ニッケスタックの闇
『評議会室』は、重苦しい沈黙に包まれていた。――今しがた、調停局局長が資料を見ながら詳細を説明したニッケスタック子爵家の現状が、あまりにも常軌を逸していたからだ。
「よもや、このような非道がまかり通っていたとは……」
「先代子爵とは、個人的にも親交があった。ニッケスタックの窮状を見過ごしていたとは、亡くなった彼に顔向けできぬ」
海千山千の貴族たちが言葉をなくすほど、かの〝資料〟に記された現実は、重い。……他でもない、ニッケスタック子爵令嬢の聞き取りを元に作成されたものゆえ、なおさらに。
――そう。現ニッケスタック子爵の詳細について、調べたのは監察局ではない。遡ること年末、『年迎えの夜会』前日夜に行った情報共有の場で持ち上がった、「ニッケスタック子爵家について、ルネッサからそれとなく聞き出す」というタスクを、ヨランダは堅実に実行してくれていたのだ。
古参貴族家であり、永世中立の立場にあるユーストル侯爵家の令嬢であるヨランダは、ルネッサと入宮以前からの顔見知り。穏健保守であるニッケスタック子爵家のことはヨランダもよく知っており、当然ながら彼女の父や兄とも話したことがある。先代のニッケスタック子爵は、当代の母でもあった最初の妻を早くに亡くしており(もともと、あまり体が丈夫でなかったようだ)、男手一つで嫡男である当代を育てていたところ、若く気立ての良い男爵家の令嬢と知り合い、紆余曲折を経て再婚した。その男爵令嬢がルネッサの母であり、つまり当代とルネッサは異母兄妹ということになる。ルネッサが生まれたとき、当代は既に成人間近の十四歳だったという話だから、先代子爵はひとまず息子が大きくなるまで、子育てを優先したと言えなくもない。
ヨランダの記憶する先代の子爵夫人は溌剌とした笑顔が印象的な女性だったが、夫の死後は見る影もなく憔悴し、夫の墓近くにある小さな邸宅にて、墓守のような暮らしを送っているらしい。既に跡取りは立派に成人を迎え、妻帯すらしているのならば、先代の妻である己は家に不要である、と。
彼女が把握していたニッケスタック子爵家の事情はおおよそこのような感じであり、特に不自然な部分はなかった。未婚の娘がまだ家にいる状態で、母親である先代夫人が領地の、本邸ですらない粗末な別邸に住んでいるという一点はやや引っかかるけれど、愛情深い夫婦間で先立たれた側が墓守化するのは、男女問わずままあること。ルネッサはしっかりした娘だし、母も娘の嫁ぎ先探しより、夫の御霊の安寧を祈る方を優先させたとしても、さほどの違和感はない。
だから、誰も、気付かなかったのだ。
――ニッケスタック子爵家の、その歪さに。
「……あぁ。あの男、とうとう王宮が看過できない馬鹿をやらかしましたか」
ヨランダが密かにルネッサと繋ぎを取り、貴族らしい遠回しな話法でニッケスタック子爵について尋ねると。
ルネッサは何かを察した様子で、一瞬にして表情から彼女らしい曖昧な笑みを消し、光の消えた瞳で、昏く、低く、呟いた。
これまで見たことがないルネッサの変貌にヨランダが息を飲む前で、彼女は深々と頭を下げる。
「私如きが謝罪したところで何がどうなるわけでもありませんが、一応は血の繋がった身内のことです。鈴蘭様にはご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」
「あなたに謝られることは何もないわ、ルネッサ。……それにしても、らしくない言葉遣いね。わたくし、あなたがそのように直截な言葉で話すのを、初めて聞いたわ」
「それは……つい。申し訳ありません、失礼をいたしました」
「失礼なんかしてないから、もう謝らないでね。わたくしも貴族話法には慣れ親しんでいる方だけれど、大事な話をするときは、曖昧な言い方でぼかすよりも分かり易い言葉できちんと理解しながら話したいもの。あなたがはっきり言ってくれて、むしろ安心したわ」
