第63話 書いてください
――違いは、ひとつしかない。
その一つを、私はまだ自分の側で使っていない。
翌朝。
書庫。
昨夜のままの紙が、机に広がっている。
片づけようとして、手が止まった。
扉が、開いていた。
ルークが、そこに立っている。
いつから、とは聞かなかった。
聞かなくても分かる。
この人は、私が話し始めた頃からそこにいた。
「……お嬢様」
「はい」
「昨夜のお話を、伺いました」
まっすぐだった。
隠さない。
立ち聞きを詫びもしない。
詫びれば、話がそこで終わると分かっているからだ。
「そうですか」
私は答える。
「聞かれて困る話ではありません」
「はい」
一拍。
「ですので、申し上げます」
――来る。
分かった。
分かって、止められなかった。
「書いてください」
言った。
短く。
迷いなく。
「……」
私は、答えなかった。
答えの形が、すぐには出てこなかった。
「意味を、お分かりですか」
私はようやく言う。
「はい」
「書けば、あなたは記録の上に立ちます」
「はい」
「立った者は、観測されます」
「はい」
「観測されたものは、定義されます」
「はい」
「定義されたものは、外から書き換えられます」
一拍。
「“協働”は“単独”にされました。“逃走”は“未確保”にされました。私が書いたものは、ことごとく触られてきました」
声が、少し速い。
速くなっていることに、途中で気づいた。
「あなたが今まで無事だったのは、私が書かなかったからです」
「……はい」
「分かって、仰っているのですか」
「はい」
三度目の「はい」だった。
同じ高さで。
同じ速さで。
この人は、こういうときに言い方を変えない。
「なぜですか」
私は問う。
「お嬢様は、昨夜こう仰いました」
ルークが答える。
「奪ったか、差し出されたか」
「……ええ」
「その違いは、渡す側にしか作れません」
――止まった。
そのとおりだった。
その一点だけは、私の側からは絶対に作れない。
私がどれだけ丁寧に問おうと、確認しようと、同意を取ろうと、それは「奪う手続き」を整えているだけだ。
差し出されたという事実は、差し出す者にしか作れない。
「ですから、差し出します」
ルークが言う。
「……」
「お嬢様が受け取るかどうかは、お嬢様がお決めください」
順序が、逆になっている。
いつも私が決めて、この人が従っていた。
今日は、この人が渡して、私が決める側だ。
「……お断りします」
私は言う。
「はい」
「理由を申し上げます」
「伺います」
「あなたが観測対象になれば、上位存在の手が届きます」
一拍。
「あれは悪意ではありません。機能です。機能は、止まりません」
「はい」
「私は、あなたを守れません」
言ってから、自分の声を聞いた。
――守れません。
そんな言葉を、私は今まで使ったことがない。
守る、という語は、記録の語彙ではない。
「はい」
ルークは、頷いた。
驚きもしなかった。
「存じております」
一拍。
「守っていただこうとは、思っておりません」
「……では、何を」
「お嬢様が、消えないことです」
――そこか。
「あなたには、関係のないことです」
「関係が、無いのです」
ルークが言う。
「そこが、問題なのだと伺いました」
――やられた。
この人は、頭の回転が速いのではない。
聞いた言葉を、そのまま正確に返してくるだけだ。
だがそれが、いちばん効く。
「……」
「繋がりが無いと、手帳に出ているのでしょう」
「ええ」
「無いのなら、作るしかございません」
単純な算術だ。
あの人と、同じことを言っている。
言い方だけが、まるで違う。
「三日、時間をください」
私は言う。
「はい」
「今日は、決めません」
「かしこまりました」
ルークは、それ以上言わなかった。
引き下がったのではない。
この人は、一度言ったことを取り消さない。
取り消さないから、繰り返す必要もない。
「お嬢様」
「はい」
「お茶をお持ちします」
いつもの声だった。
何も変わらない声で、そう言って、出ていった。
私は、机の紙を見ている。
昨夜のままだ。
整理は、まだついていない。
ついていないが、机の上に、無かったものが一つ置かれた。
――差し出された。
彼が自分から言いました。「書いてください」と。
書けば観測され、定義され、外から書き換えられます。彼女の記録は何度もそうされてきました。
彼女は断ります。守れないからです。彼は「守っていただこうとは思っておりません」と答えました。
――奪ったか、差し出されたか。その違いは、渡す側にしか作れません。
次話では、彼女はペンを取ります。
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