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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
にねんめ
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或る娘のものがたり


 ナーシャの生家は、王都に居を構える、そこそこ大きな商店だった。王国随一と謳われる『ノーラン商会』には遠く及ばずとも、王都民に人気のある家財や食器を専門に取り扱い、二十年ほど前までは安定した収益を上げていたらしい。

 そんな商店に唯一欠けていたもの。それが、次代を担う、優秀な跡取りであった。


 直系の長男は、誰がどう好意的に見ても、商才があるとはお世辞ですら言えないような男。

 長子である長女にはそれなりの商才があったけれど、何処の馬の骨とも知れぬ風来坊と燃えるような恋をして、家出同然に嫁いでいった。

 最も商売に長けた末っ子次男は生まれたときから身体が弱く、商店の激務には耐えられそうもない。


 親戚連中も加わり、跡取り問題で揉めに揉めた結果、末っ子次男が新たな選択肢を出してきた。


「幼い頃からウチで働いてくれているナタンを養子にして、跡を継がせたら? ナタンは遠縁の子で、僕たちとは兄弟同然に育った。家のことも店のこともよく知っていて、身体が弱い僕の面倒を一番見てくれているのもナタンだ。商売の才覚も、人柄も、僕ら兄弟よりずっと優れてるのは間違いないよ」


 寝耳に水の提案に誰より驚き狼狽えたのが、名指しされたナタンその人だったことは、想像に難くない。末っ子次男の言葉に嘘は一つもなかったが、そのときまで彼は、あくまで使用人の立場であった。確かに遠縁ではあったけれど、王都で大きな商店を構える家の縁戚だと堂々言えるほど、近い血筋でもなかったからだ。

 末っ子次男の提案は、もちろん、長男を推す層から強烈に反対された。

 が、しかし。それ以上に、末っ子次男を支持する層と、商店の先行きを憂う層から、両手を挙げて受け入れられたのである。……要するに、このまま長男がなし崩しに家を継いでしまったら、この店にそれ以上の未来はないと多勢が判断したわけだ。


 温厚ながら粘り強い、商売人向きの性格と、時勢を読み取り商機へと繋げる才覚に長けてはいるものの、一族の中では末端の血筋である、ナタン。

 そんな彼に箔をつけようと、末っ子次男が中心となってあてがった嫁こそ、ナーシャの母、ファニーであった。貴族でこそないけれど、先祖代々王都に住む名士一族の末裔で、気立ての良い働き者と、当時は評判だったらしい。十代の終わりと、まだ若かったファニーは夫を持つことにそれほど興味はなかったけれど、紹介されたナタンに惹かれるものがあったのか、二人は順調に距離を縮め、やがて結婚するに至った。


 そんな二人の間に生まれた娘――それが、ナーシャである。

 エルグランド王国は、女性が外へ出て働くことには寛容だけれど、女性が〝当主〟であることは、実のところあまり推奨されない。別に法律で禁止されているわけではないのだけれど、前身であった〝湖の王国〟時代の名残か、「当主はいざというとき戦場へ出向ける者が望ましい」という風習が根強く残っているのだ。成人前の娘が爵位を継げないのもそれが理由だし、対外的には入婿が爵名を名乗り、爵位を継いだ娘が夫人を名乗るのも、同じ理由に由来する。

 人間の集団心理の常として、社会的に〝上位〟とされている者たちの風習は、良くも悪くも〝下〟の者へ強い影響を与えるものだ。本来は戦場に立つ義務のある貴族間で広まったに過ぎない〝跡継ぎは男子〟の風習は、長い時間をかけ、民の間にも浸透していった。特に、自分たちは名家だと信じている家では、理由も曖昧なまま、後継者には男を望む向きが強い。

 王都でそこそこ大きな商店を営んでいたナーシャの生家もまた、自分たちは〝名家〟であるという自負が強かった。ましてやナタンは、ただでさえ突かれやすい〝弱点〟のある後継者だ。そんな彼と妻の間に生まれた子が女子だったとなれば、特に長男を担ぐ者たちは、こぞって彼ら一家を非難する。

 生まれてから実父ナタンと死別するまで、「家も継げない無価値の女を産んだ嫁」「役立たずの女に生まれてきた空気の読めない娘」と母娘セットに罵られることはしょっちゅうで、ナーシャは自分の家が大嫌いであった。ナーシャが物心つく前に、ナタンを後継者にと強く推してくれた末っ子次男は亡くなり、軽い神輿を担ぎたい〝長男派〟が全力で調子に乗っていた頃だったから、三人の肩身は相当に狭かったのだ。


「あいつらは馬鹿だから語彙力がなくて、罵倒も一辺倒なのよ。どうせ罵るなら、もう少しバリエーション豊かにしてくれなきゃ、こっちも張り合いがないわ。頭が弱くて可哀想な連中が喚いてるなと思って、放っておいてあげなさい」


 唯一の救いは、母ファニーがその繊細な美貌を裏切る女傑で、あの家の陰湿さを全く気にしていなかったことだろう。強がりでもなんでもなく、ファニーは〝長男派〟の嫌がらせの数々を「羽虫が鬱陶しいわね」程度にしか感じてなかったし、むしろ仕事で日中妻子の近くにいられないナタンが、後から話を聞いては申し訳なさそうに謝るのを、「あなたが謝る必要ないのよ」と慰めていた。

 そんな両親の会話を母の膝で聞く、幼いナーシャの手には、子ども向けに商売のイロハを説いた入門書があって。


「お前、顔はあたしに似たけど、性格と才能はナタンに似ちゃったもんね。ナーシャがこのまま順当に育って後を継げば店は安泰なんだろうけど、あんな頭の弱い親戚連中抱えてる家なんか、可愛い娘に背負わせたくないし。まだまだ先の話ではあるけど、どうしようね」


 ファニーに商売の才能はそれほどないが、その代わり、人を見る目はずば抜けている。争いごとを好まない温厚な性格も、それでいてここぞという場面では引かない胆力も、――何より時流と金の流れを見極めて〝売れる〟商品を見逃さない、商人としての天性の才能を、ナーシャがそっくりナタンから受け継いでいることを、彼女はかなり早い段階から察していた。

