ルドルフの半生①
「この顔で得した記憶ってあんまないかも」と、目の前に座っている美麗な青年は言った。
それは、ルドルフにとって、これまで誰にも理解してもらえなかった〝真理〟で。
そこから連れ出してくれた〝彼女〟がどれほど特別な存在なのか、彼にとっては語るまでもない、当然の摂理であったのだ――。
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ルドルフは、エルグランド王国最大の紡績商を束ねる名家、クロケット家当主の嫡男として生を受けた。エルグランド王国が他国との交易を開始してすぐ、異国の見事な織物の数々に魅了されたとある裕福な若者が、破産覚悟で異国を渡り歩いて技術を学び、祖国へ持ち帰って紡績工場を立ち上げたのが、今に続く〝クロケット家〟の始まりだ。異国との交易が活発化していく最中、「輸入すれば簡単に手に入るものを、わざわざ自前で作ろうなんて酔狂な」と嘲笑われることもあったらしいが、異国の最先端技術でエルグランド人の好みに合うよう織られた織物の数々は、程なく莫大な利益をもたらすようになる。
やがてクロケット家は、自前の織物を基盤に、事業を服飾全般へと拡大。クロケット商会を立ち上げ、王国の服飾技術の発展に、大きく寄与することとなった。その功績が認められ、ルドルフの祖父の代に男爵位を与えられ、貴族の仲間入りを果たしたのだ。
しかしながら、貴族となったのはあくまでも成り行き的な結果論。歴代の当主は、現在の父も含め皆、できた実業家の皮を被った筋金入りの織物、服飾オタクでしかない。最初に海を渡った先祖からして、「これほど美しい織物をどうすれば作れるのか」「どうしても自分の手であの織物を作りたい!」と猪突猛進しただけであり、工場を建てたのも「デカくて広い場所なら、それだけ大きい織物を作れる!」と考えたからに過ぎないという。織り機の半自動機械化と大量生産に成功した曽祖父は服飾の方へ傾倒しており、「機械の力を借りて織物を自動で織れたら、その分織り手だった人の手が空いて、お針子へ回ってもらえる。そしたら服を沢山作れる! よし、機械で自動化だ!!」と思いつくまま突き進んだという話だ。
もちろん、織り機の自動機械化など、口で言うほど容易い話ではなく。曽祖父は人生のほとんどを半自動織り機の開発に費やしたわけだが、それでも晩年、頭も身体も矍鑠としているうちに成功させ、若い頃からの夢だった「織り手さんにお針子さんへ回ってもらい、糸紡ぎからドレスの完成まで自前で賄う」を叶えたわけだから、オタクの情熱は侮れない。そんな曽祖父の背を見て育った祖父は、「お父様の作ったドレスをたくさんの人に着てもらいたい!」とクロケット商会を立ち上げ、布からオーダーメイドで一点もののドレスを作れるという、紡績工場を持っているクロケット家にしかできない事業を展開。新興貴族が続々と増え、裕福な貴族が増えた時代性にもマッチし、ほぼ一代でクロケット商会の名を王国全土へ知らしめた。ちなみに今も健在で、たまに店へ顔を出しては、意気揚々と客に服を売っている。
家の名が王国中へ広まり、商会の納める税金がとんでもない額になった(代々王都住みのクロケット家は、当然王家へ直接税を納めている)ことで、結果的に商会を立ち上げた祖父へ爵位が与えられた。しかも一代限りの準爵ではなく、その功績の大きさとクロケット商会の堅実さを評価され、子々孫々受け継げる立派な正貴族位である、〝男爵〟の位をだ。
