ルドルフの半生③
――あの事件から数年が経ち、ルドルフは無事、十歳を迎えていた。
「ルドルフ。話があるんだが……」
「はい、父上」
事件後すぐはルドルフを案じるあまりぎこちない振る舞いが目立った父も、年月が経つごとに落ち着き、最近は事件前とそう変わらない親子関係を築けている。よりにもよって己が雇った使用人たちが息子に危害を加えていたと知った父は、相当な衝撃を受けたらしく、一時はルドルフの周囲にいた使用人全てをクビにしかねないほどの激昂を見せていたのだ。
――直接的にルドルフを恨み、排除しようとした料理人見習いだけでなく、必要以上にルドルフの行動を制限しようとしていた侍女たちもまた、息子の育ちにおいて望ましい存在ではない。ましてや、彼女たちのルドルフに対する執着が、巡り巡ってルドルフへの悪意を育んだのだから、排除は当然である。
そんな理屈で片っ端から使用人たちを解雇しようとする父を、祖父とともにどうにかこうにか説得し、〝クロケット男爵家使用人規則〟の制定へと舵を切り換えさせたのも、振り返れば思い出だろう。
「今いる使用人を全員クビにして雇い直したところで、僕の顔が変わるわけじゃないんだから、また同じような人は出てくるよ。それならいっそ、父上や僕への接し方とか、屋敷内での振る舞い方とか、細かいところだと仕事の分担とか、そういうのを具体的に決めて、約束事にしたら?」
ルドルフ拐かし事件の内実は、事件当時クロケット男爵家の王都邸で従事していた者であれば、大体のことを把握している。件の料理人見習いの羽振りが急に良くなり、前から言い寄っていたメイドへ高級な品を渡して猛アプローチしていたことも、ルドルフが急に行方不明となりそれどころではなかった彼女に拒絶され、「あいつが居なくなれば、お前は俺を見るはずだろ!」と怒鳴りつけていたことも、割と大勢に目撃されていたからだ。ちなみに、その一件からルドルフ行方不明に彼が関与していると確信、父自らが厳しく取り調べたことで、例の犯罪組織に行き着いたらしいが、それはひとまず置いておくとして。
――重要なのは、王都邸の使用人たちの多くが、ルドルフ拐かし事件について知っているということ。従事内容や使用人同士の関係性で情報の詳細度は変わってくるが、「男爵の若君を妬み、邪魔に思った料理人見習いが、犯罪組織に若君を攫わせた」という概略だけなら、洗濯担当の下男下女でも知っている。彼らを野に放てば、〝クロケット男爵令息〟が一瞬とはいえ犯罪組織の手に落ちた事実は、あっという間に世間へ漏れ、広がるだろう。貴族としても、事業家としても、極めて望ましくない事態である。
一時の感情でそんなリスクを生むより、使用人全員が事件を知っているという状況を逆手に取り、行動を縛ってしまえば良い。仮に『主一家の容姿に傾倒し、容姿を理由に行動制限してはならない』という規則を作った場合、何も知らない者であれば、何故このような規則があるのか、まずそこから疑問に思うだろう。事情を知っている彼らであれば、少なくとも規則についての説明は不要で、規則を守る必要性、重要性についても理解が及ぶはず。拐かし事件について知りながら、なお規則に反発し、従う意思を見せない者がもし居たら、そこでクビにすれば良い。
そんな話を、祖父とともに父へ持ちかけて。元々、父がそこまで感情に振り回されるタイプでなかったことも幸いし、クロケット男爵家王都邸の使用人たちには、新たに定められた就業規則の元で働き続けてもらうことになった。クビになったのはそれこそ、直接的にルドルフを売った、例の料理人見習いくらいである。彼が好意を寄せていたメイドに関しては、どちらかといえば見習いの付き纏いに辟易し、断るためにルドルフを理由にしたという部分が大きかったようで、事情を知って自発的に邸を辞そうとする程度には真面目な女性であった。その人柄を見込んで、ルドルフの方から彼女を引き留め、数年経った今も側仕えとして働いてもらっている。
――過去を振り返り、穏やかな毎日が続く今に感謝しつつ、改まった姿勢で話を切り出してきた父を改めて見つめた。ここまで真面目な顔で切り出してきたということは、おそらく気楽な雑談ではないだろうと予想しながら。