 常識的に考えれば、ナーシャほど〝王都の商店〟の後継者として、相応しい人材はそういないだろう。しかし、ナーシャがただ女だからという理由で、一族は彼女を認めようとしない。そんな家で、無理に娘を後継者として育てても、ただ不幸にするだけだ。

 そう考えたファニーは、ナーシャには平民の良家の娘として最上級の教育は施したものの、商人に必要な学びは最低限に留め、様子を伺っていた。〝長男派〟はただ軽い神輿を担いで家や店を好き勝手したいだけの、言うなれば家にとっての害毒の集まりだ。まともな思考を持つ者は近寄らず、実権は現当主と、後継者指名を受けたナタンが二分して持っている。放置したところで何ができるわけでもなく、そのうち勝手に自滅するパターンも充分考えられる状況で、下手につつきに行くほど、彼女は愚かではなかった。


 そうして、ナーシャが無事に八歳を迎えた頃。――買い付けに出ていたナタンが、盗賊に襲われ帰らぬ人となったのである。


 ナタンが亡くなり、無能な長男は狂喜乱舞した。既に当主は高齢で、他に目立った後継者候補はいない。当主とナタンの温情でそこそこの役職を与えられていたことも災いと化し、無能な長男は跡継ぎとなった。あまりに無能、かつ人間としても最低すぎて嫁の来手すらなく、未だ独身であった彼は、よりにもよって寡婦となったファニーへ目をつける。


「俺と結婚しろ。お前もこのまま、何不自由ない跡取りの妻でいたいだろう」

「はぁ? 散々女腹だの、顔が綺麗なだけの役立たずだの、あたしのことも娘のことも馬鹿にしておいて、よくそんなことほざく気になれたね? 言うまでもなく、お断りだけど」

「おっ、俺が声をかけてやったのに……! 妻にならないなら、お前など、この家とは何の関係もない女だ! 子どもを連れて、今すぐ出ていけ!!」

「言われなくても出て行くわよ。あたしは大店と結婚したんじゃなくて、そこの息子と結婚したんだから」


 ナタンとファニーはナーシャから見ても仲の良い夫婦であったけれど、ファニーは本当にナタンを好いていただけで、彼が継ぐ家のことはあくまで付属物程度の感覚だったのだ。跡取りの妻として任されていた様々な仕事をきっちり周囲へ引き継いで、ファニーはナーシャを連れ、婚家から出ていった。実家の両親は既に亡くなり、兄夫婦が跡を継いでいる。兄の妻と昔からあまり折り合いの良くなかったファニーは、最初から実家に頼ることは考えず、親娘二人で生きていく道を選び。幸い、二人を心配した当主が手切金の名目でまとまった金をくれたので、それを元手に家を借り、とある大衆食堂の給仕として、ファニーは新たな生活をスタートさせた。

 それからほどなくして。


「ナーシャ。母さんね、今度働く店が変わることになったよ」

「そうなの? どこ?」

「貴族街にある、ランスロットって店。何でも、今働いてる店と経営者が一緒らしくてね。その経営者が知らない間にウチの店まで来てて、あたしの立ち居振る舞いが貴族向きだってんで、そっちで働いてみないかって声を掛けられたんだ」

「……それ、スカウトってやつ?」

「そうなるのかね」


 日常の話し言葉は下町の女将さんが板についているファニーだが、仮にも王都の名士一族の出身者として、その気になれば礼儀作法は完璧にこなせる。人を見る目がずば抜けている彼女は、お忍び貴族も容易く看破できるため、大衆食堂で働いていても、上流階級向けの礼儀作法が必要と判断した客には、普段と別人のような振る舞いを披露していた。その様子を経営者が見たのだとしたら、確かに「こんなところに置いておくのは勿体無い」と思うだろう。国王陛下のお膝元に広がる王都に住まう民であっても、貴族向けの礼儀作法が完璧な人間は、実のところ以外と少ないのだ。


「上の方から直々のスカウトなんて、滅多にないって聞くよ。貴族向けの上流飲食店なら、お給金もかなり上がるんじゃない?」

「ああ、倍近くにはなるって」

「すごいね! おめでとう、お母さん。頑張って!」

「ただ、ねぇ。勤め先が貴族街ともなると、勤務時間はともかく、通勤時間が今より長くなるだろう? 特に夜は遅くなりそうで……」

「心配ないって。簡単な料理なら作れるようになったし、他の家事もかなり上達したのよ? 一人でもちゃんと留守番できるわ」

「……昔から賢い子だったけど、ますますしっかり者になったわねぇ、ナーシャは」


 ファニーと庶民街で暮らし始めてすぐ、ナーシャも新たな生活に馴染もうと、積極的に動いていた。昼間は学校へ通い(授業内容は既に学び終えたことばかりだったので、基本は友人作りがてら勉強に躓いている子のフォローに回る)、学校が終わった後は神殿隣接の孤児院でお手伝い(手っ取り早く家事を覚えるには、実際に生活している人の中に混ざるに限る)。一応は大店のお嬢さん生まれとして、これまで縁のなかった掃除洗濯炊事に真正面から取り組んだのだ。学校の先生も友人たちも親切で、一般常識に疎いナーシャを馬鹿にすることなく一から教えてくれたし、孤児院の職員は優しく、小さな子たちは可愛らしい。――何より、誰一人としてナーシャのことを、「顔が綺麗なだけの役立たず女」なんて言わない。

 そんな暮らしが楽しくも新鮮で、ナーシャは気づけば、短期間で家事の腕前がかなり上達していた。


 そうして、ナーシャに留守番を任せ、ファニーは『ランスロット』で働き始め。


「ただいまー、ナーシャ!」

「おかえりなさい、お母さん。……えっと、そちらの方は?」

「あぁ、この人? お店のお客さん」

「……は?」


 ある日の夜、とてつもなく顔の整った美男子を、庶民街の集合住宅へ連れて帰ってくるという暴挙をやらかしたのである。

「住んでるところを見てみたいって言うからさ」と本人はあっけらかんとしたものだけれど、ドアを開けたら母の後ろに美男が立っていて、心構えゼロで対面するハメになった娘の気持ちも、少しは考えてもらいたい。大慌てで招き入れ、とにかくお茶を淹れなければと思い立っても、普段大して客も来ないこの家に、上流向けの茶葉があるはずもなく、お茶受けに至っては影も形もない。