与えられた当人も困惑したという話だが、もっと困惑し、先のことに頭を悩ませたのが、いずれ爵位を受け継ぐ立場である息子――ルドルフの父、ジョエルだったという。祖父が爵位を与えられたのは、ジョエルがまだ十にも届かない歳の頃だったらしいが、当時から利発な子だった彼は、「貴族になったら領地とかの面倒も見ないとだし、他の貴族との付き合いとかも出てくるし、面倒しかないのでは」と賢く悟った。歴代それぞれ好きなことに邁進してきた血筋の例に漏れず、ジョエルもまた、あらゆる質感の布を開発したい織物オタクであったのだが、貴族となったことで王立学院への門戸が開かれ、貴族常識を学んだことで、貴族として最低限の義務と責任は把握した青年へ成長したそうだ。
息子が、少なくとも自分よりは貴族として上手くやっていけると判断した祖父が、学院を卒業したジョエルへ早々に爵位を譲ると、彼は若きクロケット男爵家の当主として、家を切り盛りするようになった。別々の事業として届け出ていた紡績工場と商会を『クロケット紡績商』として一体化したのも、糸の生産から機織り、出来上がった生地を衣服へ仕立てて店へ並べる流れを確立させたのも、服だけでなく糸、生地、染料といった服飾材料まで商品として流通させたのも、全てジョエルだ。筋金入りの織物オタクであるジョエルだが、一代で『クロケット商会』を大きくした父親の商才も、彼は間違いなく継いでいた。
『クロケット紡績商』の商会長として。そして、新進気鋭の新興貴族、『クロケット男爵家』の当主として、ジョエルは目まぐるしい日々を過ごしていた。貴族として最低限の社交はこなしていたが、そんな状況では婚活もままならず、気づけば二十歳はとっくに過ぎて、そろそろ婚期を逃しかねない年齢へ差し掛かる。
そんな彼を見かねたのか、爵位を得た頃から何かと世話をしてくれていたとある男爵の仲立ちで、婚期ギリギリにジョエルは妻を迎えた。歴史はあるが資産はほとんどない、潰れかけの男爵家から嫁いできた妻は、貴族としての気位ばかり高く、一緒にいて安らげる存在ではなかったけれど、娶った以上は責任を持たねばと、ジョエルは精一杯妻を大切にし、夫婦の義務も律儀に果たして。
――そうして生まれたのが、ルドルフだったのである。
幼い頃、寝物語に乳母が話してくれた内容を信じるのであれば、母はルドルフの誕生を心待ちにし、沢山の産着を作ってくれていたという。万全の体制でお産に挑んだが、想像を絶する難産で、ルドルフが生まれてしばらく経っても出血が止まらず、そのまま儚くなったらしい。
命懸けで息子を産んでくれた妻にジョエルは深く感謝し、この上なく丁重に葬って、妻の実家にも手厚い援助の継続を約束した。恋も愛もない間柄ではあったけれど、少なくとも信頼関係は築けていたのだろう。遺された息子ルドルフを、ジョエルはクロケット男爵家の嫡子として正式に届け出、大切に育ててくれた。
物心継いたときから、ルドルフの周りは人で溢れていた。クロケット一族は元々顔立ちの整った人が多かったらしいが、歴代の中でも美麗な父から整った目鼻立ちを、母親から珍しい新緑色の瞳を受け継いだルドルフは、赤ん坊の時点で既に、将来が楽しみな美しさだったらしい。美しい若君のお世話をしたい使用人たちが常に構ってくれる環境が当たり前だったルドルフは、自分の周りに人が居ない時間をほとんど経験することなく、すくすく成長する。眠っているときですら、使用人たちが自発的に部屋の隅で控えていたという話だから、ルドルフにとって〝プライバシー〟なるものは最初から存在しないものだったのだろう。
それは、ルドルフにとって、悪いばかりではなかった。少なくとも、寂しい思いをしたことはない。父は忙しい人で、日中ほどんど家にはいなかったけれど、その分、使用人たちが親切にしてくれた。赤子の頃から育ててくれた乳母が常に愛情を注いでくれたのもあって、生まれてすぐに母と死別したことを気にしたこともない。客観的に見て充分、恵まれている部類の子どもだった。
――けれど。
「まぁ、ぼっちゃま! 突然走り出されて、いかがされました?」
「あれ! あそこにいたむし、つかまえるの!!」
