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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
にねんめ
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ルドルフの半生②


 走って、走って、走り続けて。

 建物が無秩序に並び立つ下町をいつの間にか抜け、少し開けたところに出た頃には、すっかり日も落ちた暗闇が、世界を包んでいた。

 不幸中の幸いか、戸外で一夜を過ごしても凍え死ぬような季節ではなく、ルドルフは逃げる中で何とか手に入れた大きなボロボロの布を身体に巻き付け、どこかの家屋の軒下を借りて夜を明かすことにして。

 ――屋敷のベッド以外で眠ったこともない身ではあったけれど、身体も心もくたくたの状態だったからか、少し休もうと思って目を閉じて、再び目を開けたとき、世界は既に明るくなっていた。


 それだけではない。


「あ、起きた?」


 少し離れたところにいたのは、簡素なワンピースに白いエプロンをつけ、手には木のトレイを持った、ルドルフより少し年上に見える少女。服装こそ平民によくあるものだが、その立ち姿はすっきりしていて品があり、こちらを振り返る仕草も丁寧だった。

 トレイを持った少女は、すぐルドルフに近づいてくることはなく、屋根の少し外側からこちらの様子を伺っている。


「君、見たことないけど。孤児院に新しく来た子?」

「こ、じいん?」

「ここは、神殿と、神殿併設の孤児院が建ってる土地なの。君が今いるのは、季節ものの道具を片付けてる納屋の、軒下よ」

「なや……」

「君が座ってる場所は、農閑期になると手押し車が片付けられるの。今は毎日使うから、出しっぱなしだけど」

「ておし、ぐるま」

「だから……ここならしばらく、誰にも見つからないわ。私はたまたま用事があって納屋へ来て、眠っている君を見つけたけど、普段はここにくる人も居ないから」


 少女は穏やかに、なんでもない風に、このときのルドルフが一番欲しい〝言葉〟をくれた。

『誰にも見つからない』――危険な場所から必死に逃げて、どこまで逃げて良いかも判然としなかった自分にとって、これほど安心できる情報はない。

 ボロボロの布を巻き付けたままのルドルフが、明らかに安堵したのを見て、少女は一歩近づいてきた。


「君がどこの子かは分からないけど、すごく疲れてるみたいだったから。お腹空いてるんじゃないかなと思って、スープとパンを持ってきたわ。食べる?」

「……食べる」

「良かった。食欲はあるのね」


 にっこり笑い、トレイを持って、少女は洗練された足運びで近づいてくる。屋根の外にいたときは逆光で顔が見え辛かったけれど、ルドルフと同じ軒下に入ってくれたことで、少女の容貌がはっきりと見えて。


(か、かわいい……)


 彼女は、ルドルフのように目立つタイプの美人ではなかった。どちらかといえば地味なタイプではあるだろう。

 しかし、目も鼻も口もすっきりとした綺麗な形で、それぞれの配置も整っており、何より印象的なヘイゼルカラーの瞳は優しい温もりを宿して、話す相手を自然と落ち着かせる雰囲気を纏っていた。小麦色の髪はさらさらと肩から腰へ流れ、どこか涼やかな気配すら感じる。

 目立つタイプではない。けれど、よくよく見れば美しいと分かり、相手を惹きつける魅力に満ちている。父や自分自身のような、華やかな美形しか見たことがなかったルドルフにとって、初めて会うタイプの〝美人〟がそこにいた。


「はいこれ、パンとスープ。お茶もあるから、ゆっくり食べてね」

「あ、ありが、とう」

「どういたしまして。食器はそのままで良いわ。後で取りに来るから」

「……うん」


 加えて。彼女は、他人との距離の取り方が、抜群に上手かった。どこからどう見ても訳ありでしかないルドルフに対し、放置することもなければ踏み込み過ぎることもなく、ルドルフが何より欲していた情報と食事を適切に渡し、ただ〝それだけ〟であることを態度で示す。

 そんな少女の言動は、ルドルフにこの上ない安心感と癒しをくれた。

 有言実行とばかりに去っていく少女の背を見送ってから、ルドルフはゆっくりと毛布から抜け出て、まだほんのり湯気が立っているスープの椀を持ち上げる。


(あった、かい)