二人の間でしばしの沈黙を数えた後、父がゆっくりと口を開く。
「……実は。結婚したい、女性がいるんだ」
「結婚、ですか」
「あぁ」
連れ合いに先立たれた男が新たな妻を娶ることは、貴族平民関係なくありふれた話だ。特に貴族家当主の場合、伴侶である〝当主夫人〟は単なる妻以上に、家内を取り仕切る〝役職〟の色が強い。使用人の管理監督から他家との交渉折衝まで、当主夫人はあらゆる家内の諸々を一手に担う。規模の大きい家になればなるほど〝当主夫人〟の存在は必要不可欠であるため、出産や病、不慮の事故などでその座が空いた場合、喪が明けたと同時に再婚する当主も珍しくないと聞く。
とはいえ、幸いクロケット男爵家は貴族としてさほど大きいわけではなく、社交にもさほど重きを置いていない。故に〝当主夫人〟が十年間空席でも、執事や侍女頭が業務を代行することで、家内は恙無く回っていたのだ。
――だから。父が結婚したいのは、貴族云々の義務的な話ではなく。
「その、結婚したい女性というのは……父上が、数年前から通っていらっしゃるという、市井に住まう方、ですか?」
半ば確信を込めて尋ねると、父の目が軽く見開かれた。
「知っていたのか」
「何年か前になりますが、使用人たちが話していたのを聞いたことがあって」
「あぁ……噂話を禁じる前に?」
「そうですね」
拐かし事件をきっかけに策定された〝クロケット男爵家使用人規則〟の中には、『主一家や訪問客の耳目がある可能性がある場所での噂話を禁ずる』という一文もある。現在邸内で働いている者の為人には父も一定の信頼を置いているから、必然的に規則ができるより前の噂話と考えたのだろう。そしてそれは、間違っていない。
「当時聞いた噂では、王都でもかなり外れ、ギリギリ治安維持圏内の下町に住まう平民の女性の元へ、父上が通っていらっしゃるということでしたが」
「まぁ……間違いでは、ないな。偶然ではあるが、以前の事件でお前が隠れていた神殿のある地区に住んでいる方だ」
「あんなところに……失礼ですが、距離的にも生活範囲的にも、あそこの住人と父上に接点はないように感じます。どのように出逢われたのですか?」
「彼女は、色々と事情が特殊でな。何度かお前を連れて行ったこともあるが、『ランスロット』というレストランがあるだろう?」
「はい」
王都にはいくつかの、貴族御用達とでもいうべき高級外食店がある。『ランスロット』は、その中でも頭一つ抜けた人気を誇る店だと言われ、ルドルフも社会勉強がてら、父に連れられ入店したことがあった。とはいえ、他人の耳目がある場所で半端な振る舞いはできず、教わったばかりのマナーを完璧にこなすことばかりを考えていたせいで、食事の味すらはっきり覚えてはいないが。
「彼女……ファニーは、『ランスロット』のホールウェイトレスなんだ。最初は単なる店員と客という間柄でしかなかったんだが、ひょんなことから個人的に親しくなる機会があってね」
「……『ランスロット』でホールを任されるほどの方が、あのような下町住まいでいらっしゃると?」
「ファニーは元々、王都でも有数の名家出身でね。身分こそ平民だけれど、教養深い女性だよ。……けれど、最初の結婚で随分と苦労したそうで、ご夫君を亡くされた後、婚家にいた下衆な男から無理な再婚を迫られ、縁を切るため逃げるように家を出て、娘さんと一緒にあの町へ移り住んだと言っていた」
「なるほど……」
貴族でも、若くして亡くなった当主が妻帯者であった場合、未婚の弟と当主の妻であった女性を娶せ、そのまま新たな当主夫妻として立たせるという話は聞いたことがある。家の存続という大事を前に、特に建国当初の乱世においてありふれた手法であったと歴史書に記されているのだ。太平の世となって久しい現代では珍しい事例だろうけれど、書物に例として載っているくらいだから、今でもないわけではないのだろう。
ただ、それはあくまで、家の存続を第一に考えた貴族の場合であって、父の恋人の身に降り掛かった災難は、また事情が異なるようだ。
「王都有数の名家のご出身でいらっしゃるのなら、嫁ぎ先もそれ相応のお家だったのでしょう。それほどのお家から逃げねばならないとは……」