「まぁ! ぼっちゃまに、虫取り遊びなど似合いません」
「そうですとも。ぼっちゃまにはあのような気持ち悪い虫より、こちらの美しい花の方がお似合いでしょう」
好きなもの、気になったものを、「似合わない」の一言で切り捨てられたり。
「ねぇ! ぼくも、剣の練習したい! おはなしの騎士さまみたいに!」
「いけません、若様。剣の稽古などなさって、そのお美しいお顔に傷でもできたら大変です」
「若様のお美しさは、クロケット家の宝そのもの。剣を握りたいなど恐ろしいことは仰らず、どうか屋敷の中でお健やかにお過ごしくださいませ」
少しでも怪我の危険がある――武術の稽古や馬術、激しい遊びなどはさせてもらえなかったり。
「若様と比べれば、他の子どもたちはやはり、見劣りしてしまいますねぇ……」
「当然よ。若様ほどお美しい方は、そう居ないもの。本当は、ご友人にも同じくらい美麗な方をお迎えできたら良いのだけれど」
「いずれにせよ、使用人の子程度では、若様とあまりに釣り合わないわ。若様の価値まで下がってしまいかねないし、旦那さまにお願いして、早めに貴族のお子様との交流の場を設けていただきましょう」
よく一緒に遊んでいる仲の良い子を、貶すような会話をすぐ側で交わされたり。
……使用人たちに、悪気があった訳ではないだろう。彼女たちはただ、ルドルフの美しさに心酔し、その〝美〟を至上のものと信じて守り崇め、価値をさらに高めようとしただけだ。そうすることがルドルフとクロケット家のためだと、彼女たちは本気で思っていた。
それでも、好きなものを否定され、やりたいことを切り捨てられ、大好きな友人を貶められるたび、ルドルフの心は少し、また少しと削られて。
(こんな顔じゃ、なかったら。僕はもっと、好きなものを好きと言えて、好きな友だちと好きなことして遊べたのかな)
そんな気持ちが蓄積していくことは、避けられなかった。
当時のルドルフにとって唯一の息抜きは、厨房で料理人見習いが仕込みをする時間に潜り込み、作業を見ながら彼ら相手に話をする時間であった。さすがに、幼い男爵家の跡取りを火の粉や油が舞う調理の只中に居させることはできなかったが、見習いたちが食材の下拵えをする場であれば危険もないだろうと、厨房は彼の出入りを認めていたのだ。きっかけは、幼いルドルフが「この料理はどうやって作るのか」と興味を示し、男爵が厨房へ連れていってくれたことだが、基本的に厨房は料理人たちのナワバリであり、普段ルドルフの面倒を見ていた使用人たちも立ち入りづらい。厨房であれば、料理の工程を見学するという名目で使用人たちから離れ、しばし落ち着いた時間を過ごせることに気づいてから、ルドルフは数日に一度の頻度で、厨房を訪れるようになった。
「おや、若君。またいらしてたんですか」
「良いでしょ、別に。邪魔はしないよ」
「若君が邪魔などされないことは知っていますよ。で、今日はどうされました?」
「……廊下に飾ってある甲冑見てたら、『若様にそのようないかついものは似合いません』だって」
「相変わらずですねぇ」
中でもルドルフの話をよく聞いてくれたのは、年若い見習いの青年。幼い頃は随分と大人に見えたが、実際のところ、まだ二十歳にも届かない若者だっただろう。彼はルドルフの顔を一度も褒めず、主家の嫡男に対する最低限の礼儀は保っていたものの、かなりフランクに接してくれていた。
ルドルフの価値を〝顔〟に置くことなく、単なる雇い主の子として接してくれる。たったそれだけのことが、当時のルドルフには、紛れもない〝特別〟であったのだ。
「嫌になっちゃうよ。確かに甲冑は見てたけど、別に騎士になりたいとかじゃなくて、単に装飾見てただけなのに」
「ですが以前は、剣を習いたいと仰っていたんでしょ? それって騎士様になりたいからでは?」
