第61話 帰りたい人
――私が、消した。
消した先に、その人はまだ立っている。
三日後。
同じ廊下。
同じ時刻。
その人は、来ると分かっていた。
私も、待っていた。
「順を追って話す、と申し上げましたね」
私は言う。
「言った」
「伺います」
「立ち話でいいか」
「構いません」
座る場所は、どのみち無い。
私たちが座れる椅子は、この王宮に一つも記録されていない。
「金の話から始める」
その人が言う。
「第二会計室から、決裁の書類が消えた」
「ええ」
「第四保管庫から、過去三年分の取引記録の一部が失われた」
「ええ」
「君は、あれを追った」
「追いました」
あのときは、資金の流出先を探していた。
残ったのは、一つの言葉だけだ。
――隠すためではなく、間に合わせるため。
「何に、間に合わせようとしていたのですか」
私は問う。
「私の記録だ」
短い。
「……」
「切り離された者を戻す手続きは、様式に無い」
その人が言う。
「無いものは、作るしかない」
一拍。
「作るには、費用がかかる」
――費用。
あの言葉が、そこへ着地した。
国庫の金が、一人の人間を記録に戻すための工作費だった。
「順に説明する」
その人が続ける。
「記録に載るには、前後関係と、証人と、経路が要る」
「ええ」
「私には、どれも無い」
「ええ」
「だから、他人のものを使った」
言い方に、力みが無い。
説明しているだけだ。
書式を教えるときと、同じ声で。
「決裁の判は、他人のものを借りた」
一拍。
「受付の欄は、空けたまま通した」
「そして、経路が要る」
その人が、私を見る。
「フェンリス伯爵令嬢の推薦文は、記録局と王宮を七度往復する書類だ」
――七度。
「往復するたびに、その書類は“動いた”ことになる。動きは記録に残る。残った動きの隙間に、私は自分を置いた」
「……止めたのは、そのためですか」
「そうだ」
あっさりと認める。
「一度で通れば、動きは一つしか生まれない。差し戻せば、二つになる。七度なら、十四だ」
――そういうことか。
あの人にとって、あれは嫌がらせではなかった。
妨害ですらなかった。
書類を往復させて、その回数を稼いでいただけだ。
ミリアの名誉も、立場も、あの夜の断罪も、その人の視野には入っていない。
「ミリア嬢は、それで婚約者を失いました」
私は言う。
「そうだろうな」
「ミリア嬢は、王宮中に噂されました」
「そうだろうな」
否定しない。
そして。
「気の毒だと思う」
そう言った。
嘘ではない、と分かった。
この人は、嘘をつく必要のある場所に、もういない。
「気の毒だと思って、それでも止めたのですか」
「止めた」
一拍。
「他に道が無かった」
――ここだ。
この人が悪人になり損ねているのは、ここだ。
目的が、私利でも、憎悪でもない。
「あなたは、何をしたいのですか」
私は問う。
声が、少し低くなった。
「復讐ですか」
「違う」
即答だった。
「では、権力ですか」
「違う」
「では、何ですか」
その人は、少しの間、黙っていた。
それから、廊下の窓を見た。
庭が見える。
誰かが手入れをしている庭。
誰かの名で記録されている庭だ。
「戻りたい」
そう言った。
「……」
「それだけだ」
一拍。
「三年、誰にも受け取ってもらえなかった。宿の主人は金を受け取らない。門番は反応しない。名簿からは落ちた」
全部、この幾日かで私が通った道だ。
「私は、それを三年やった」
声に、力が入らない。
「戻れば、また書ける。様式を直せる。誤った書式で通っている記録が、今も幾つもある。直せる者が、外にいる」
――そこだけ、声が戻った。
この人は、そういう人だ。
三年、記録の外にいて、まだ様式の誤りを数えている。
「戻るために、他人の経路を使うのですね」
「使う」
「奪う、とは仰らないのですか」
その人が、こちらを見た。
「……君は、そう呼ぶか」
「呼びます」
「そうか」
それだけだった。
反論しない。
この人は、反論という形式を持っていない。
持っていないのではない。
三年、誰も話し相手がいなかったから、使わなくなったのだ。
「もう一つ、伺います」
「言え」
「私を誘って、どうするのですか」
「君は書ける」
その人が言う。
「私にはもう、書く手が無い。手帳は君に渡した」
一拍。
「二人なら、経路は倍になる」
単純な算術だ。
そして、正しい。
「今日は、それだけだ」
その人は、また背を向けた。
「返事は」
「急がない」
一拍。
「君はまだ、ひと月だ」
足音のしない背中が、廊下の先へ消えていく。
私は、その場に立っている。
悪人が去っていったのなら、話は早かった。
――戻りたいだけだった。
記録官だった人の目的が明かされます。復讐でも権力でもありません。
戻りたい。それだけです。三年、誰にも受け取ってもらえなかった人が言う「戻りたい」でした。
ミリアの推薦文の差し戻しは、嫌がらせではなく、書類を往復させて「動き」の回数を稼ぐ工作でした。
第14話の「隠すためではなく、間に合わせるため」の“何か”は、この人自身の記録でした。
次話では、リディアはこの人を否定しきれません。
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