 母に相手をしてもらっている間、ナーシャは慌てて近隣の住人に事情を説明し、説明した相手をもれなくひっくり返らせながら、どうにかこうにかお茶とお茶菓子を用意して、見知らぬ美男をもてなした。


「ほぉ、これは美味しい。お嬢様はお茶を淹れるのがお上手ですね」

「い、いえ、そんなことは」

「これほど結構なおもてなしを受けながら、名乗りが遅くなり、申し訳ない。――ジョエル・クロケットと申します」

「ク、クロケット、って……あの、クロケット紡績商の? だ、男爵様ですか?」

「なるほど。これは博識なお嬢様だ。ファニーさんが自慢するわけですね」

「そうよ? 最高の娘なんだから」

「おっ、お母さん!」


 いくらなんでも、貴族様相手にファニーの振る舞いは失礼が過ぎる。慌てて嗜めようとしたナーシャを、男爵は笑って制止した。


「良いのですよ、お嬢様。ファニーさんには私から、仕事のとき以外はいつものあなたでいて欲しいとお願いしたのです」

「で、ですけど……」

「ランスロットで完璧な給仕として佇むファニーさんもお美しいですが、あまりに完璧すぎて、どこか人間味がない。それより私は、言葉も振る舞いも上流とは程遠い、いつものファニーさんの方が好ましくてね」


「私は確かに貴族だが、爵位を得てまだ浅い。仕事中は民に混じって働くから、言葉も砕けている。君が思うほど高貴な存在ではないのですよ」と上品に微笑む男爵の言葉はにわかに信じがたかったけれど、彼がファニーを特別に想っていることは、短い時間でも何となく察しがついた。

 それでも、生まれながらに貴族で、しかも国内の紡績業の先頭をひた走るクロケット家の当主が、庶民街の安アパート住まいの女と本気でどうこうなるわけがない。良くて愛人、もしくはたまに〝遊ぶ〟仲になるのがせいぜいだろう。ませたナーシャはそう思っていたし、何より本人であるファニーがそう言い切っていた。


「男爵様の奥様は産後の肥立ちが悪くて亡くなられたらしいけれど、立派な男児を遺していらっしゃる。男爵様もここまで男手ひとつで立派にお子さんを育てて来られたんだ。今更庶民の女とどうこうなろうとはなさらないよ」


 ――そんな風に考えていたのは、どうやらファニーとナーシャだけだったらしい。出会って数年、誰が見ても良好な〝大人のお付き合い〟を続けていた男爵はある日、立派な花束を抱え、ファニーに求婚したのだ。

 後妻に庶民の、しかも連れ子のいる女を選ぶなど、貴族社会では〝血迷った〟と表現される、なかなかにぶっ飛んだ行いである。男爵の立場を考え、一度は断ったファニーだが、「あなたのためなら爵位を捨て、ただのクロケットになっても構わない」と迫る男爵に折れ、二人は結婚することとなった。

 同時にナーシャもクロケット家の籍に入り、〝貴族〟の仲間入りを果たすことになったのだが。


「あの、男爵様。男爵様には、十歳になるお子様がいらっしゃると聞いています」

「はい、その通りですが」

「お子様――坊っちゃまがもしも、庶民上がりの女と同じ屋敷で暮らすことを嫌がられるのでしたら、どうか私のことはお気になさらないでください。母は名家の生まれですので坊っちゃまにもご納得頂けますでしょうけれど、私の生家はお世辞にも、良い家とは申せませんので」


 先頃、生家の当主が亡くなった。跡を継いだのは無能と名高い長男で、実権を握ってまだ間がないにも拘らず、店はさっそく混乱が始まっているらしい。見切りをつけて早めに出てきた元従業員が、わざわざ訪ねて近況を教えてくれたのだ。

 実父はあの家の後継だったが、血筋上はあくまでも末端。その家も、長男が跡を継いだ以上、後は落ちるばかりだろう。そんな家に生まれた人間を、義理とはいえ姉になどしたくないと言われたら、ナーシャとしては「ですよね」以外に返す言葉がない。

 本格的に会って不愉快にさせるより、もしも当人が納得していないなら、最初から〝家族〟にならない方が良い。そう考えての申し出は――。


「馬鹿なことを言うんじゃない。あの子がそんなことを抜かすなど天地が逆さになってもあり得ないが、もしもそんなふざけたことを言い出したら、私があの子を家から放り出すよ。クロケット紡績商を支えてくれているのは、他でもない、王都に住まう民たちなのだから。民を下に見るようでは、我が家の後継はとても務まらない」

「ぁ……申し訳ありません、失礼を」

「いいや。ナーシャ嬢がルードを――息子を気遣ってくれたことは分かるよ。だが、忌憚なく言えば、それは杞憂というものだ。息子には、ファニーさんと君のことを、ありのまま伝えてある。あの子は話を全て聞いた上でとても好意的に受け止めて、会う日が楽しみだと言っていた」


 おそらく無意識にだろう。敬語が抜けた男爵の言葉は、確かに常より砕けていた。彼の言葉を信じるのなら、男爵家の後継である少年は、義理の母と姉にさほど嫌悪感は抱いていないらしい。

 それでも、実際に会うまでは……と緊張していたナーシャを、顔合わせの日に出迎えたのは。


「ルドルフ・クロケットと申します。――初めまして」


 紛れもない喜色を浮かべ、そう挨拶した少年は、どこからどう見ても〝天使〟であった。眉目秀麗な男爵の子ということで予想はしていたが、彼の息子ルドルフは、輪をかけて美しい容貌の持ち主だったのだ。