「僕はお話の騎士様みたいに剣を振るってみたいだけで、騎士になりたいなんて思ったことない。騎士が剣を振る姿って格好良いでしょ? 自分で剣を扱えるようになれば、騎士服がもっと映える装飾だって思いつきやすいだろうし」
「え、そっち?」
「もちろん、剣を習って戦えるようになれるのも憧れだけど、一番はそっち。騎士服とか、あと剣も、細かな装飾が綺麗だと思わない? 僕、ドレスの装飾みたいに服を〝飾る〟技術を、もっともっと良くしたいんだよね」
クロケット家のオタク気質からルドルフだけが逃れられる道理はなく、幼い頃から彼は、服を彩る〝装飾〟に人一倍強い興味関心を抱いていた。虫などの自然造形に惹かれるのも服飾のデザインのインスピレーションが湧くからだし、絵本の騎士に強く憧れたのだって、イラストに描かれた彼の騎士服が素晴らしかったからだ。身近に溢れる刺繍糸やビーズ、レースやフリルといった服飾素材は格好の玩具で、部屋で一人遊びするときはもっぱら、〝ぼくのかんがえたさいこうのかざり〟をあれこれ組み合わせて楽しんでいた。一般的な家であれば「男の子がこんな遊びを……」と眉を顰められそうなところだが、クロケット家の嫡男という立場と怪我のしようのない遊びということから好意的に受け止められ、見守られたのは幸いである。
「侍女は結局みんな、僕の顔だけが大事なんだよね。僕がどうして甲冑を見てたのかなんて興味なくて、僕の顔に似合うか似合わないか、いっつもそればっかり」
「まぁ……随分と過保護だなぁとは思いますよ。若君にお怪我をさせちゃならないって使命感はわかりますが、外出すら禁止気味ってのはねぇ」
「父様と一緒なら出掛けられるし、一人でも護衛を山ほど連れて行けば許されるから、完全に禁止されてるわけじゃないけどね」
「けど、そんな山ほど護衛を連れちゃ落ち着いて街を見て回ることもできないって、前に言ってませんでした?」
「それは言った。僕が見て回りたいのは貴族街より庶民街の方だけど、そんなところに護衛たくさん連れてっちゃ、絶対目立つでしょ?」
「目立つでしょうねぇ……」
「まったくさぁ。父様だってお忍びで庶民街に通ってるんだから、僕だけが行っちゃダメってことはないはずなのに」
少し前からジョエルは、王都に住む平民階級の女性のもとへ通っている。なんでも、身分こそ平民ではあるものの、代々王都に住まい、医師や学者といった有力者を輩出してきた名士の家に生まれ、名の知れた商家に嫁いだという経歴の持ち主らしい。嫁ぎ先で娘を授かったものの、不幸にも夫と死別し、婚家と離縁した後は実家へ戻ることなく、王都の庶民街にて居を構えて娘と二人暮らしをしているという。話を聞いた限り、かなり肝の座った豪胆な女性という印象だが、どういうわけかジョエルは、そんな彼女に惚れ込んでいた。息子の目から見ても、女性のことを語るジョエルは生来の美貌三割り増しといった具合に輝いており、ルドルフの母と恋愛感情で結ばれたわけではない父にとって、彼女こそが〝初恋〟なのだろうなと理解できる様相だ。
「良い家の跡継ぎに生まれるってのは、窮屈なことも多いんでしょうねぇ。俺は気楽な庶民で良かったです」
「これ、家の問題なのかなぁ? クロケット家は貴族の中でも自由な気がするけど」
「若君のお顔を侍女さんたちが好きすぎるって理由もありますかね?」
「そうだよね、好かれすぎてるよね。大事にしてくれるのはありがたいんだけどさ」
……そんな風に本音を話せる相手のことを、ルドルフは信頼していた。彼がどうして、ルドルフの顔を褒めないのか、その理由を考えすらせず、自分の気持ちを分かってくれる人だと心を預け、甘えていたのだ。
だから。
「……ねぇ、若君。もしも――誰にも知られず、一人で王都に出られる方法があったら、やってみます?」
「そんな方法があるの?」
