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「君を断罪する」と記録された瞬間、私はその記録を書き換えた ~婚約破棄令嬢は、従者にだけ視えている~  作者: 夜空ミリア


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第60話 私が失ったもの

 ――名を呼べば、その人は消える。


 だから呼ばなかった。


 呼ばないまま、その人のほうから来た。


 書庫を出た廊下だった。


 夜。


 燭台の火は落ちている。


 窓から入る光だけが、床を薄く切っていた。


 私はミリアと別れた直後で、経路はもう切れていた。


 ルークは、書庫の外で待たせてある。


 声の届かない距離に、置いてきた。


 誰にも見えない。


 誰にも聞こえない。


 幾日も、そういう場所を歩いてきた。


 その廊下の途中に、人が立っていた。


「……」


 私は足を止めた。


 止めてから、止めた意味を理解するのに一拍かかった。


 見えているのだ。


 私に、その人が。


 そして。


 こちらを、見ている。


 背は高くない。


 年は、記憶より重ねている。


 灰色の外套。


 手には、何も持っていない。


 書式を語るときだけ、声に張りが出る人だった。


 それ以外のときは、いつも少し疲れて見えた。


 今も、そう見えた。


「久しぶりだな」


 その人が言った。


 私は答えなかった。


 答えれば、この人が「話しかけられた者」として立つ。


 立てば、記録に触れる。


 触れれば――


 と、そこまで考えて、無意味だと気づいた。


 この人はもう、記録の外にいる。


 私も、外にいる。


 外にいる者同士の会話は、どこにも残らない。


 残らないから、安全だ。


 安全であることが、こんなに恐ろしいとは思わなかった。


「……ご無沙汰しております」


 私は言った。


 声は、思ったより普通に出た。


「相変わらず、丁寧だ」


 その人が、少し笑う。


 笑い方も、変わっていない。


「君は昔から、動揺すると敬語が硬くなる」


「……」


「今も硬い」


 図星だった。


 図星を突かれても、崩す手段を私は持っていない。


「見えているのですね」


「見えている」


 即答だった。


「君が、こちらへ来たからだ」


 こちら。


「私は、ずっと君を探していた」


 その人が続ける。


「だが、記録の中にいる君は、私からは見えない」


 一拍。


「私は記録の外にいるからだ。外からは、中が見えない」


「……」


「そして先日、君が外へ出てきた」


 ――そういうことか。


 私が観測不能を選んだ日。


 私を見失った者がいた。


 黒服の男だ。


 同時に、私を見つけた者がいた。


 この人だ。


 切り離すという一つの行いが、片方の線を切り、片方の線を繋いだ。


 あの日から私は、この人と同じ棚に並んでいた。


「君も、こちら側だ」


 その人が言った。


 責めるでもなく。


 勝ち誇るでもなく。


 ただ、事実を読み上げる声で。


 上級記録官の声だ。


 この人が正しい書式を教えるときの、あの声だった。


 私は、何か言おうとした。


 言葉が出てこなかった。


 出てこないことに、自分で驚いていた。


「ミリア・フェンリスの推薦文を止めたのは、あなたですか」


 やっと出たのが、それだった。


「そうだ」


 否定しない。


 言い訳もしない。


「なぜです」


「順を追って話す価値はある」


 一拍。


「だが、今日ではない」


「……」


「今日は、別のことを言いに来た」


 その人が、一歩近づく。


 足音がしない。


 この人にも、床は音を返さない。


「君は、あの夜のことをまだ覚えているか」


 ――どの夜か、とは聞かなかった。


 聞く必要がなかった。


 私が十六の年だった。


 記録局の査問室。


 長い机。


 並んだ上席。


 この人が、様式を独断で書き換えたと問われていた。


 理由は説明されなかった。


 この人は、説明する人ではなかった。


 ただ「必要だった」とだけ言って、それ以上は黙っていた。


 黙っていれば、処分は軽く済むはずだった。


 私は、口を開いた。


 この方は正しい、と言った。