 屋敷から遠く離れて半日以上、ルドルフは何も口に入れていない。現金なもので、美味しそうなスープを目の当たりにした瞬間、腹の虫が空腹をしきりに訴えてくる。添えられたパンはあまり馴染みのない固いタイプのものだけれど、庶民街の孤児院に紛れ込んだ不審な子どもへ分け与えるには、充分に立派だということくらいは理解できた。

 そっと一口飲んだスープは優しい味がして、固いパンを浸せばその塩味でまた味が変わる。男爵家の食卓に上ることはないパンだけれど、工房や店で働く者たちの暮らしを知っておくのも大切だと、従業員用の食堂へ父に連れられ行っていたから違和感なく食べられたのも幸いだった。

 気づけば、お茶も含め、少女が持ってきてくれた〝食事〟は全て、綺麗になくなっていて。食べ終えたルドルフは再び布に包まり、軒下の奥へと身を潜めた。


(これから、どうしよう……)


 睡眠を取り、空腹も満たされたことで、麻痺していた頭がようやく動き出したのだろう。自身の置かれている状況を把握しようと冷静な思考が回り出したが、それはすぐに、圧倒的な恐怖と絶望によって強制停止させられてしまう。


 ――お貴族サマのお屋敷で働くマトモなヤツが、素性もはっきりしない外の人間に、大事な〝坊っちゃま〟を預けるわけねぇだろうが! アイツは元々、お前のことなんか大嫌いだったんだよ!


 ――あのガキさえ消えれば、彼女は俺を見るはず。あのガキを売った金で彼女を落とせば、さぞスッキリするだろ。


 信じていた……たぶん、屋敷の使用人の中でも相当に好きだった〝彼〟に嫌われ、恨まれ、消えれば良いとまで思われて、見ず知らずの悪人に〝売り飛ばされた〟事実と。


 ――軍、ねぇ。所詮連中は、お偉方の狗(いぬ)だよ。自分らのお膝元に犯罪が蔓延(はびこ)ってようが、お偉いさんに『放置しろ』って命令されたらそれまでだ。


 これまで、絶対的な〝正義の味方〟と信じて疑わなかった存在すら信じられない、この状況で。


 何をどうすれば、昨日までの〝日常〟へ戻れるというのか――……




 カタン。


「!!」

「あ、ごめんなさい。起こしちゃった?」

「ぁ……」


 思考が凍っているうちに、いつの間にか意識が遠くなっていたらしい。気づけば陽はかなり高いところを進んでいて、目の前には先ほどの少女がいた。位置的に、おそらく、食器を下げに来たのだろう。

 何か言わねばと開いた唇は、結局何の音も発することなく、そのままの形で止まってしまった。

 布に包まれているからルドルフの顔の動きが見えたわけではないだろうけれど、その様子から何かを察したようで、少女は穏やかな、朝と変わらぬ微笑みを浮かべる。


「今のところは、大丈夫。あなたがここにいることは、私以外知らないわ。誰かがあなたくらいの子どもを探してるって話も、まだ届いて来ないし」

「!?」

「不思議そうね? いちおう、それとなく院長先生に聞いてみたけど、ここ最近で孤児院に新しく来た子は居ないし、来る予定もないってお答えだったから。孤児院の子じゃないなら、あなたはきっと、何かの理由があってどこからか逃げてきた子なんだろうな、って思ったのよ」

「それ、なら、なんで、」

「誰にも言わずに匿ったのか、って? そんなの、あなたがいかにも、誰にも知らせて欲しくなさそうだったからだけど」


 微笑みはずっと穏やかなまま、少女はほんの少しだけ、切なげな眼差しで遠くを見つめて。


「あなたがどこの誰なのか、そんなことは知らないし、興味もないわ。でも、そんな風に薄い布で必死に身を包んで、自分を守ることに精一杯な子が、何か悪いことをして追われているとは思えない。なら、ひとまずは匿うでしょ」

「たった、それだけ、で?」

「……それだけで、充分なの。信じられる大人から引き離されて、誰も信じられない世界で、それでも自分を守らなきゃいけない心細さなら、よく知ってる。自分より小さそうな子が、そんな心細い思いをしてるのを、放ってはおけないわ」