 姿形、だけではない。ルドルフは、男爵が自慢していた通り、心まで美しかった。


「お母様ができて、ぼく、とても嬉しいです。……それに、お姉様まで」


 そう言って控えめに微笑むルドルフからは、歓迎と喜びのしか感じられず。


「王都は安全とはいえ、美しい女性二人での生活は、落ち着かないことも多いでしょう。父上の婚約者様なのですから、なるべく早く、屋敷に来て頂いた方が良いのではありませんか?」


 結婚と引っ越しのタイミングに悩む男爵とファニーに、そう申し出さえ、してくれたのだ。


「……ありがとうございます、ルドルフ様」

「ルード、で結構です。敬語も必要ありませんよ、ナーシャ嬢。あなたは、ぼくの姉君なのですから」

「それなら……ルード、も、どうか心易く、お話になって。敬称も必要ありませんから」

「うん。――分かった、姉さん」


 ……そう言って明るく笑ったルドルフに、思わず惹きつけられたあのときには、もう。

 思い返せば、〝想い〟の種は、埋まっていたのかもしれなかった。




 ――それから、およそ五年。

 ナーシャは〝クロケット男爵令嬢〟として社交デビューし、貴族特有の遠回し話法で〝庶民上がり〟と馬鹿にされつつ、けれど一方で新進気鋭の新興貴族家の令嬢だからか完全に弾かれることもなく、無難に貴族社会を泳ぐ術を身につけつつあった。

 義父となったクロケット男爵は、生家の男たちのように「女だから」とナーシャを蔑ろにはせず、望めば事業にも関わらせてくれる。もとより商売に興味のあったナーシャは、義父の指導のもと、販売方面における才能をぐんぐん伸ばし、充実した日々を過ごして。

 ある程度、家にとって価値のある存在になれば、血筋は庶民でも〝クロケットの娘〟として、家族のためになる結婚ができるのではないか、と薄ぼんやり考えていた。


(……どうせ、本当に望む人と結ばれる未来は、訪れないのだから)


 埋まった〝種〟は枯れることなく、五年の間にしっかりと根を張り、芽を出し、茎を伸ばして葉を茂らせ、立派な〝花〟を咲かせていた。……ルドルフへの恋心という名の、花を。


(生まれの身分からも、決して結ばれない身ではあるけれど。……何より、あんな家の生まれである私など、ルードを恋慕うことすら許されない)


 たった五年で、ナーシャの生家が営んでいた店は、傾きに傾いていた。無能が実権を握り、そいつをヨイショして甘い汁を吸うことしか考えていなかった連中が重要な役職を独占していたのだから、自明の理ではあるのだが。

 もはや自分たちの力で立て直すのは不可能だとようやく悟った連中は、よりにもよって、かつての後継者の娘――ナーシャに、目をつけた。ナタンの実子であるナーシャには、家と店を助ける責任があると、密かに遣いを寄越してきたのだ。断れば、〝クロケット男爵令嬢〟は生家を支援する責任感も情けもない娘だと、王都中に悪評をばら撒く、と。

 自業自得で家を傾けた連中の言うことなど、誰も信じはしない。かといって、悪評を流されるままになるわけにもいかない。そんなことをすれば、クロケット男爵家ごと方々から侮られてしまうのは目に見えている。

 いっそお金を渡すべきか……だがしかし、あの手の連中は、一度金を渡せば際限なく求め、こちらが枯れるまで搾り取ろうとするだろう。ナーシャに店を回す能力があると知られてしまったら、最悪の場合、家へ戻れと言い出しかねない。

 いずれにせよ、あんな、家にとって害にしかならない奴らがまとわりついているナーシャが、クロケット男爵家の後継者であるルドルフの〝隣〟を望むなど、ナーシャ自身が許せなかった。


(天使みたいに美しくて優しいルードのお嫁さんは、同じように汚れのない、純真なご令嬢が相応しいわ)


 身分違いの身ながら、ルドルフに〝姉〟と呼んでもらえる立場となれた。その現実に感謝し、満足しておくべきだ。

 ルドルフへの恋心はそう胸のうちに秘め、生家についてどうするべきか考えながら、憂鬱な年明けを迎えたナーシャを、さらなる〝悲劇〟が襲う。


「ルードも、今年で十五歳よね。何か欲しいものはない?」

「あるよ。――姉さんを、ちょうだい?」


 ……それまで、ナーシャの前で〝弟〟の顔を崩したことのなかったルドルフが、突如として〝男〟の情をぶつけ、ナーシャの心身を絡め取ってきたのだ。思いもよらぬ現実に、ナーシャの心は千々に乱れ、荒れ狂う。


(ルードは、どうして)


 恋慕う彼から望まれて、ナーシャの本能は歓喜する。

 けれど、同時に、分かっていた。……ルドルフとは、決して、結ばれることはない。結ばれてはいけない、と。


(お義父(とう)様にも、お母様にも、内緒のまま……私を抱き続けるということは、ルードだって、分かってるのよ)


 はっきり聞いたことはないけれど、クロケット男爵はルドルフの結婚相手に、子爵位以上の家の娘を求めている。家の権威を高める最も効果的な手段が〝結婚〟であり、新興貴族として舐められないためにも、ルドルフの相手が〝貴族〟であることは絶対条件なのだ。厄介な親類縁者がついてくる、〝庶民〟の血筋の義姉など、間違ってもルドルフの相手には選ばれない。


(なのに、どうして――!!)