ある日、厨房で二人きりになったタイミングで持ちかけられた話に、深く考えず乗っかってしまった。彼が……信頼していた彼が、ルドルフを害する意志を持っているなど、夢にも思うことなく。
彼に言われるがまま、ルドルフは指定された日にこっそり外出支度を服の下に忍ばせ、厨房を訪れた。送ってくれた侍女たちが厨房から出ていき、彼以外の見習いたちもそれぞれの場所について作業に没頭する。
その状況下で、彼はそっと裏口を開け、待機していた食料品店の運搬役に、ルドルフを引き渡した。
「若君を〝頼む〟ぜ」
「任せとけ。ちゃあんと、おぼっちゃまがお望みの場所まで、お送りするさ」
運搬役の男の言葉に嘘はなく、ルドルフを乗せた馬車が辿り着いたのは、王都の庶民街。――庶民街の中でも、一般的に治安が悪いとされている下町の中にひっそりと設けられた、とある組織の隠れ家であった。
出発してすぐは愛想良く、言葉遣いもそこそこ丁寧だった運搬役の男は、馬車が庶民街に差し掛かった辺りで敬語を使わなくなり、ルドルフの扱いがぞんざいになって。
――〝目的地〟に到着したときには本性を隠すことなく、ルドルフを荷物のように担いで隠れ家へ連れ込み、地下の隠し部屋へ乱暴に放り込んだ。
「何するんだ! ここから出せ!!」
「出すわけねぇだろぉ? お育ちのいい、こぉんなにおキレイな顔のお坊ちゃんだ。組織が扱う中でもとびきりの上玉を手に入れて、みすみす逃すバカがいるかぁ?」
「じょ、じょうだま……?」
「分かんねぇよなぁ? 坊ちゃんはあの屋敷で、ダイジダイジに囲われて育ったんだから……こういう無知で穢れないコをドロドロに汚すときが、いちばんコーフンするんだぁ……」
男の鼻息は荒く、どこか常軌を逸していることは、まだ幼いルドルフの目にも明らかだった。本能で後ずさったルドルフをまじまじと見て、男はにたりと身の毛もよだつ笑みを浮かべる。
「怖いか? 怖いだろうなぁ……最初は強がって抵抗してくるようなヤンチャ坊主も、コトが進むほどに怖がって泣いて、喚いて、絶望してくんだよ。そのおキレイな顔がどんな風に歪んで堕ちてくのか、考えるだけで……っ」
「ぼっ、僕に何かあったら、お前なんかすぐに捕まる! 決まった時間になっても僕が帰って来なかったら、お前のことを彼がすぐに知らせて……!」
「くっ、ハハハハハ!!」
足の震えを必死に隠して言い放った断罪は、耳障りな哄笑に遮られた。
ニタニタと崩れ切った不気味な顔で、男はルドルフを一歩一歩、部屋の隅へ追い詰めてくる。
「まさか、この期に及んでまだ、あの見習いを〝味方〟と信じ込んでるなんてなぁ! アイツこそ、お前を俺に売り渡した張本人だってのに!!」
「…………え?」
「お貴族サマのお屋敷で働くマトモなヤツが、素性もはっきりしない外の人間に、大事な〝坊っちゃま〟を預けるわけねぇだろうが! アイツは元々、お前のことなんか大嫌いだったんだよ!」
「うっ、嘘だ!!」
「嘘じゃねぇって。組織のことを知って、アイツの方から話を持ちかけてきたんだぜ? 『貴族の屋敷で大事に育てられた、とんでもなく顔が綺麗な十歳未満児の値段は幾らか?』ってな!」
「ねだん……」
「アイツ言ってたぜ~? 『好きになって何度も告白してるメイドが、屋敷の坊ちゃんに夢中で、全然こっちを見てくれない。プレゼントは受け取るくせに、デートに誘っても断ってくる。平凡な男と並んで歩くより、坊ちゃんの顔を見てたいと笑われた』ってな」
「な……」
「『あのガキさえ消えれば、彼女は俺を見るはず。あのガキを売った金で彼女を落とせば、さぞスッキリするだろ』つって、最後まで嗤ってたよ! ――可哀想に、アイツは今頃、手に入れた大金でテメェの女に高価な贈りものでも選んでるだろうぜ」
「……そ、んな、」