 私が見てきました、と言った。


 この方の書式で、救われた記録が幾つもあります、と言った。


 感情のままに。


 順序も、形式も、無視して。


 続けざまに。


 上席の一人が、私を見た。


 そして、静かにこう記した。


 ――当該者と、記録局補佐との間に、関係の申立てあり。


 それだけだった。


「君は、私を庇った」


 その人が言う。


「あのとき初めて、私は“関係を持つ者”として記録の上に立った」


 一拍。


「立たなければ、切り離すことはできない」


「……」


「宙に浮いているものは、切りようがないからな」


 ――知っていた。


 三年前から、知っていた。


 知っていて、誰にも言わなかった。


 あの夜、私が何をしたのかを。


 定義することは、相手から他の在り方を全部取り上げることだ。


 私はそれを、あの子に教えられるより前に、自分の手で実演していた。


 守るつもりで、この人を定義した。


 定義したから、この人は処理できる対象になった。


「私は」


 声が、割れた。


「私は、あなたを消しました」


「そうだ」


 その人は、あっさりと認めた。


 ――否定してほしかった。


 初めて、自分がそれを望んでいたと気づいた。


 三年間ずっと、誰かに「君のせいではない」と言ってほしかったのだ。


 だから誰にも話さなかった。


 話して、否定してもらえなければ、そこで終わりだったからだ。


 この人は、否定しなかった。


 その代わりに、こう言った。


「だが、私は君を恨んでいない」


「……」


「君は十六だった」


「あの場で口を開けたのは君だけだった。他の誰も開かなかった」


「……」


「私は、あれを見ていた」


 喉の奥が、詰まった。


 泣いてはいない。


 泣くという形を、私は持っていない。


 持っていないものは、出せない。


 だが、息が通らなかった。


 この人が私を責めてくれれば、私は形式で受けられた。


 処分でも。


 断罪でも。


 罵倒でも。


 記録の形をとるものなら、私は扱える。


 扱えないのは、こういうものだ。


「君は、あれから感情で口を開かなくなった」


「……はい」


「よく持ったな。三年だ」


「……」


「だが、そろそろだろう」


 その人が、私を見る。


「君はもう、誰にも記録されない」


 一拍。


「誰にも受け取ってもらえない」


「……」


「名簿から落ち、名鑑から消え、汚名だけが残った」


 全部、正確だった。


 この人は、いつも正確だった。


「私も、同じ道を通った」


 一拍。


「だから分かる。この先に、何も無い」


 声が、少しだけ変わった。


 感情ではない。


 疲労だ。


「戻る方法が、一つだけある」


「……」


「君も、こちら側だ」


 二度目だった。


 一度目は、事実の読み上げだった。


 二度目は、誘いだった。


「今日は、それだけだ」


 その人は、背を向けた。


 そして、二歩進んで、足を止めた。


「君の手帳は、まだ書けるか」


「……書けます」


「ならいい」


 それきり、廊下の先へ歩いていった。


 足音はしなかった。


 角を曲がったのかどうかも、分からなかった。


 ただ、いつの間にか、そこに誰もいなかった。


 私は、その場に立っていた。


 石の床。


 冷たい。


 冷たさだけが、まだ私を避けない。


 ――失ったものは、まだどこにも戻っていない。


 あの夜に、私はそう書いた。


 何を失ったのかは、書かなかった。


 書けなかったのではない。


 書けば、記録の上に立ってしまうからだ。


 今、目の前に立って、帰っていった。


 ――私が、消した。

第二幕の底です。彼女が「感情のままに口を開いて失ったもの」の正体が明かされます。


十六歳の査問室で、彼女はあの人を庇いました。その一言が、あの人を「関係を持つ者」として記録の上に立たせました。

宙に浮いているものは、切りようがありません。立てて初めて、切り離せます。守るつもりで、定義してしまった。

そしてあの人は、彼女を恨んでいません。責めてくれたほうが、彼女は形式で受けられたのに。


次話では、その人が何のために帰りたいのかが分かります。


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