「……鈴蘭様」
どこか安心したように眉根を下げたルネッサへ、ヨランダは彼女の武器の一つである、〝相手の懐に入り込む穏やかな笑み〟を浮かべた。
「ねぇ、ルネッサ様。良ければ、教えてもらえないかしら。あなたが何故、兄君の罪を確信したのかを」
「その前に、私もお伺いしてよろしいでしょうか。――兄は、何をしましたか?」
「……現段階では物証もない、単なる疑惑に過ぎないけれど。それでも良ければ」
「構いません」
すっと背筋を伸ばし、暗いながらも覚悟を決めた真っ直ぐな眼差しでヨランダを見つめるルネッサに、いつも『牡丹派』のサロンで見せていたどっちつかずなぼんやりした気配はない。おそらく、彼女の本来の姿は〝こちら〟だろう。
ルネッサが、厳しい現実もありのまま受け止められることを確信したヨランダは、下手に隠すことも言葉で取り繕うこともなく、これまで明らかになっているニッケスタック子爵の〝あれそれ〟を伝えた。
一通り聞き終わったルネッサは、深く、深く、嘆息する。
「スタンザ帝国と手を組んで、王国に乱を起こそうと企む方々の一派に連なり、ニッケスタック家の派閥的立ち位置を利用して革新派貴族の煽動役となるなど、諜報工作の主軸を担う……ですか。いつかはとんでもない馬鹿をやらかすだろうと思っていましたけれど、考えつく限り最悪の方向へ振り切れたみたいですね、あの男は」
「……言葉の割に、あまり驚いている感じじゃないのね」
「物心ついたときから、あの男に振り回される両親を見てきましたから。両親というか、主には父ですけれど。致命的な馬鹿をしないよう、首根っこを引っ掴んでいた父が亡くなって五年……よく保った方なのでしょうね」
諦念の滲んだ瞳で静かに呟き、ルネッサはヨランダを見る。
「先ほどのご質問に、お答えしましょう。〝何故、兄の罪を確信しているのか〟――答えは一つ、〝そういう人間だと知っているから〟です」
そう切り出したルネッサの打ち明け話は、どす黒い貴族の裏側を見知っているヨランダをしても、吐き気の堪えられないものであった。
――当代ニッケスタック子爵。彼は、幼い頃に抱きがちな〝根拠のない万能感〟を砕かれないまま大人になった典型のような人物であるという。自身はこの世で最も優れた人間で、世界は己をもっと重用して然るべきで、〝そう〟なっていない現状は即ち世界の方が間違っていると、確たる根拠もなく思い込んで生きているそうだ。
彼の生育歴に目立った瑕疵はない。早くに亡くした生母も、父である先代ニッケスタック子爵も、彼が雇った乳母も家庭教師も、皆々立派な大人だった。だから、誰が悪いわけでもないが……強いて言うなら、育った時代と場所が、悪かったのだろう。
先祖代々、穏健保守派であるニッケスタック子爵家は、実のところ付き合いのある貴族家の幅がかなり広い。相当に主張の偏った革新派とはさすがに距離を置いているが、保守派のほぼ全てと中立派、一部の革新派と〝顔見知り〟だ。ある程度〝深い話〟をできる相手は限られるにせよ、社交の場で顔を合わせて挨拶とちょっとした世間話をできる関係性を構築している貴族家ならば、相当数に登る。それは、クレスター伯爵家ですら例外ではない。
要するに。幼い頃から〝ニッケスタック家の次代〟として顔見せをしていた彼は、顔の広い穏健保守貴族の人脈を利用したい誰かしらにとって、実に〝見つかりやすい〟存在だったのだ。根拠のない万能感に満ち、自己顕示欲が人一倍強い若者を、都合の良い思想に染め上げて利用するくらい、老獪で狡猾な者たちにとっては朝飯前。彼の思考と思想は年々極端になり、先代子爵が危機感を覚えたときにはもう、取り返しのつかないところまで染まっていた。
「エルグランド王国は、この半島全てを手中に収めた偉大な国だ! 海向こうや山向こうの野蛮な国と関わらなくても、この国は素晴らしい! むしろ、野蛮な国との付き合いは、我が国の格を下げるだろう。父上も日和見を止めて、王国から異国を追い出そうと勢力的に活動している方々の元へ集うべきだ!!」