ルドルフは商人の息子だ。他の話は分からなくとも、自身が商品として料理人見習いに〝売られ〟、故にここまで運ばれてきたことだけは、明瞭かつ残酷な事実として飲み込めてしまった。
遂に壁際まで追い詰められ、ルドルフは最後の気力を振り絞り、叫ぶ。
「にっ、人間を、売ったり買ったりするのは、重罪のはずだ!! こんなことしたら、王都を守る王国軍が、黙ってないぞ!!」
「軍、ねぇ。所詮連中は、お偉方の狗だよ。自分らのお膝元に犯罪が蔓延ってようが、お偉いさんに『放置しろ』って命令されたらそれまでだ」
「国の、偉い人が、こんな悪事を見逃すわけが――っ」
「……あぁ、坊ちゃん。アンタ、ホントにキレイだよ。顔だけじゃなく、お育ちも何もかもキレイで、世間の汚泥なんざ知りもせずに生きてきたんだろうなぁ」
壁際まで追い詰めたルドルフの両横に、男はばん! と両手をつけ。
濁り切った両の眼に捻れ歪んだ恍惚を浮かべ、うっとりとルドルフの全身を舐めるように眺めながら、囁いてきた。
「この世には、なぁ。俺みたく、顔の良いちっちゃな子を――できれば男の子を、ぐちゃぐちゃのドロドロに穢して、壊して、そうやってキモチ良くなりたい野郎が、そこそこ居るんだよ。ここは、そんな野郎のために、いつでも〝男児〟を提供できる場所だ。お得意様には、王宮で結構な地位に就いてる、お貴族サマだっていらっしゃる」
……悍ましい、〝地獄〟の真実を。
母親を記憶でしか知らず、父は外に通う女性がいるものの、ルドルフの前で男女の〝夜〟を具体的に匂わせたことはない。精通を迎えていない年齢で詳細な性教育を受けているわけもなく、ルドルフは〝性〟に関して無知だった。
それでも……何も知らないルドルフですら、自身の〝何か〟が男に狙われ、危機に瀕していることだけは、ひしひしと感じ取れた。ここに囚われてしまっては、もう二度と明るい光の下で、生きていられなくなる――と。
(ぼく――僕、は!!)
本能で命の危険を察知した鼠は、天敵である猫すら怯ませる力を発揮するという。背後には壁、右と左は男の腕、正面には男の体と、逃げ場などどこにもない状況で、気づけばルドルフは飛び上がり、全体重を自身の膝に乗せて、男の股間を攻撃していた。
ごり、ともむにゃ、とも絶妙に違う、気持ちの悪い感触を膝に感じた一拍後、正面の男が身体をくの字にさせ、タタラを踏んで蹲る。
「ぐ、ぉ……」
この機を逃せば、助かる道はない。天啓のように悟ったルドルフは、未だ開きっぱなしだった扉から脱兎の如く飛び出し、来た道を駆け戻る。幸い、地下室に人気はそれほどなく、地上へ上がる階段までは見つからずに辿り着けた。
――これは後から聞いた話になるが、ルドルフは幸運だったのだ。この組織が少年を攫う際、通常であれば脱走を警戒し、万全の体制を敷く。地下に見張りを置かないなどあり得ず、運良く部屋から逃げ出せたとしても、すぐに捕らえられてしまうという。
しかし、いかな犯罪組織といえど、〝貴族の箱入り息子〟を拐かすのは初めて。常日頃から外を元気に走り回っているヤンチャな男児なら警戒もしただろうけれど、ルドルフの触れ込みは〝屋敷の奥深くで怪我一つしないよう大事に飾り立てられて育った、深窓の令息〟だ。部屋に放り込みさえすれば、怖がって逃げることすら思いつかないだろうと、組織は警戒を怠った。同時に、下見の段階でルドルフの美しさに我を忘れた運搬役の男が、運んですぐに〝味見〟したいという欲望を抑え切れず、意図的に地下から人払いをしていたのだ。
二つの偶然が重なった結果、ルドルフは奇跡的に部屋を逃げ出し、階段まで辿り着くことに成功する。
そして、さらなる幸運は続いて。
「チッ。なんで俺がガキどもに飯なんざ……」