 ルドルフの執着は、感じれば感じるほど、底知れない深さだった。十五年しか生きていない心に、どうやってそれほどの執着を忍ばせていたのか不思議になるほど、覗けば覗くだけ、その深淵へと飲み込まれそうになってしまう。

 このままではいけない。ルドルフの求めに心から応じたいという欲求が日増しに膨らんでいく中、ナーシャは必死になって打開策を探った。


 ――そして。


「な……後宮、だと?」

「はい、お義父(とう)様。先ごろ開設された国王陛下の後宮は、これまでの慣習とは異なり、位階を問わず多くの側室を集めることになったと聞きました。しかしながら、内務省の方々が理想とする人数には未だ及ばず、広く希望者を募っているとも」

「確かに、そうだが。だからといって、ナーシャが名乗りを上げる必要はないだろう。あそこは、王の正妃の座、ないしは寵愛を求める令嬢たちが入る場所だぞ? それともナーシャはまさか、王の寵愛を望んでいるのか?」

「それこそ〝まさか〟ですわ。知らない方の愛を求めるほど、私、愛に飢えてはおりません」

「だろう? なら、わざわざそのような場所へ赴くことはないはずだ」

「後宮が基本的に正妃争いをする場所で、王の寵愛を競う場でもあることは確かです。しかしながら、先ごろ開設された後宮は、あまりに側室希望者が少ないもので、内務省が困窮した貴族家向けに〝支度金〟を配り出したと聞いています。充分な支度さえできれば娘を側室に上げたいお家に対する救済策、という建前で」

「あぁ、白々しい建前だ。実際は、金と引き換えに娘を差し出せという、困窮貴族への恫喝でしかない。娘たちにとっても、身売りのようなものだろうが……側室となることで家族が助かるならと、〝支度金〟の話が広まって以降、〝側室希望者〟はぐっと増えたらしい」

「その〝希望者〟はお金が欲しいだけで、正妃の座はもとより、陛下の寵愛とて望んではいらっしゃらないでしょう。ならば、そこに私が紛れ込んだところで、違和感はないはずです」


 ナーシャの提案に、男爵は難しい顔で唸った。


「ナーシャのしたいことは全てさせてやりたいが、こればかりは……先ほども言った通り、〝支度金〟のおかげで側室希望者は増えているのだ。そなたがわざわざ入らずとも、内務省の考える数にもすぐ届くだろう」

「お願いします、お義父様。私が……〝クロケット男爵令嬢〟が側室として後宮に上がれば、〝側室の実家〟として、この家にさらなる箔がつくでしょう。クロケット家が新開発した生地で作られたドレスを後宮内で纏えば、良い宣伝にもなるはずです」

「ナーシャ……どうして、そこまで」

「私……どうせ嫁ぐなら、最も家のためになるところへ、嫁ぎたい。今、この国で、国王陛下以上の結婚相手など、いらっしゃらないでしょう?」


 ……もちろん、最も大きな理由は、ルドルフと距離を置くためだ。国王陛下以外の男性は立ち入ることすら許されない場所へ行ってしまえば、物理的にも心理的にも、彼と離れることができる。

 けれど、自分たちを仲の良い〝姉弟〟だと信じている義父に、そんな〝理由〟は言えるわけもなく。説得のために紡いだ言葉も確かに本心ではあるけれど、納得させるに弱いこともまた、ナーシャ自身が実感していた。

 ――だけれども。


「……本気、なのだね。ナーシャは本当の本気で、後宮へ行きたいようだ」

「――はい、お義父様」

「今回開かれた後宮には、前例がない。一度入ったが最後、下手をすればスタンザ帝国の後宮(ハレム)のように、死ぬまで出られないかもしれないぞ。……それでも、行くのか?」

「その、覚悟がなければ。最初からこのようなお話は、いたしません」

「そう、か」


 男爵が何を考え、最終的に首を縦に振ってくれたのかは分からない。けれど結果的に、彼はナーシャの申し出を受け入れてくれた。「反対されたら行きづらくなるから、出発ギリギリまで、お母様とルードには黙っていて」というナーシャの願いにも、快く頷いて。


「……姉さん?」

「なぁに、ルード?」


 無事、側室内示が降ってからの日々は、ナーシャにとって最も心穏やかに過ごせた、最後の時間となった。あと数週間で確実に離れられるのだから、ルドルフの求めに応じたところで、彼の未来を翳らせることはない。そう思えば余裕もできて、ルドルフを必死になって拒絶することもなく、心のままに向き合うことができたのだ。

 鬱陶しいほど届いていた生家からの手紙も、一文「この度側室として王宮へ上がることとなったので、そちらの求めには応じられない」と返して以降、嘘のように途絶えた。さすがに、国王陛下の〝妻〟となる娘を恐喝できるほど、連中の肝は太くなかったらしい。あまり評判の良くない〝後宮〟ではあるけれど、ナーシャにとってはまさしく、混迷の状況を全て打開してくれた、天の救いに他ならなかった。


「……ナーシャ、ごめん。ごめんね」


 ――唯一誤魔化しきれなかったのは、やはり、母のファニーだ。ルドルフとナーシャが肉体関係に発展したことまで見抜いていたかは定かでないけれど、彼女はきっと随分前から、ナーシャがルドルフに、姉弟の情を超えた想いを抱いていると気付いていたのだろう。出立前夜、詳しく話さずとも、ルドルフへの〝想い〟を断ち切るために入宮する道を選んだと察したファニーは、「つらい想いをさせてごめん」と何度もナーシャへ謝罪して。


「……待ってて。どれくらい時間がかかるか分からないけれど、ナーシャが最上の幸せを掴めるように、できる限りの手は尽くすから」


 滅多に見せない涙を零し、ナーシャの手を握って。ファニーはそう、励ましてくれた。


「大丈夫よ、母さん。私のことは、気にしないで。これからは、お義父様と、ルードと、家のことだけ、考えてね」


 強がりにもほどがある、別れの言葉を交わし。ナーシャは、最後の夜を母と過ごした。


 そして、出立の日。


「……あの、お義父様。ルードは?」

「ルードなら、もう学校へ行ったぞ?」

「もしかして……私が後宮へ上がることを、あの子は」

「帰って来たら話しておくさ。ルードのことは気にせず、お前は後宮でしっかりやりなさい」

「手紙を書いてね、ナーシャ。困ったことがあったら、遠慮せず、いつでも言うのよ。困ったことがなくても、日常のどうでもいい話で構わないから、近況はちゃんと知らせてちょうだい」