ルネッサが物心ついたときにはもう、ニッケスタック家内は支離滅裂な主張を喚き散らす〝跡取り息子〟と、「相変わらず馬鹿なことを。お前はいったい、学院で何を学んできたのだ」と冷静に息子を叱責する父子爵のやり取りが響く、安息とは程遠い場所と成り果てていた。彼女がごく幼い頃は学院の寮で過ごしてきた異母兄も、卒業すれば家へ戻り、子爵家後継として本格的な勉強を始める。父に付き従い、領主の仕事を学べば学ぶほど、兄は父への反発心を隠さなくなった。
「波風立てることを恐れてばかりでは、理想の世界へ人々を導くことなどできない! 何故、父上には分からないのですか!」
「お前の理想とする世界は、今のエルグランド王国と国王陛下が辿ろうとしている国の未来から掛け離れている。国王陛下のご意志に背くような愚かな真似、私の目が黒いうちは断じてさせぬぞ」
「愚かなのは父上の方だ! 国王陛下のお考えが間違っていたら、そのお考えこそが国を滅ぼすものであったら、どうなさるおつもりなのですか!」
「いい加減にしないか。世界の広さも深さも知らぬ、若造の分際で。陛下も人である以上、間違うことがないとは言わぬ。――だが、エルグランド王家の方々が、王国の未来に関し、取り返しのつかないほどに〝間違える〟ことは、ない」
「なぜ、そんなことが言い切れる!」
「エルグランド王国を〝半島の覇者〟へ導いた立役者――〝黒衣の軍師〟の加護が健在である限り。この国が、悲惨な結末を迎えることは決してなかろうよ。アスト王から爵位を賜ったニッケスタックの者として我らが為すべきは、いつの時代も変わりなく、エルグランド王家が恙無く統治できるよう、支配階級である貴族たちの融和を図ることだ」
「意味が分からない!!」
「日和見、事勿れとお前は私を馬鹿にするが。権力構造が著しく入れ替わる王宮内で、派閥上は保守に属しながら、派閥に囚われることなく貴族間を渡り歩くことが口で言うほど容易くないことは、やってみれば分かるだろう。力の強い者、声の大きな者に迎合し、長いものに巻かれる方がよほど容易く、己の頭で物事を考えずとも生きられる。――だが、ニッケスタックが保守の立場で均衡と融和を重んじるからこそ、守られているものも確かにある」
「父上が何を言いたいのか、俺にはさっぱり分からない! 結局、父上は、自分の立ち位置を、持っているモノを無くすのが怖くて動けない、臆病者じゃないか!!」
「……もはや、お前には何を言っても無駄か。主義主張を声高に叫ぶのは結構だが、お前がその歪んだ考えを改めない以上、家を継がせる訳にはいかない。――ルネッサは十をいくつか過ぎたばかりだが、それでもお前よりは世の中の道理と、ニッケスタックが守るべきものを理解している」
「――っ、まさか、父上。俺がいながら、男爵令嬢ごときが生んだあの小娘に、」
「勘違いするな。エルグランド王国は長男相続が基本といえど、誰を後継に定めるか、その最終決定権は当主にある。お前の母親が伯爵家の出だろうと、ルネッサが成人前の娘だろうと、どちらが次期当主に相応しいか、決めるのは私だ」
……季節外れの嵐が王都を直撃したある日、雨音に紛れて書斎で異母兄と父が激しく言い争うのを、ルネッサは扉の陰でこっそり聞いていた。雷が怖くて眠れず、父の難しい本でも読んで眠気を誘おうと書斎を訪れたところ、ルネッサに気づかず入ってきた二人がそのまま口論を始めてしまい、出るに出られなくなったのだ。
言い負かされた異母兄は何やら喚きながら書斎を飛び出して行き、彼が去った後、ルネッサは二人の話を盗み聞きしてしまったことを、一人残された父へ詫びたのだが。
「……聞いていたか。仕方ない。これもまた、巡り合わせだろう」
咎めることなく苦笑して、父はルネッサの頭を撫でてくれた。