階段を登ろうとした瞬間、聞こえてきた声に反射で身を翻し、階段横の暗がりに身を潜め。降りてきた柄の悪そうな男が、バスケットに入った硬そうなパンを、扉についた木窓から部屋へポイポイ投げ入れていく後ろ姿を確認し、ルドルフは一気に階段を駆け上がった。階段を上り切った後は、運搬役の男がルドルフを荷物のように担いで通った扉を開け、外に誰もいないことを確認して素早く飛び出す。
外が見えない荷馬車の奥に詰められていたときはともかく、荷物のように担がれている間、ルドルフの目は自由に動き、見たものを記憶することができた。混乱の最中でもルドルフの頭は確かに動き、己を担ぐ男がどういう道を通ってあの地下の部屋へ辿り着いたのか、しっかり覚えていたのだ。
「おっ、おい! あれ……!」
「子ども……? まさか、おい、待て!!」
さすがに、敷地外へ出るまで誰にも見つからない、なんて奇跡はなかったけれど、見つかったのが塀を越える直前だったことも幸いだった。見つかってすぐによじ登り切った塀を超えて外へ降り、そのまま一目散に駆け、逃げる。ごみごみとした下町は、ありがたいことに、追跡者の目からルドルフの小さな身体を隠すことに一役買ってくれた。
とはいえ、護衛もなしでたった一人、家の外へ出た経験のないルドルフに、王都の詳細な地理が分かる訳もない。庶民街にいるときは、ひとまず王宮を目指せば貴族街に近くなるという一般常識程度は知っていたけれど、小さな建物が乱立する下町では、遠くにある王宮を探すことすら困難だ。
加えてここでも、ルドルフの容姿は、悪い方に作用した。
「キレイなボク~? そんなに急いでどうしたの?」
「おまえっ、スッゲーキラキラしてるな!!」
少しでも人が多い場所を通れば、その場にいる人間が息を止めて振り返り、二度見するほどの圧倒的美貌。おそらく、(当時は気付かなかったが)下町に不釣り合いな貴族子弟の衣装を身に纏っていたこともあるだろう。誰もがルドルフに構おうとし、逃げたいルドルフの行く手を阻んでくる。
それらを掻い潜り、死に物狂いで前へ前へと走りながら、いつの間にかルドルフの頬を大粒の涙が流れていた。
(もう、もう、いやだ!! こんな顔、もう、捨てたい……!)
もしも、自分の顔が〝普通〟だったら。
きっと、使用人たちから必要以上に構われることなく、好きなものを好きと言って、否定されることもなかった。
顔に怪我をするなんて意味不明な理由で武術から遠ざけられることなく、自衛できる程度に己を鍛えることもできた。
「顔を見てるだけで幸せ」なんて侍女に思われることもなく、彼女に恋をした料理人見習いから、不必要に恨まれることだって、きっとなくて。恨みに染まった見習いによって、犯罪組織へ〝売られる〟ことも、なかったはずだ。
ルドルフはただ、普通に生きたかった。綺麗な顔だとチヤホヤされ、あらゆる危険を取り除かれ守られて、人形のように飾り立てられるよりも。使用人の子たちと同じように木登りや取っ組み合いの喧嘩だってして、護衛の男たちから剣術を習って、彼らの服や武具を思う存分見せてもらって、似合う装飾を考えて……そんな、学院入学前の貴族の子が過ごす、当たり前の〝日常〟が欲しかった。
顔が綺麗だと褒めてくれる人たちは、ルドルフの中身まで見てはくれない。ルドルフの顔を尊び、構おうとする使用人たちは皆、〝ルドルフ〟が大切なのではなく、ルドルフの〝顔〟を好んで群がっているのだ。
だから誰も、ルドルフの言葉を聞かない。やりたいことを、認めてくれない。ルドルフを嫌っていたという料理人見習いの方が、ルドルフの話をきちんと聞いて寄り添ってくれ、〝商品〟扱いしてきた下衆な男の方が、「育ちまでキレイ」だとルドルフの〝これまで〟を認めてくれたのは、いったい何の皮肉なのか。
(顔が綺麗だ、って言われても。良いことなんて、一つもない……!!)
いつの間にか、王宮を探すことすら忘れ。
真っ暗な世界を、ルドルフはただ、ただ、走っていた――。




