、右側に「これから」と書いた。
左側には、自分の一週間の行動を書き出していく。
「相沢から連絡 → 予定を空ける」
「相沢に呼ばれる → 夜遅くても会いに行く」
「相沢の機嫌が悪そう → 自分から話題を振る」
書き連ねていくほどに、そこにあるのは「私」ではなく、「相沢の予定を管理する係」だった。
右側、「これから」の欄は、なかなかペンが進まなかった。それでも、ゆっくりと、いくつかの言葉を置いていく。
「自分の予定を先に決める」
「会いたくないときは、断る」
「返事を急がない」
当たり前のことを書いているだけなのに、まるで大それた宣言をしているような気分になる。
スマホが震いた。
〈今日はもう寝る。おやすみ〉
今までの自分なら、すぐに「おやすみなさい」と返していただろう。でも、その夜は、あえて画面を閉じた。
心臓の鼓動が少し早くなっているのを感じながら、それでも意地で、布団の中から手を出さなかった。
翌朝、深夜一時過ぎに届いた相沢からのメッセージが表示された。
〈寝ちゃった? おやすみ言ってもらえないと寂しいな〉
――寂しいのは、こっちのセリフなんだけど。
〈昨日はスマホ見てませんでした。おはようございます〉
罪悪感から出る「ごめんなさい」を、意識して削ぎ落とした。
その日、授業の合間に、大学の掲示板に貼られていたサークルのチラシに足を止めた。
「イラスト・創作サークル メンバー募集」
――そういえば、私、絵を描くのが好きだったんだ。
高校の頃までは、授業の合間にノートの端っこに落書きをしていた。大学に入ってからも、最初の一年はスケッチブックを持ち歩いていた。相沢と出会ってから、その存在を完全に忘れていた。
授業が終わったあと、本屋に立ち寄る。安いスケッチブックを一冊手に取った。
帰り道、スマホが震えた。
〈今日、夜空いてる?〉
相沢からだ。
ノートの右側、「これから」の欄に書いた言葉を思い出す。
「会いたくないときは、断る。」
私は、ゆっくりとメッセージを打ち始めた。
〈今日はちょっと予定があります〉
送信ボタンを押すまでに、三十秒くらいかかった。
すぐに既読がつく。
〈そうなんだ〉
それきり、しばらく返事は来なかった。
たった一文の「NO」。それだけで、世界が少し変わった気がする。
――断った。
家に帰り、部屋の机にスケッチブックを広げる。窓の外の景色をそのまま写してみた。線はぎこちないし、バランスも悪い。それでも、鉛筆を動かしている間だけは、相沢の既読マークのことを考えなくてすんだ。
ノートを開いて、「会いたくないときは、断る」の横に、小さくチェックマークをつける。
たった一つのチェック。でも、そこには、これまでの自分にはなかった種類の達成感があった。