その、すぐ後である。――友人たちの父より少し老いてこそいたが、まだまだ働き盛りであったはずの父が、食事中に胸を押さえて倒れ、人事不省に陥ったのは。
「――ねぇ、ねぇ待って。それって、」
「私だけでなく母も、それどころか使用人皆が疑いました。……けれど、父が倒れてしまった以上、家中を仕切る立場となったのはあの男です。かろうじて医者はニッケスタックお抱えの者を呼べましたが、彼にも父が倒れた原因は分からないとなれば、踏み込んでの調査などさせてもらえるわけがないのは火を見るより明らかでした」
あの嵐の夜の会話をルネッサが聞いていたことは、彼女と父だけの秘密。異母兄は書斎に二人きりだったと確信している。そして、あの会話を知る人間が自分以外にいなければ、いくら不仲とはいえ息子が父に毒を盛ったとは疑われない。……彼は、そう計算したのだろうけれど。
「書斎での会話を知らずとも、父が兄の先行きを憂慮し、後継として不安があると考えていたことくらい、家中の者は皆察していました。察せていなかったのは、いつだって見たい現実しか見ようとしない、あの男くらいです」
「で、しょうね。……それで、真実は闇の中へ葬られてしまった」
「いちおう、あの日父が食べた食材は記録していますし、残食分も処分される前に確保できるだけはして、北の領地に保管してあります。ニッケスタックの領地は北方にあり、夏でも氷が溶け切らない氷室を有しておりますので、そこで凍らせて」
「あらまぁ。やるわね、ルネッサ様」
「……単なる未練です。父が倒れてから六年近く、今更氷から食材を取り出したところで、成分を具に解析するなど不可能でしょう。頭ではそう分かっていても、父の想いを、願いを受け継げなかった未練が、私に〝あの日〟を捨てさせてくれないのです」
自嘲を吐き捨てたルネッサだが、今回ばかりは未練がましくしがみついてくれたことが功を奏している。……ヨランダはディアナの〝異能〟を詳しく知っているわけではないが、彼女なら現物さえあれば、時間経過などものともせず、食材内に混入した〝本来あるはずのない異物〟を察知できるはず。
詳細は伏せ、ヨランダは毒物解析ができる人に心当たりがあると話し、なるべく早く、凍った〝あの日〟の食事を王宮へ届けて欲しいと伝えた。ルネッサは驚いたものの、父の死の真相を暴くためならと、力強く頷いてくれる。
「氷室の管理は、母に任せています。母に知らせれば、考えうる限り最速で、王都まで〝あの日〟を運んでくれるでしょう」
「お母様がお家を離れたのは、お父上のお墓と〝真実〟を守るため、だったのね」
「……それもありますが、それ以上に母の尊厳を守るため、です」
――先代子爵が倒れた際、異母兄は独り身であった。まだ父が彼を見限っていなかった十代後半から二十代半ばまで、三度ほど婚約をまとめはしたが、ことごとく破談となっている。父が選んだ婚約者たちはいずれも聡明な令嬢で、異母兄の中身が伴わないプライドの高さと男尊女卑思想を察し、それぞれが婚約解消となるよう動いたのだ。こんな男と結婚したら地獄まっしぐらと素早く判断した彼女たちは賢い。
最後の婚約が破談になる頃には父も異母兄に期待を寄せなくなり、縁談話が持ち上がることはなくなったが、彼はそれが密かに不満だったらしい。父が倒れ、言葉を交わすことも難しい状態へ陥ると、異母兄は事もあろうに、義母であるルネッサの母へ迫った。――父が死んだら、自分の妻となるように、と。
確かにルネッサの両親は年の離れた夫婦であった。父と結婚したとき、母はまだ二十歳を一つ二つ超えたばかりの若い娘であり、年齢だけなら父より異母兄の方が近いのは間違いない。
が、しかし。年こそ離れていても、母にとって父は真実愛する伴侶であり、異母兄は血こそ繋がっていなくとも息子。男として見たことなどあるはずもなく、再婚など考えつきもしない相手であった。