 そう言って笑う両親に見送られ。

 ナーシャは、後宮に住まう〝側室〟となった。




 後宮での暮らしは、覚悟していたほど悲惨ではなかった。古参貴族家出身の令嬢たちが幅を利かせ、我が物顔で暴れ回ってはいたけれど、幸いにしてナーシャは、罵詈雑言とみみっちい嫌がらせへの耐性持ちだったからだ。周囲の新興貴族家出身の側室たちは苦しんでいたし、仮にも国王陛下の名で開かれている〝後宮〟がこれでは国の恥だと思ってはいたが、ナーシャにできることはない。入宮して間もなく、リディルとシェイラという気の合う友人ができたこともあり、ナーシャはその他大勢の側室たちに紛れ、後宮暮らしに馴染んでいった。


(母さんはともかく……ルードに私が側室になることを最後まで言わなかったってことは、もしかしてお義父様も、ルードが私に執着していたことを、感じ取っていらっしゃったのかしら)


 気持ちが落ち着くにつれ、逃げ出してきた状況を客観的に振り返ることもできるようになる。考えてみれば、ルドルフが頻繁にナーシャの寝室へ忍んできていた日々を、使用人の誰一人にも怪しまれなかったというのは、可能性としてあまりに低い。


(だと、したら。お義父様と母さんは、どこまで気付いていたのかしら。さすがに室内でしていたことまでは、想像が及ばないと思うけれど……)


 ルドルフがナーシャへどれほど執着したところで、家のことを考えれば、彼の気持ちを汲むことはできないはずだ。いずれルドルフの心が冷めて、大人な判断を下せるようになる日を、じっくり待つつもりだったのかもしれない。あるいは、ナーシャの嫁ぎ先を早めに決め、物理的に距離を取らせるか。

 薄ぼんやりと浮かんだ仮定は、その年の『シーズン開始の夜会』で顔を合わせた男爵が、「ルードのデビューを一年遅らせることにした」と告げたことで、より真実味を増した。男爵は「ナーシャの入宮とルードのデビューが重なってしまうと、変に目立ってしまうかもしれない。我が家の立場で、注目を集め過ぎるのは良くないからね」ともっともらしく言っていたが。


(私とルードは、年単位で引き離すべきだ、って。お義父様は思われたのかしら)


 きっと、男爵も心の内では、〝姉弟〟の関係を越えようとする自分たちに、困り果てていたのだ。……こんなことならファニーを娶るのではなかったと、後悔すらしているのかもしれない。

 それなら、もういっそ。血の繋がらない、所詮は庶民でしかない〝娘〟のことなど、打ち捨てておいてくれれば良い。ナーシャが男爵に見放されたとなれば、さすがにルドルフも、父の意向に背いてまで執着し続けることもないだろうから。

 そう覚悟し、『貴族議会』で遠回しに告げた〝絶縁〟は、同じく遠回しに、やんわり躱されて終わった。季節が回って春が過ぎた頃、ほとんど前触れなく決まった〝里帰り〟の話も、男爵は嬉々として受け入れたという。


「……ただいま帰りました」

「ナーシャ!!」


〝里帰り〟したナーシャを待っていたのは、感極まった様相のファニーと、そんな彼女を優しく見守る……一年前と少しも変わらない、〝両親〟で。

 後宮からの護衛がついていないナーシャを案じた両親は、たった一月半の〝里帰り〟のためだけに、専任の護衛まで雇ってくれていた。それも、やましいことなど一切ないと言い切れるよう、女性ばかりを集めて。昼間はもちろん、三交代で夜も扉の前を守ってくれると聞いて、ナーシャは密かに安堵する。


(これなら、家にいる間、〝間違い〟が起きることもないわ)


 一年離れて、実感した。……ルドルフを忘れられる日は、おそらく、来ない。

〝クロケット男爵令嬢〟となってからの五年、慣れない貴族の生活を、一番近くで支え、助け、励まし続けてくれた存在だ。いつだってナーシャのことを優先して、ナーシャのために、心を砕いてくれた。幼い頃から踏み躙られ、ボロボロになっていたナーシャの自尊心の欠片を、ルドルフが一つ一つ丁寧に拾い上げ、磨き、繋ぎ合わせてくれたおかげで、ナーシャは自分の好きなこと、やりたいことと、素直に向き合えるようになれたのだ。


(私、きっと。死ぬまで、ルードのことは、恋しい)


 恋しいから――ルドルフのそばにいたら、何らかの形で、ナーシャは彼を求め続けてしまうだろう。一年前、ルドルフがナーシャへ伸ばした手を、毅然と跳ね除けられなかったように。


(ルードの気持ちは、分からない。でも、今となってはもう、私たちが結ばれることはない。私たちが姉弟以上になることは、もう、〝間違い〟でしかないの)


 夜を共に過ごすなど、〝間違い〟の中でも最上級だ。護衛たちが夜も見張っていてくれるなら、ナーシャはこれ以上誤った道へ、ルドルフを進ませずに済む。


「――おかえりなさい、姉さん。……久しぶり」

「えぇ。ただいま、ルード。――あなたも、学校、お疲れさま」


 やがて、下校してきたルドルフとも、護衛が同席している場で〝姉弟〟の会話を交わし。「家族団欒の場にまで護衛が必要なのか」とルドルフは男爵に訴えていたが、「私たちは紛れもない家族だが、ナーシャと我々の間に血の繋がりがないこともまた、確かな事実だ。口さがない連中が、継父と義弟がいる家へ帰るナーシャに、どんな下衆の勘繰りをするか分からない。ナーシャを守るためにも、この家にいる間は第三者の目があった方が良いのだよ」と諭されては、反論のしようもなかったらしい。明らかに不服そうではあったが、最終的には頷いていた。

 ルドルフの、ナーシャに対する執着は消えていない。そんなことは、顔を合わせた瞬間に感じ取れていた。ナーシャと同じくルドルフも、たったの一年やそこらでは、自身の想いを捨てることなど叶わなかったのだ。