「過去には王都に広く知られた名店で、食器や装飾家具を取り扱うならこの店で間違いないと、先代のモンドリーア公爵閣下からお墨付きを得たほどだったと聞いているよ。ただ、近頃はその勢いもめっきり衰えて、顧客が次々離れ、随分と経営も厳しいようだ」
「……もしかして、父上の仰る女性のご夫君だった方が亡くなってから、経営が一気に傾いた、とか?」
「これほど賢い後継者を持てた私は、実に幸運だな」
「やっぱり……」
「元々、あの店の当主直系にまともな者がおらず、跡取り問題で揉めに揉めていたというのは、貴族の間でも密かに噂となっていたんだがね。紆余曲折の末、遠縁から経営能力に優れた者を後継者として迎え、家柄の優れたファニーを妻とすることで箔付としたらしいが、その〝後継者〟を早々と亡くし、補佐であったファニーにも逃げられたとなると……」
「店も家も傾くは必定、というわけですね。確かに、大変なご苦労をされた女性でいらっしゃいます」
当主直系がいるにも関わらず、遠縁から後継者をわざわざ選定するというのは余程のことだ。貴族でもそうだが、よほどその〝直系〟に資質がない――もっと言えば「こいつが継いだら確実に家が終わる」と大多数の周囲から思われでもしない限り、直系子孫をすっ飛ばして遠縁の者が本家を継ぐ、なんて事態は起こらない。かの家は、公爵家お墨付きの店の経営一族でありながらそんな状況に陥ったわけで、とんでもない〝危険物〟を抱えた家の後継者となった男の妻として嫁いだ女性の苦労は、並大抵ではなかっただろう。父は先ほど言葉を濁したが、夫を亡くした彼女に無理な再婚を迫ったのは、その〝危険物〟だったのだろうな、というところまでうっすら想像できてしまう。
「幸い、ファニーはどんな苦労も楽しめる、前向きで強い女性だから、己の人生を悲観してはいない。彼女のそういう芯の通った生き様に、私は深く惹かれてね。気付けば、この先の人生を共に歩みたいと願うようになっていたんだ」
「そう、だったのですね」
「……許してくれるか?」
こちらの様子を窺って、どことなく下手に出る父、ジョエル。話の内容より、その珍しい姿に驚いてしまう。
その素直な気持ちを表情に出しつつ、ルドルフは軽く首を傾げた。
「どうして、僕の許しを? 当主である父上が望まれたことなら、反対はしません」
「当主である以上に、私はお前の父親だ。息子が嫌だと思うことを、無理に進めるつもりはない。ファニーとも、まずは互いの子どもの気持ちを第一にしようと話し合っている」
「そういえば、あちらにもお嬢様がいらっしゃるのでしたね」
「あぁ。歳はお前の二つ上だから、我々が再婚すれば、書類上はお前の姉となる」
「姉上、ですか……」
正直なところ、こうして話してくれる父には悪いが、ルドルフは〝家族〟というものにさほど期待を抱いていない。父のことは好きだし尊敬しているけれど、何しろ忙しい人だ。物心ついたときから、ルドルフが甘えるのはいつも近くにいる乳母であり、可愛がってくれる侍女たちであって、父ではなかった。母が生きていればまた違ったかもしれないけれど、ルドルフはありふれた〝家族〟の形を知らないまま、育ってきたのだ。
ここにきて突然、紙の上だけの関係とはいえ新しい母と姉ができたとて、世間一般が言うような家族らしい〝家族〟になれるとも思えない、が。
(どんな人かも分からないのに拒絶するのは違うし、家族にはなれなくても、良い人であれば親しくお付き合いすることはできるはず、だから)
……そう。あの事件を通して巡り逢った少女が、教えてくれたこと。
他者との出会いを怖がるのではなく、ルドルフ自身の〝人を見る目〟を鍛え、悪人であれば遠ざけて。
良い人との縁を大切に、生きていく――。
(ナーシャ……)
数年前、たった数日、顔を合わせて話をしただけの少女を思い返す度、どうしてか胸の奥が締め付けられ、それなのに隙間風が吹く心地がする。彼女は確かに命の恩人で、忘れられない、忘れてはならない人であることは確かだけれど、こんな原因不明の、どちらかといえばあまり良くない感情に襲われるような相手でもないはずだ。いつか一人前になれたとき、お礼を言いに行きたいと、その一念で勉学に励んではいるけれど。