加えて、母の外聞の問題もある。エルグランド王国の貴族社会において、夫の死後、新たに家督を継いだ義息子と再婚する女性がいなかったわけではないが、その女性の多くが貴族家夫人の立場を手放したくない強欲な人物であった。ときには調停局が出てくるような修羅場を繰り広げた歴史的背景もあり、現代では義理の息子と再婚する女性は周囲からあまり良く思われない。それとなく、しかし確実に距離を置かれて社交界から爪弾きにされるだろう。
そういった諸々を、母は言葉を選んで説明し、あなたの妻にはなれないとやんわり断ったのだが。
「俺は、初めて逢ったときから、あなたの美しさに惹かれていた! 父より早く出逢えたら、間違いなく、俺たちは結ばれていたはずなんだ。少し遅くなったけれど、愛ならこれから育めば良いじゃないか!」
案の定、母の話は異母兄に、一欠片も理解されることはなかった。
幸いだったのは、彼にも最低限の良心と倫理観があったらしいことだ。父親が生きている間に妻を寝取るのは良くない程度の良識は備えていてくれたようで、彼は母を口説く際、常に「父上が亡くなったら」と枕詞をつけていた。――即ち、父の命の灯火が尽きるまでの時間こそ、母を逃す準備をするタイムリミットとなる。
ルネッサは信頼できる少数の侍女たちと、父の看病の合間を縫って、密かに屋敷から母を脱出させる手筈を整えた。異母兄が決して寄り付かず、また場所を探り当てても到達しずらいところとなると、母の避難先は自然と限られる。
最終的に、母の行く先は、ニッケスタック領の北端にある、別邸と呼ぶのも烏滸がましい小さな子爵邸に決まった。ニッケスタック領最北端といえば、寂れた神殿がある他は閑散としており、食事は近隣の村で採れた野菜中心、肉や魚は滅多に出ない贅沢品という土地柄。そのため、れっきとしたニッケスタック領にも拘らず、異母兄はその地を毛嫌いしている。加えて道も悪く、単騎で訪れるならさほど気にならないが、馬車となると乗って辿り着くだけで苦行。馬に乗れない異母兄では、仮に母の所在を掴めたところで、馬車に揺られてまで行こうとは思えないだろう。
別邸の修繕や馬車の手配など、逃亡準備を密かに万端整えて。母を逃すために頑張ってくれた……かどうかは不明にせよ、人事不省になって数ヶ月はベッドの上で生き続けてくれた父が、ついにその命の終焉を迎え。
いざ葬式となったところで、新たな子爵となった異母兄が言い出した。
「父上のご遺体は、ニッケスタック領の北にある神殿に埋葬する。あそこにも子爵家の墓はあるんだ、問題ないだろう」
各貴族家は通常、本領邸に最も近い中心街――家によってははっきり〝領都〟と設定しているところもある――に、家の冠婚葬祭全般を任せるアルメニア神殿を置いている。なのでもちろん、そのアルメニア神殿に隣接する形で、領主一族の立派な霊廟がある。ニッケスタック子爵家もその例に漏れず、本領邸近くの街に歴代の当主とその妻が眠る霊廟がちゃんと建てられている。
最北の神殿もニッケスタック領内であるからには、領主に敬意を示す上で領主一族の御霊を祀るための墓は備えているだろう。しかしあくまでも形だけで、これまでニッケスタックの人間が、しかも当主を全うしたほどの人物が、最北の神殿に納められた前例はなかったはず。大方、殺した父親の遺体を、領地に帰ればすぐ目につく場所へ置いておきたくないのだろう。
普通なら「父親への敬意がない!」と強く非難すべき暴挙だが、今回に限っては渡りに船。ルネッサと母は言葉でこそ難色を示したものの激しく反対することはせず、新領主に押し切られた形で父を最北の神殿、その敷地内に立つニッケスタック家の御霊を祀る小振りな霊廟の下へ埋葬した。
「あの人を、こんな寂しい場所で、独りにしておけない……! ルネッサ、私はここに残ります。王都のこと、家のことは、あなたに任せたわ。お兄様が奥方を迎えるまで、子爵夫人の権限の全てをあなたに譲ります」