 その現実は昏い喜びをナーシャに与えたけれど、彼女は〝それ〟を用心深く胸の奥深くに隠したまま、護衛たちに守られて、一月半の〝里帰り〟を過ごした。〝姉〟に徹するナーシャをどう思ったのか、やがてルドルフも〝弟〟の顔を崩さなくなり、両親と姉弟の〝四人家族〟が平凡かつ平穏に暮らす時間が流れていく。


「一年経ったことだし、今年、ルードに社交デビューしてもらおうと考えているのだが、どうだ?」

「もちろん、俺に異論はありません。一年遅らせたこと自体、ちょっと構え過ぎてたんじゃないかなって思いますよ?」

「そう拗ねるな。あれはあれで、必要なことだったんだから」

「分かってますよ。――姉上」

「なぁに、ルード?」

「デビュタントのご挨拶を申し上げるときは、姉上も一緒にいてくださいね。国王ご夫妻へデビュタントの挨拶を申し上げる際は、一家揃って拝謁するのが慣例なのでしょう?」

「そう、だったわね。……でもルード、陛下にご正妃様はいらっしゃらないから、正確には〝国王ご夫妻〟じゃなくて、陛下と紅薔薇様へのご挨拶、よ?」


 思わず注釈をつけたのは、後宮で親しくなったシェイラが、どうやら国王陛下の寵愛を受け、側室筆頭である『紅薔薇様』からも認められて、正妃への第一歩を踏み出した、っぽいからだ。流石にこんなことは聞けないので、ナーシャが勝手に察しているだけだが、たぶんおそらく、間違いない。


「え、でも……噂じゃ、紅薔薇様がご正妃様となられるのはほぼ確実だ、って聞きましたけど」

「ルード。商人にとって、不確かな噂に惑わされることほど、愚かな振る舞いもないぞ。紅薔薇様――クレスター伯爵令嬢が本当に正妃たらんと望み、王もまた、彼女を欲しておいでなのか。己の目で見て、きちんと見極めなさい」

「はい、父上。ですが、姉上から聞いたところ、紅薔薇様は貴族間で悪し様に語られているような〝悪女〟でなく、聡明でお優しいお方だという話ではありませんか。俺としては、そのように尊敬できる方を我が国の正妃様と仰ぎたいです」

「どれほど優れた器の持ち主であっても、正妃という重い責任を背負う以上、優先されるべきは何よりもまず、ご本人の覚悟とやる気だ。個人的には、紅薔薇様が正妃の道を望まれないのであれば、そのご意志は尊重されるべきだと考えているよ」


『紅薔薇様』――ディアナ・クレスターと個人的に深い話をしたことがないので、ナーシャも彼女の心の内を詳細に知るわけではないけれど、シェイラを通して見た彼女は少なくとも、『紅薔薇』の地位に喜び勇んで就いている感じはしなかった。そもそも、彼女が『紅薔薇派』と呼ばれる派閥を率いるようになった経緯自体、後宮で虐げられていた弱小新興貴族家出身の側室たちに頼られた結果の成り行きのようなものだ。『咲き誇る氷炎の薔薇姫』の噂だけはナーシャも聞いたことがあったが、実際に顔を合わせて話をしてみると、彼女の本質が悪辣さから遠いことはすぐに分かる。


(……それでも、怖いとは思ってしまうけれど)


 それは、たぶん。本心では〝側室〟として生きるつもりなど微塵もないことを、いつの日かディアナに見抜かれ、断罪されるのではないかという不安が、常に胸の奥深くに巣食っているからだろう。どれほど厳しい現実を前にしても決して屈することなく、いつだって凛と顔を上げて目指す未来だけをまっすぐ見据えるディアナの姿は、自分の心からも、大切な家族からも、――……愛する人の想いからも、逃げて。ひたすら逃げて、逃げ続けて、後宮まで流れ着いたナーシャには、あまりに眩し過ぎた。


 ……紛れもない恩人に対し、これほど不敬な感情を抱いていたから。もしかしたら、罰が、当たったのかもしれない。


 ――一月半の〝里帰り〟を終え、後宮へと舞い戻って。戻ってみれば、ナーシャの部屋は随分と広くなり、〝側室〟としての位も大きく上がったと知らされた。

 新興の男爵家とはいえ、クロケット家は紡績分野において、エルグランド王国の発展に大きく寄与している。ナーシャを冷遇していた去年までの後宮は、クロケット男爵家に対してあまりに礼を失していたと謝罪され、返答に困った一幕もありつつ。部屋が広くなった以外は特に変わることもない(望めば侍女の数は増やせると言われたが、あまり大勢に傅かれるのはかえって息苦しいので、丁重にお断りした)と聞かされ、実際、〝里帰り〟前と変わらない穏やかな日々を、ナーシャはありがたく享受した。


 ……そうして迎えた、側室となって二度目の、『シーズン開始の夜会』で。


「……ここにいたんだね、姉さん」

「ルード? どうして……あなた、帰ったはずじゃ」

「忘れ物をしたって言って、戻ってきたんだよ。側室の姉さんは、もうしばらく会場にいるはずって聞いて、探してたけど……まさか、こんな人気のない、暗がりにいるなんて」

「……ルード?」

「やっと……やっとだ。やっと、姉さんに触れられる……」

「――!!」


 執着の熱に冒された、ルドルフの瞳。……一年前、ナーシャがどうしても向き合えなくて、逃げることしかできなかったその眼差しが、今。

 大ホールから少し離れた場所にある、人気のない奥庭で佇んでいたナーシャへ、隠すことも躊躇うこともなく、向けられていた。


「……待って。待って、ルード。ダメよ、それだけは――」

「もしかして、さ。姉さんも、俺のこと、思い出してた? こんな綺麗な月夜は、いつも――!」

「だめ……っ」


 伸びてきた手を、振り払えない。ルドルフの将来を思えば、ナーシャの立場を考えれば、彼を求めることは幾重にも重なった禁忌だと、理性は痛いほど訴えてくるのに。


(……むり、よ。だって、愛して、いるのだもの)


 本当の、本当は。触れ合うのも、日常を共に過ごすのも、

 ……未来を、一緒に、紡ぐのも。


 全部、全部、彼がいい。――ルドルフが、良いのだ。


(ばか、ね。……天に瞬く星を、望んだところで。永遠に届かない絶望を、味わい続ける、だけなのに)