 そう言い切った少女は、首を横に振ってぐいっと伸びをする。


「なんかごめんね。だから、さっきも言ったけれど、あなたがここに居ることを誰かに話すつもりはないわ。もちろん、あなたが話して欲しいなら、その限りではないけれど」

「そ! それ、は――」

「分かってる。……まだ、分からないのよね。信じられる人が、誰か」


 ……どうして、分かるのだろう。ルドルフの顔すら知らないのに、少女はルドルフの抱える不安を見抜き、その絶望に、恐怖に、優しく寄り添ってくれる。無理に勇気付けるでもなく、手を引くでもなく、ルドルフが自分の力で、意思で立ち上がれるようになる日を待つつもりでいるのだと、その瞬間直感的に、彼は悟っていた。

 そんなルドルフと、布越しに、彼女は視線を絡ませて。


「一つだけ、聞かせて。あなたには、あなたの安否を純粋に案じて、探してくれるお身内はいらっしゃる?」


 ここで初めて笑みを消し、真剣な表情で、そう問うてきた。

 一拍の沈黙を数え、ルドルフはゆっくりと、首を縦に振る。


「いる。父様は、絶対に、僕を探していらっしゃる」

「お父様?」

「僕の家族は、父様だけ、だから。母様は、いないし」

「いない、って……」

「僕を産んで、亡くなった。そう聞いてる」

「そう。……そうなのね。あなた、やっぱり、私と似てる」

「……似てる?」


 思わず零れ落ちた問いに、彼女は寂しく、微笑んだ。


「私もね、家族はお母さんだけなの。お父さんは、少し前に死んじゃって。それで、お母さんと二人で、この街に引っ越してきたのよ」

「……だから、似てる?」

「お父さん方の親族の人たちは、悪い人ばかりじゃないけど、家族とは思えなくて。大勢の人に囲まれていても、〝私〟をちゃんと見て、認めて、受け入れてもらえなきゃ、結局は〝家族〟にはなれないのかもね」

「……」

「何となく、だけど。あなたも、同じな気がする。孤独じゃないけれど、本当に心を許して、自分を預けられる人は、たった一人の家族だけ。だから……父様(そのひと)だけは、ちゃんと〝あなた〟を探してくれると、信じられる」


 ……あぁ、そうか。

 天啓の如く、ルドルフはごく自然に理解していた。


 目の前の少女は、状況は違えど、ルドルフとよく似た傷を、痛みを、抱えている。

 抱えているものが似通っているからこそ、言葉こそ少なくとも、少女はルドルフの気持ちを察し、事情を察し、絶妙な距離感で、こうして寄り添ってくれるのだ。

 さながら……過去の己へ、救いの手を差し伸べるように。


「……うん。きっと、そうだと思う」


 気づけば、ルドルフは素直な気持ちで、肯定の返事を音に乗せていた。

 それを聞いて、少女はまた、柔らかく笑う。


「この辺りで、誰かがあなたくらいの子どもを探しているって話が耳に入ったら、すぐあなたへ知らせるようにするわ。それがあなたを追う悪い人なのか、あなたを探すお父様なのかは、話を聞いたあなたが判断すれば良い。それなら、あなたは私にこれ以上、何かを話す必要もないでしょう?」

「……ありがとう。でも、良いの?」

「何が?」

「何も話さなくて、本当に良いのかな、って。ここは孤児院で、あなたは孤児院の人、なんでしょう? 匿ってくれるのに、事情を言わなくて良いなんて……」

「うーん……まず私、孤児院の人じゃないからね。この近所に住んでて、事情があってほぼ毎日入り浸ってるだけの部外者だから、そういう意味じゃ、あなたと立場はそう変わらないわ」