「なっ、何を勝手な!」
「お任せください、お母様。ここには神殿もございますもの。お父様の無念を弔い、ご無事にラーノス神の御許まで辿り着けますよう、お祈りくださいませ」
「な、な……っ」
――そうして、〝夫の墓を守る〟という立派なお題目のもと、母を王都から遠く引き離すことに成功したのである。
「……本当に、本当に大変だったのね。外から見るだけじゃ分からないとは、よく言ったものだわ」
「恐れ入ります。ここまでのお話全て、我が子爵家にとっては恥そのもの。お心を寄せてくださったことには感謝いたしますが、どうかお気になさいませんように」
「そうは言うけれど、ルネッサ様にとっては、ご苦労ばかりの日々でしたでしょう? 知らない仲でもなかったのだから、何かお力になれることがあれば良かったのだけれど……」
「私にも僅かながら、ニッケスタック子爵家の人間としての矜持がございます。家を守り、あの男に好き勝手させてなるものかと、我が家の内実は可能な限りひた隠しにいたしました。その結果、あれに疎まれ、後宮へと追いやられた挙句、手も足も出ない立場で家の終焉を目の当たりにすることとなった……卑怯の因果は、こうして巡るのですね」
呟くルネッサの瞳に、光はない。ここまでの話のどこに卑怯要素がと感じたヨランダだが、話を聞くにどうもルネッサは、彼女が家の実状を見事な社交手腕で取り繕った結果、騙されるように嫁いできた義姉が異母兄から酷い扱いを受けているのを、ずっと心苦しく思っているようだ。義姉はほとんど借金の形として嫁がされたようなものらしいので、ニッケスタックの評判がどうであれ断れる縁談ではなかった(事実、異母兄の結婚相手としての評判は底辺だった)はずだが、そう簡単に割り切れるものでもないらしい。
「ニッケスタックが貴族位を失い、あの男が罪人となれば、義姉は無条件で離婚が叶います。まだお若い彼女が全ての荷を下ろし、ご実家へ戻り、次こそ良縁を得てくだされば、私もようやく罪の意識なく、修道院へ入れますわ」
「落ち着いて、ルネッサ様。聞いた限り、あなたのお父様――先代ニッケスタック子爵は、あなたこそを時代の継承者として考えていらしたように思うの。もしもお父様の死が病でなく、当代が犯した罪によるものだったとしたら、あなたは不当に継承権を奪われた被害者。ニッケスタック家自体も、正当でない者によって爵位を簒奪されていたことになる。当代子爵は罪人として処されることになるでしょうけれど、ニッケスタック家そのものに類が及ぶ可能性は低くなるわ」
「いいえ、鈴蘭様。仮にニッケスタックが処分を免れたとしても、あの男によって一度でも、我が家が王国の融和を、均衡を乱したという事実は覆せません。簒奪者が行ったことであっても、ニッケスタックの名で行われた悪事は、家全体で背負うべきです」
静かで、真摯な、ルネッサの言葉。……彼女は、覚悟を決めている。
「父は、常々申しておりました。保守の立場で、保守ゆえに、貴族間の融和を第一とする。それこそがニッケスタックの存在意義であり、アスト王に見出された美点そのものだと。どのような相手とも軋轢を起こすことなく付き合い、その存在で起こりうる分断を阻止、までは難しくとも緩和する。いくつもの〝国〟の集合体であるエルグランド王国において、歴史上には決して名の残らぬ我らのような〝家〟こそが、統治の根幹を支えているのだと。家の歴史と自身の生き様に絶対の自信と誇りを持っている父を心の底から尊敬し、大きくなったら父の仕事を支えられるようになりたいと、幼い頃は勉学に励んでおりました。――その誇りを自ら汚した以上、ニッケスタックはこれ以上、王国貴族に家名を連ねるべきではございません」
「……それが、簒奪者によるものであっても?」