 ルドルフが、本心からナーシャを望み、手を伸ばしてくれたところで、二人が共に手を取り合う未来は訪れなかった。ならば、年長者であるナーシャがするべきは、ルドルフをきちんと諌め、正しい道へ誘導することだったはず。

 それでも、ルドルフから求められる日々は、ナーシャにとってこの上ない喜びで。

 愚かな感情と本能を優先させてきた現実は、紛れもない、ナーシャ自身の〝罪〟だ。


(これで、最後。……もう、おわり、よ)


 ――たった一夜の、夢のような〝罪〟の時間。

 誰が、想像しただろう。……まさか、その〝罪〟の証が、他ならぬナーシャの内に宿るなど。

 思い至ったのは、社交シーズンが始まり、スタンザ国使団の対応に振り回されて、後宮全体に慌ただしい空気が流れている頃だった。


「ナーシャ様。最後の月のものから随分と経ちますが、始まる兆しはございませんね。何か体調にご不安などはありますか?」


 雲月(くもつき)の上旬。エルグランド王国からもスタンザ帝国へ国使団を送るべきではないかという言説が持ち上がり、どういう理屈かディアナがその長に選ばれて王国を出立した頃、リヴィエラに問われた、何気ない一言。もともとナーシャの月のものは不順気味で、あまりに乱れ過ぎると貧血になることも多かったから、リヴィエラは言葉通り、体調を案じてくれただけだろう。

 しかし。


(そういえば。月のもの、ずっと、来てない)


 胸のうちに漠然とした不安が過ったのは、自分でも何となく、これまでの不順とどこか違うと感じ取れたから、かもしれない。

 いつもと違い、寝ても寝ても眠くなる身体。ほんの少しの貧血症状は感じるけれど、それよりも大きいのは、どういうわけか油っぽいものや味の濃いものを食べられなくなったという不調だ。リヴィエラに問われるまでは、秋は朝晩と日中の寒暖差も大きいし、胃腸風邪気味なのかしら、とぼんやり感じていただけで、自身に深刻な変化が起きているとは思っていなかった。


 ――しかし。


(下町で暮らしていた頃、聞いたことがあるわ。……赤ちゃんを妊娠した女性は、〝つわり〟で食の好みが変わったり、食べ物の匂いだけで気分が悪くなって、食事を摂れなくなることがある、って)


 まさか、そんなわけが、と足元から冷ややかな予感が這い上がってくる。反射的に否定したくなるのは、状況証拠から〝そう〟である可能性が高いからだと、頭の中にいる冷静な己が冷酷に告げていた。


(私の、お腹の中、に。……ルードとの、子が、いるの?)


 本来であれば、何よりも喜ばしいことだ。心から愛するひとの子を、宿すことができたのだから。

 しかし。今の、ナーシャの立場では。国王陛下以外の男の(たね)を宿す行為は、絶対の禁忌。バレれば胎の中の子ともども、物理的に首を飛ばされてもおかしくないだけの罪である。


(……っ、できない。私はどうなっても構わないけれど、ルードの血を分けた子を、喪うことだけは)


 最悪の想像が過ぎったナーシャの顔色は、傍目に見ても悪かったのだろう。黙って様子を伺っていたリヴィエラが、慌ててナーシャの背を支えてくる。


「やはり、体調が思わしくなかったのですね、ナーシャ様。お食事もほとんど召し上がっておられませんし。すぐに女官長様へお伝えして、急ぎお医者様の手配を、」

「――待って!」


 バレてはいけない。この〝不調〟の原因だけは。

 その強い意志が、これまで出したことのないような声を、ナーシャの喉から迸らせた。驚いて動きを止めたリヴィエラの腕を強く握り、ナーシャは彼女へ懇願する。


「お願い、リヴィエラ。私の体調が悪いことは、誰にも言わないで。絶対に、外へ漏らさないで」

「し、しかし」

「紅薔薇様がご不在の中、ただでさえ後宮が大変なところに、このような些事で女官長様や『名付き』の皆様方のお手を煩わせるわけにはいかないわ。牡丹様に知られたらそれこそ、『やはり新興貴族家出身の者は、側室としての位だけ高くとも陛下へお仕えする気構えが足りない』と、絶好の攻撃の口実を与えてしまう」

「それは……」

「お願いよ。私は、誰の邪魔にも、迷惑にも、なりたくないの。……大丈夫。こんなの、ただの風邪よ。寝てれば、そのうち治るから」


 必死に医者を拒絶するナーシャが、どう控えめに見ても怪しかったのは間違いない。けれど、忠実な侍女であるリヴィエラと、そんな彼女を慕うモコは、ナーシャの気持ちを汲んでくれたのだ。




 ……こんな誤魔化しに意味はないと、ナーシャだって重々、痛いほど、分かっている。今はただの体調不良で押し通せても、本当に赤子がいるのなら、いずれはお腹が大きくなり、誰がどう見ても妊婦だと知られてしまう日が来るのだから。


 でも。……それでも。


(永遠に掴めないはずだった星の欠片が、奇跡のように、私の内に宿ったのなら。……どう足掻いても、手放せない)


 せめて、たった一度だけ。無事にこの命を送り出し、たった一度、この腕に抱くことさえできたら。

 ――これまで重ねた、全ての罪をこの身に背負い、命で贖うことも厭わない。


 だから、どうか。


(この子、だけは。――必ず、守り抜くわ)


 強く、強く。孤独の中で、ナーシャは誓った。

 その誓いこそが己の目を曇らせ、真実を知って助けようと手を伸ばしてくれた友人たちを拒絶する未来を招くとは、思いもせずに……。


ナーシャさんの過去編でした。番外編でも良いかな〜と思いつつ、書きたかったのでひとまず本編で。

後々、もしかしたら番外編へ移動させるかもです。

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― 新着の感想 ―
あぁ、この1夜の逢瀬が昔月光に掲載されてた。
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