(そう、いえば。父上の意中の方があの辺りにお住まいなら、もしかしたらナーシャと知り合いかも)
姉となる人はルドルフの二つ上と言っていたから、歳の頃もナーシャと同じくらいだ。ますます、顔見知りである可能性は高い。
(父上に頼んで、こっそり再婚相手の方を見る機会をもらえたら。ナーシャとすれ違えたり、しないかな)
一度考え出すと、思考が彼女一色に染まってしまう。これもまた、ナーシャと出逢って知った、理解不能な心の動きの一つだ。
そして、その思考は抑えれば抑えるほど制御できなくなることも、これまでの経験からルドルフはぼんやり学んでいた。
「――父上」
突然無言になって考え込んだ息子を、父は辛抱強く待っていてくれたのだろう。
ようやく顔を上げた息子を、彼は注意深く見守っている。
「あぁ、何だ?」
「先ほども申し上げましたが、反対はしません。ですが僕も、新しい母上、姉上とお会いする前に、どんな方々なのか知っておきたく思います」
「そ、うか。……そうだな、当然のことだ」
「できれば、お二人が日常を過ごしていらっしゃる様を、お二人に気付かれないよう拝見することはできませんか? 僕の我儘で、お二人のお時間を頂戴するのも心苦しいですし、あくまでこっそりと」
「ふぅむ……できなくは、ないな」
父曰く、あの地域は建物が不規則に建ち並んでいるため死角も多く、探せば彼女たちの営みを見渡せるポイントは見つけられるだろう、とのこと。問題はそのポイントと馬車までの往復中の安全確保だが、それも護衛がいればクリアできる。
――と、いうわけで。
「相変わらず、父上の仕事は早いな……」
「さすがは、クロケット紡績商の長でいらっしゃいます」
父と話をした数日後、ルドルフは数年ぶりに訪れた王都の下町、あの神殿からも程近い住宅地の一角にある、古びた民家の二階にいた。昨年末まで住んでいた老爺が亡くなり、今は空き家という話だ。
(ここからなら、この辺りに住む人たちが使う共用井戸と、その奥にある通りが見渡せる)
人目を避けた早朝、護衛と共にそっとこの場所へ入り込んでから、ルドルフはずっと飽きることなく、窓の向こうで繰り広げられる下町の人たちの営みを眺めていた。
「あら、おはよう! 腰の具合はどう?」
「随分良くなったわ。やっと水汲みも旦那に頼まなくていけそうよ」
「おや、久しぶりだね。親父さんは元気かい?」
「あはは、歳が歳なんでね。身体のあちこちが痛いってぼやいてますけど、まぁ元気ですよ」
「ねぇねぇ、あっちに菓子売りのおっちゃんが来てるって!」
人々の動きは忙しなく、けれど明るい活気に満ちていた。生き生きとした暮らしを目の当たりにすると、父が日頃から言っている「民が憂いなく日々を過ごしてこそ、我ら貴族も安泰して生きられる」という言葉の意味が飲み込めてくる。
(貴族ばかりが良い暮らしをして、領民がその日暮らしもやっとな生活を送っているような土地は、生の〝土台〟がしっかりしてない。それじゃ遠からず民の暮らしはままならなくなって、そうなると貴族だって良い暮らしはできなくなる、ってことなんだろうな。本当に領地を良くしたければ、まずは領民が飢えることのない生活を築くところから始めないと)
書物上で得た学びを、民の生活を間近で見る中で実感として組み立てていた、そのときだ。
「ファニー!!」
耳に飛び込んできた父の恋人の名に、意識がグッと引き寄せられる。改めて窓の外に注目すると、ちょうど井戸を囲んで話し込んでいた女性たちが、新たに桶を持って近づいてきた女性を手招いているところだった。
ありふれたワンピースに前掛けという珍しくもない服装をした彼女は、名を呼ばれて嬉しそうに輪の中へ入り込んでいく。動く度に揺れる、緩く波打つ小麦色の髪が印象的だ。
「珍しいじゃないか、ファニー。こんな時間に水汲みなんて」
「今日は久しぶりに一日休みなのよ。お陰で今日だけでも、娘に楽をさせてあげられるわ」
「あっははは、相変わらずだね。お前さんは毎日朝から晩まで働いてるんだから、たまの休みくらい休んだってバチは当たらないだろうに」
「あたしが働いてる間、家のことは娘に任せきりなんだもの。まだ十二の子に色々やらせてるの、これでも申し訳なく思ってるのよ」