「そう、なの?」

「あと、ここのメインはあくまで神殿で、敷地内への立ち入りは、基本的に誰でも自由なの。来る者拒まず、去る者追わずって感じ?」

「あぁ……そっか、神殿」

「拝殿に来る人の事情をいちいち聞いたりもしないしね。もちろん、悩み事や相談事を神官様へ話す人は多いけれど、別に話さないからって咎められはしないわ」


〝拝殿に来る人〟と今のルドルフを同列に考えるのはかなり無理がある気もするが、当たり前のようにそう説明されると、まぁそう言えなくもないのか……? と丸め込まれそうになる。穏やかで人畜無害な微笑みを浮かべた可愛らしい風情の少女だが、この口の上手さとさり気なく強い胆力は、彼女がごくありきたりな子どもから逸脱した存在であることを密かに証明していた。


(……なんとなく、だけど。おじいさまと、似た雰囲気がする)


 商売人として優れた感性と確かな交渉力を持ち、『クロケット商会』を一代で王都有数の衣料店へと急成長させ、男爵位まで賜った祖父。ジョエルへ早々と爵位を譲ってからは、『クロケット紡績商』の販売部門の相談役として、その手腕を遺憾無く発揮している。今でもちょくちょく店に顔を出す彼とは、当然ながらルドルフにとって、身近な大人の一人であり、その仕事ぶりを間近で見られる存在でもあった。


(おじいさまがお話しすると、何か文句言ってた人も、みんな最後は笑ってお店から帰っていくんだよな……)


 ルドルフはどちらかといえば、〝クロケット男爵家〟の後継者として、そして紡績業の実務者としての教育を主に受けており、商売の方に関してはさわり程度しか、まだ教えてもらっていない。しかしながら、どんな来店客も取り零さない祖父の接客術が相当に優れていること、ゼロから立ち上げた店を一代で大きくした経営手腕が並外れていること、くらいは肌感覚で理解していた。


(おじいさまと似た、この人も。もしかしたら、商売の才能があるのかも)


 そんなことをふと考えられる程度には落ち着いたルドルフの心情を、少女は鋭敏に察したらしい。食器を乗せたトレイを改めて持つと、彼女はすっくと立ち上がる。


「ちょっとでも元気になったなら良かった。またお夕飯の頃に来るね」

「あ、ありがとう。……あの、」

「なぁに?」

「……あなたの、名前は?」

「私? ナーシャよ」

「……ナーシャ」


 少女――ナーシャは、気負いなく名乗り、美しいヘイゼルの瞳を細めた。


「あなたの名前は聞かないでおくね。その方が安心できるでしょ?」

「……ごめん」

「謝らないで。あなたが無事にお父様の元へ帰って、また会うことがあれば、そのときに改めて聞くから」


 静かな、優しい響きなのに、ナーシャの放ったその言葉には、自身の語る〝未来〟が必ず実現することを確信しているかのような、強い芯が通っていた。




 ――それから、三日。

 言葉通り、ナーシャは毎日、食事を運びに来てくれた。

 そして来るたび、彼女が仕入れた〝街の話〟を聞かせてくれる。


「学校の友だちに聞いたんだけど、ここより少し先にある、あんまり安全じゃない区画にちょっと前から住み着いてる怪しげな人たちが、昨日からこの辺をウロウロしてるって。いちおう軍の詰め所には連絡したらしいけど、この辺りは放置され気味だから、いつ頃対処してもらえるかは分からないそうよ」


「そういえば、孤児院のシスターが、前に変なこと言ってたわ。この孤児院には時々、身なりだけ整った怪しげな人が、よく分からないことを言いにくる、って。『私の求める子どもが用意できたらしいな』とか、なんとか。『ウチは上流様向けの養子縁組なんかしてないのに』って不思議がってた」


「急いで納屋に入って! いかにもガラの悪い連中が『孤児院の子どもを見せろ』って玄関で騒いでるのを見たの! 軒先にいたままじゃ、見つかるかもしれないわ」


 彼女の持ってくる〝街の話〟は、大抵の場合、ルドルフにとって必要不可欠な情報で。ときにはがっつり匿ってもらいつつ、やがてナーシャは、何よりの吉報を携えてくる。


「さっき街で、軍の警備隊が怪しい男たちを捕まえているところを見たわ! 上官っぽい人が、部下に向かって『男爵様の御命令だ! 必ずアジトの場所を吐かせろ!』って命令してた」

