第57話 残りの三割
――辿れる経路が、ひとつある。
その道の入口は、王宮の中にもある。
情報統括室。
机が一つ。
椅子が三つ。
書架に、書類はほとんどない。
ここは保管する場所ではない。
選別する場所だ。
カイン・レグナードが、机に向かっている。
背は変わらない。
顔を上げない。
当然だ。
私は見えていない。
「……」
私は、机の前に立つ。
書類が三束。
中身は見える。
触れる。
持ち上げられる。
誰にも記録されないだけで、物には触れる。
その一点だけは、ずっと私に残っている。
「――」
私は、束を崩した。
並べ直す。
日付順ではない。
書類が動いた順に。
受付。
差し戻し。
再提出。
迂回。
流用。
王宮で私がこう並べるのを、この人は一度だけ見ている。
協働の契約を結んだ日だ。
「……」
カインの手が、止まった。
顔を上げる。
部屋を見る。
誰もいない。
当然、誰もいない。
視線が、机に戻る。
並びを見る。
「…………」
長い沈黙。
この人は、驚かない。
驚く代わりに、考える。
「――誰かいるな」
低い声。
誰にともなく。
「返事はいらん」
一拍。
「できんのだろう」
できません。
私は答えない。
答えても届かない。
だが、この人は返事を求めていない。
「並べ方でわかる」
カインが言う。
「この順で並べる人間は、私の知る限り二人だ」
指が、束の縁を叩く。
「一人は私。もう一人は、記録局にいた」
――正確だ。
この人は、証人がいなくても、動きだけで存在を推定する。
記録に載らない者を、記録の癖から逆算する。
七割しか埋められないと自分で言った男が、残りをこうやって削っている。
「生きているか」
問い。
答えられない。
「生きているんだな」
答えないことが、答えになった。
カインは、それで納得した。
「なら、続けろ」
命令形。
この人の敬意の出し方だ。
「私にも、埋め残しがある」
カインが、束の一つを引き寄せる。
「三割だ」
一拍。
「あの男の共犯を、私は特定できなかった」
レイヴン。
拘束されたまま、処分の決まらない男。
「外部記録に、殿下の側近の名があった」
カインが続ける。
「調べた。潔白だ」
――潔白。
私は、机に手をつく。
「その男は何も知らん。決裁の判を押しただけだ」
一拍。
「だが、その判のせいで書類は通った」
通した者と、通させた者は違う。
名前は、借りられる。
持ち主の同意なく。
持ち主の記憶にも残らないまま。
「名前を借りるという手口だ」
カインが言う。
「私は最初、金の流れを追った。間違いだ」
束を、一枚めくる。
「追うべきは、名前の流れだった」
――そのとおりだ。
私は、机の上の書類に触れる。
一枚を、束から抜き出す。
カインの正面へ、滑らせる。
紙が、机を鳴らす。
「……」
カインが、その一枚を見る。
受付、第二。
担当、記載なし。
古い書式。
新しい日付。
「これか」
短い。
私は、もう一枚を重ねる。
三七の本命の伝票。
二つの縁を、揃える。
寸法が、同じだ。
「……同じ規格だな」
カインが言う。
「二代前だ」
一拍。
「同じ手が、両方に触れている」
伝わった。
声を使わずに。
記録の並べ方だけで。
手帳が、勝手に開く。
銀の文字が浮かぶ。
【経路 流用】
私が書いたのではない。
立った、ということだ。
事実として。
「……使われたのは、書類だな」
カインが言う。
「決裁の判。受付の欄。側近の名」
指を折る。
「全部、他人のものだ」
そして、一つ止まる。
「……いや」
カインの手が、止まった。
顔を上げる。
誰もいない部屋を、もう一度見る。
「君もか」
――え。
「記録局の補佐権限。あれも、通り道になっていたな」
息が、止まった。
私が権限を持っていた期間。
その名の下で、書類は通った。
私が知らないうちに。
私の名を、経路として。
――だから、私が外された後も差し戻しは続いた。
経路は、私が去っても閉じなかったのだ。
最初から、私が主体ではなかったから。
「……」
視界が、遠くなる。
負荷ではない。
別のものだ。
「返事はいらん」
カインが、もう一度言う。
「やれることをやれ」
一拍。
「私は三割を埋める」
それきり、この人は書類に戻った。
私は部屋を出る。
廊下の端に、ルークが立っていた。
私が入ってから出るまで、そこにいたのだろう。
「終わりましたか」
「ええ」
それだけで、また少し後ろを歩き始める。
廊下は、静かだ。
――使われていたのは、書類だけではない。
情報統括室に、久しぶりの背中がありました。
彼には彼女が見えません。けれど、書類の並べ方だけで「誰かいるな」と当てます。
記録に載らない者を、記録の癖から逆算する。第14話で埋め残した三割を、この人はまだ削っています。
そして最後に一つ、彼女が考えていなかったことを言い当てました。
次話では、彼女が見えない相手が、もう一人だけ「いる」と言います。
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