「本人は気にしてないというか、むしろ楽しそうだけどね?」
「それも知ってるけど、だからって娘の厚意に甘えきりってわけにもいかないでしょ、母親としては」
「ま、それもそうか」
おそらくは顔見知りだろう女性たちとざっくばらんに言葉を交わす〝ファニー〟に気負いはなく、心からそう思っているのだろうと伝わってくる。見るからに朗らかで真っ直ぐ、かつ誠実な気性が短い会話の中からでも察せられ、父が好意を抱くのも尤もな人柄の女性であることが理解できた。きっと、『ランスロット』の仕事が忙しい中でも娘を案じ、娘もそんな母を助けるべく、母娘二人三脚で日々を紡いできたのだろう。
(……あれ、何だろう。前もどこかで、似たようなことを感じたような)
不思議な既視感に一瞬思考が止まった、そのとき。
「ナーシャ!!」
ファニーの明るい声が、忘れられない、忘れられるわけがないひとの名を呼ぶ。頭の中が真っ白になったルドルフの眼前を、あの頃よりずっと大人びた少女が走り抜けた。
「お母さん! もう、水汲みくらい私がするのに」
「たまの休みくらい、家のことしたってバチは当たらないでしょうよ。あんたは早く学校行きなさいな」
「はぁい」
「帰りはどうする?」
「お母さんいるし、今日はまっすぐ帰る予定」
「そうなの? じゃあ、一緒にあんたの好きなキッシュでも作ろうか」
「やった! 卵、残り少なかったよね? 買って帰るよ」
「そうしてくれる? 他の材料は市で買っとくから」
「分かった。いってきます」
「あぁ、いってらっしゃい」
どこにでもあるような、母娘の会話だ。けれど確かに、ファニーと呼ばれた女性が〝ナーシャ〟を呼び、忘れもしないあの日の少女が、女性を〝お母さん〟と呼んだ。
それは、つまり。父が再婚を考えている〝ファニー〟の娘こそ、ルドルフがあの日以来、一度も忘れたことのない〝ナーシャ〟である、ということで。
「ナーシャが……僕の、姉さんに、なる」
無意識のままに落とした言の葉は、ルドルフの胸に抑え切れない喜びと、どうしてかは分からない痛みを同時にもたらした。グッと握り締めた拳の感触が、これは夢でないことを教えてくれる。
あの日の恩人が、忘れられないひとが、新たな〝家族〟となるのだ。嬉しい理由は分かるけれど、胸が痛むわけは考えつかない。
それでも、ただひとつ。
これだけは、疑いようのない事実として、断言できる。
(ナーシャが、僕の家族に……姉さんに、なってくれるなら。僕は何より、誰より、彼女を大切にする。この世で一番大切にして、ナーシャの幸せだけを求めて、生きていける)
きっと、これから新しい〝家族〟として出逢うナーシャは、目の前のルドルフが過去に助けたボロ布少年とは気付かないはずだ。ナーシャと同じようにルドルフもあれから背が伸びて、声も少し変わった。恩人のナーシャをルドルフは決して忘れなかったけれど、ナーシャにとってルドルフは、何年か前にほんの数日だけ匿った見知らぬ少年に過ぎない。気付くどころか、覚えているかどうかすら怪しい。
(それでも……ナーシャが覚えていてもいなくても、僕にとってナーシャが恩人であることは変わらないから)
あの日ナーシャに出逢わなければ……助けて、もらわなければ。
きっとルドルフは今のように、他者を信じることはできなかった。
父や祖父といった限られた人だけに依存し、その他大勢を拒絶して、世界に恐怖しながら生きていただろう。――ボロ布を全身に巻きつけ、納屋の軒先で震えていた、あの夜のままに。
暗闇に覆われそうだったルドルフの世界を優しく照らしてくれた、ランタンのような少女。
彼女を〝家族〟として迎え入れ、彼女の幸福のために生きられるなんて、何という僥倖か。
……少なくともこのときのルドルフは、心の底からそう思い、彼女のために生きると誓ったのだ。
だから。
「お母様ができて、ぼく、とても嬉しいです。……それに、お姉様まで」
〝初対面〟のあの日、戸惑いに満ちたヘイゼルの瞳を見つめて微笑んだ己の心に、嘘は一つもあり得なかった。
――たとえ今、あの日の誓いを全て、裏切る結末になっているとしても。
終わらなかった……! ルドルフの半生が難産すぎる。。。
すみません、もうしばらくお付き合いください。