「……だん、しゃく?」

「よく分からないけれど、その男爵様? の命令で、この先をねぐらにしてる連中を取り締まってるみたいよ」


 ――お父様だ。


 この三日間に何があったのかは分からないが、ルドルフはそう、直感する。やはり父は、探してくれていたのだと。


「その、怪しい人たち……全員捕まるかな?」

「気になる?」

「うん」

「だったら、調べてくる」

「調べられるの?」

「街の噂話を集めれば、すぐよ」

「ありがとう、ナーシャ」


 この三日間でナーシャから得たものは、情報だけではない。

 深く信頼していた相手に裏切られ、赤の他人を信じる心を失いかけていたルドルフに、意図しないままナーシャは、信じる勇気を与えてくれた。

 会って話す時間は、わずかでも。交わした言葉は、時間は、それだけ濃密だったのだ。


 ――特に。


「ナーシャは、綺麗だよね。美人って言われない?」


 何かのきっかけで彼女の容姿を話題に出した際の、返答が。


「言われるわ。母に似て綺麗な顔をしてるって。将来は美しくなるだろうって、物心ついたときから言われ続けてた」

「そ、っか」

「正直、だからなにって気持ちではあったけど。私の顔を綺麗って言う人、基本的に私のこと嫌いだったし」

「……え? 綺麗って褒めてくれるのに?」

「あの人たちの〝綺麗〟はね、基本的に皮肉なのよ。女に生まれた私は、『顔が綺麗なだけの役立たず』なんですって」

「なに、それ」

「女じゃ家を継げない、店の経営だってできない、どれだけ顔が良くても、家の役に立たないなら存在する意味がない。そういうことみたいよ」

「……そんな」


 美人なナーシャは、当然ながら周囲の大人から愛され、可愛がられて育ってきたと、ルドルフは思い込んでいた。自身も顔の良さゆえ窮屈な暮らしを強いられてはいたが、少なくとも、向けられる視線は悪意より善意の方が圧倒的に多かったから。

 なのに、彼女の口から語られるのは、世間知らずのルドルフでも理解できるほど、悪意しか感じられない言葉の数々。これまで生きてきて一度も聞いたことのない侮辱的なそれらに、ナーシャには分からないだろうけれど、顔を顰めてしまう。


「偏見だ、そんなの。女性だって家を継ぐ資格はあるし、経営能力に男も女も関係ないのに」

「そんな正論が通じる人たちなら、そもそも母が私を連れてあの家を出ることもなかったと思う」

「話が通じない人たちだったんだね」

「そういうこと」

「……ごめん。そんな事情も知らずに、綺麗なんて言って」

「それは別に良いの。お母さん譲りのこの顔、私は気に入ってるし」

「そうなの?」


 話を聞く限り、自分の顔を嫌いになっても仕方ないような暴言のオンパレードだったと思うが、ナーシャ的にはそうでもないのか。

 そんな疑問を察したのか、彼女は軽やかに笑った。


「お母さんがね、いつも言ってた。『あの連中は、お前の顔がどうでも、仮に男に生まれてたとしたって、どうせ何かしらのケチをつけて認めないわよ。そんな奴らの言い分を馬鹿正直に聞いてやることない』って」

「……まぁ、確かに」

「『せっかく美人に生まれたんだから、どうせなら、その顔をいかに有効活用していくか考えてごらん。その方が人生、絶対楽しくなるから』とも言われてたわ。『基本、顔の良い人間は大勢から好かれやすいからね。美人ににっこり微笑まれて、悪い気になるヤツはそう居ない。売り子として店に立つなら、顔の良さは立派な武器の一つになる』とか、他にも色々言われたなぁ」

「……顔は、武器」

「私の母も、綺麗な人でね。昔から、美人で良かったこと、悪かったこと、色々経験してきたんですって。もっと普通の顔が良かったって思うこともあったけれど、人間、持って生まれた姿で生きていくしかないわけだし、それなら自分の容姿を上手く使って生きる方法を考えた方が良い、って結論になったそうよ」


 母みたいに割り切れる人も、そう多くないでしょうけれど――。

 そう言葉を閉じたナーシャは、もう既に〝割り切れた〟ところにいるのだろう。己の姿をありのまま受け止め、出会う人の善意も悪意も糧として生きていく、しなやかな強さに満ちていた。