「あの男が簒奪者である証拠はございません。それに、一度ニッケスタックの名が〝穏健保守の皮を被った叛逆者〟の汚名を被った以上、今後ニッケスタックが、貴族間の融和を図る家として存在していくのは難しくなるでしょう。ニッケスタックはもう、貴族である所以を失ったも同然なのです」
困惑するヨランダの気配が伝わったのか、ゆっくりと言葉を紡いでいたルネッサの方が、申し訳なさそうな顔になる。
「本当に、お気遣いは必要ないのです。実のところ、私は社交も、貴族としての振る舞いも、得意な方ではありましたけれど、好きなわけではありませんでしたから。あの男が爵位を継いでからは特に、これまでは当たり障りない程度のお付き合いに留めていたようなお家との社交が大幅に増えて、辟易しておりましたし」
「えぇと、それって具体的には……」
「ベルティア侯爵家やカロッグ伯爵家、あとはザフィーラ侯爵家やランドローズ侯爵家などですわね。これまでもご挨拶程度はしていましたけれど、茶会や夜会で雑談以上の話をしなければならない状況に陥ることが増えて……異国や新興貴族家の悪口を聞かされたところで、曖昧に笑って受け流すしかありませんし、困り果てていましたの」
「それはそうよね。否定しても迎合しても、面倒なことにしかならないもの」
「後宮に入り、側室になったらなったで、上の方々の取り巻き扱いですし。紅薔薇様がいらしてからは、知らないうちに『牡丹派』の一員に数えられていて、どうしようかと思いました」
「ルネッサ様が派閥争いをそこまで厭っておいでだと知っていたら、『隠れ中立派』にお誘いしたのですけれど……」
「隠れ、中立派?」
瞳を瞬かせるルネッサへ、ヨランダは簡単に、一昨年、ディアナがやって来てからの後宮の裏事情を説明した。
話すうち、ルネッサの瞳がまん丸に見開かれていく。
「紅薔薇様が悪い方ではなく、弱い立場の方々を庇っていらっしゃることは、何となく察しておりましたが……まさか、それほど精力的に動いていらっしゃったとは」
「ディアナ様の内実も、外からでは分かり難いですからね……」
「あれほど誤解されやすい方も、滅多にいらっしゃらないと思います」
しみじみ呟いて、ルネッサはふと、微笑んだ。
「己の身の不幸を、嘆いた夜もございました。けれど、私は嘆くだけで、何もしなかった。この結末は、迎えるべくして迎えたに過ぎないのでしょうね」
「ルネッサ様?」
「紅薔薇様は、自身が誤解されやすいと知りながら、理解者を増やす努力を怠らなかった。誤解されても誰かを助けられるならと、動き続けた。私も嘆くだけでなく、隠すだけでなく、逃げるだけでなく……もっと、ニッケスタックの人間として、あの男と真剣に対峙すべきだった。そうすれば、違う未来もあったかもしれません」
どこかスッキリした表情で、ルネッサはヨランダを真っ直ぐに見つめる。
「鈴蘭様。――いいえ、ヨランダ・ユーストル様。私の話は、現当主の罪状を示す一助となるでしょうか?」
「一助どころか、強力な助けとなりますわ」
「ならば、何よりです。誇り高きニッケスタックの血を受け継ぐ者として、ニッケスタックの名を、その歴史を利用し、家名と誇りを汚した愚か者に、どうか法に則った裁きをお与えください。その結果としてニッケスタックが貴族としての歴史に幕を下ろそうとも、私は決して異議を唱えません」
深々と頭を下げたルネッサへ、ヨランダが言えることは多くない。
「……あなたのお話は、必ず外宮の、中枢に関わる方々へ届くよう計らうわ。そして、あなたの異母兄が、法の裁きから決して逃げられないようにもしてもらう。ニッケスタック家についてのご判断も、同じようにお任せしましょう。それで良いかしら?」
「充分すぎるほどのご配慮です。ありがとうございます、ユーストル侯爵令嬢様」
異母兄と連座で貴族位を失うことを確信したルネッサの礼を受けながら、ヨランダは苦く笑う。
『評議会室』にエドワード経由で届いた〝ニッケスタック家報告書〟は、こうして作成されたのであった。