「……悪いことしか起こさないような、顔でも。使い方さえ考えれば、武器にできるのかな」


 ポツリと落とした言葉は、ナーシャへの問いかけというより、自問自答に近かった。

 けれど、確かに落ちたそれを、ナーシャはしっかり拾ってくれて。


「うーん……あなたの身の回りで起きた〝悪いこと〟が何か分からないから、無責任なことは言えないけど。どんな顔でも、悪いこと〝しか〟起こさない、なんてことはないと思う。むしろ、それだけ〝悪いこと〟が起きるなら、同じだけ〝良いこと〟も起こせるんじゃない?」

「……起こせるかな」

「と、いうか。真面目な話、〝顔〟が何か起こすわけでもないし。その〝顔〟に何かを感じた人間が行動することで、初めて〝何か〟が起きるんでしょう? あなたの身の回りでどんな悪いことが起きたのだとしても、それは起こした人が悪いんであって、別にあなたの顔のせいじゃないわ」

「でも! 僕が、こんな顔じゃなければ……!」

「仮定の話に意味はないの。あなたの顔が原因で悪いことを起こすようなのは、単に元からそういう人だっただけ。あなたがするべきは、〝そういう人〟と見抜けなかった自分の見る目のなさについての反省であって、顔を嘆くことじゃないでしょう」


 ともすれば厳しすぎるようにも感じられるだろう、ナーシャの言。しかしこのときのルドルフには、何より必要な指標であった。


(……そうだ。顔を嘆いたって、何にもならない)


 嘆いて、悲劇に酔ったって、ルドルフの顔が奇跡のように変わるわけではないし、あの見習いの裏切りの事実が溶けて消えるわけでもない。

 ならば、ルドルフがするべきは。この過去を踏まえ、どうより良い未来を歩んでいくか、考えることのみだろう。


「――うん。本当に、そうだね」

「え?」

「ありがとう、ナーシャ。僕、もっとしっかり考えるよ」

「えっと、うん。頑張って?」


 ナーシャ自身は、それほど大したことを話したつもりはないのだろう。話のほとんどは母についての雑談であったし、彼女が常日頃から考えていることを、当然のこととして述べたに過ぎない。

 けれど、そんな〝当然〟を抱くナーシャを、気づけばルドルフは、当たり前に信じていた。いつの間にか、見知らぬ他人を恐れる気持ちより、ナーシャへの信頼の方が強くなっていた。


(僕は、たぶん。もう大丈夫だ)


 世の中には、あの見習いのように、平気で人を裏切る輩もいる。ルドルフを拐かし、危害を加えようとした男のように悍ましい者も、今のルドルフでは想像もできないほど悪辣な人間も、きっといる。

 けれど、一方で。ナーシャのように、顔を隠した子どもを何の見返りもなく助けてくれる心優しい人も、彼女の母のように己と他人にどこまでも誠実な人も、いるのだ。

 たった二人、悪人を目の当たりにしただけで、他人全てを怖がる必要はなくて。ナーシャの言葉通り、これからもっと人を見る目を養って、悪人を遠ざけ、良い人たちとの仲を深めていけば良い。――そう、すとんと胸に落ちた。


 ――だから。


「……ねぇ。起きてる?」


 ナーシャと出逢って三日目の、夜遅く。

 そっと納屋へ忍び込んできた彼女の言葉に、躊躇う気持ちはもう、なかった。


「危ない人たちが溜まり場にしてた区域で、密かに子どもを売ってた悪い人たちが、全員捕まったそうよ。なんでも、警備隊にご命令された〝男爵様〟の強い希望だったらしいわ」

「そう、なんだ」

「〝男爵様〟は、わざわざこの区域の詰め所まで出向いて指示されたらしいから、何がなんでも組織を壊滅させたかったのでしょうね。……これでもう、孤児院に危ない人たちが来ることもないと思う」

「だと、思う。……ねぇ、ナーシャ」

「どうしたの?」

「――最後に、一つだけ、聞きたいことがあるんだ」


 ルドルフの声音に、ナーシャも察したのだろう。……別れの、気配を。

 一拍だけ無音を数えたのち、静かな、静かな声が、返ってくる。


「えぇ。なぁに?」


 ……本当は、言いたい。自分の名前を。過去を。

 全て打ち明け、あなたに救われたと感謝を述べ、素顔を晒して「友だちになりたい」と言えたら。それだけできっと、ルドルフはこの上なく幸福になれる。


(でも、ダメだ。ナーシャの生活を、やっと手に入れた平穏な暮らしを、僕が邪魔するわけにはいかない)


 断片的にしか聞いていないけれど、母と二人きりで過ごす今の生活に、ナーシャが心から満足していることは、彼女の口ぶりから何となく察しがつく。こんな穏やかな日々を、ずっと望んでいたことも。ルドルフの存在はきっと、そんなナーシャの生活に要らぬ波風を立たせてしまう。


(せめてもう少し大きくなって、僕自身の力でナーシャを守れるくらい強くなって。僕が一人で会いに行ってもナーシャを騒がせないくらい、周りに認められるようになったら。絶対、絶対に、お礼を言いに戻ってこよう)


 だから、これは。

 そのときまでの、訣別の言葉――。


「……この区域の、詰め所。その場所までの、道順を教えて」

「――えぇ」


 深い深い、闇の中で。彼女が持つランタンの炎だけが静かに揺れ、そのヘイゼルを浮かび上がらせる。

 勘違いで、なければ。浮かぶ瞳には、別れへの覚悟と、隠そうとして隠し切れない寂寥が宿っていた。


「詰め所へはね。この先にある神殿の門を抜けて、大通りをまっすぐ歩いて――」


 教えてくれた道順は、幸い、ルドルフでも覚えられるものだった。ナーシャの言葉を刻み、見えないことは承知で、ルドルフは彼女へ曇りのない微笑みを向ける。


「ありがとう――ナーシャ」

「どういたしまして」


 それじゃ、私は帰るね――。


 そう言って、本当にすぐ出て行ったナーシャの背を見送り、ゆっくり百を数えて。

 ルドルフは、静かに立ち上がる。


(行こう)


 覚悟を決め、確かな足取りで、一歩を踏み出し。

 思ったよりずっと狭かった納屋を出る。


 出て。


「こ、れ――……」


 扉を開けた、その足元。仄かに光るその灯火に、思わず声が零れた。

 先程まで、確かにナーシャの手元で揺れていたランタンが、音もなくそこに鎮座している。


「ナー、シャ」


 込み上げてくる熱いものを、ぐっと堪えて前を向き。彼女の優しい置き土産をしっかりと握れば、短くも色濃い思い出が、胸の中に溢れて。


(……ありがとう、ナーシャ。君の気持ち、大切にする)


 夜道にも、この辺りの地理にも明るくないルドルフを案じ、せめて暗闇を歩く助けとなるようにと、彼女はこのランタンを残してくれたのだろう。ここまでしてもらって帰れないなど、口が裂けても言えない。

 恐怖は、未だ燻れど。そんなものを凌駕して余りある決意に、今のルドルフは満ちている。


(帰ろう。僕の、居るべき場所。――父様の、元へ)




 ――王都の南南東地区警備隊を震撼させた『クロケット男爵令息誘拐事件』は、クロケット男爵の強い圧力によって犯人一味を残らず捕縛した後も、肝心の被害者当人が自力で逃げ出し行方不明状態だったことが判明し、混迷の気配を漂わせていた。

 しかし、大勢の予想を他所に、事件発生から五日目の未明、被害者であるクロケット家令息ルドルフが自力で警備隊の詰め所まで辿り着き、保護を願い出たことで、事件はあっさりと解決する。

 跡取りの将来を案じたクロケット男爵が事件を表沙汰にしないで欲しいと望んだこともあり、この事件は表向き『少年専門人身売買闇組織摘発事件』として処理され、その裏にクロケット親子がいたことは、捜査に関わった警備隊員のみが知る密かな真実となったのである。


ナーシャとの出会いのきっかけから書き始めたら、想定以上にルドルフのターンが伸びてます。。。

今しばらく、お付き合いくださいませ。

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