第55話 観客の不在
――見られたい、と思ってしまった。
思ってしまった翌日に、見ている者が現れた。
王都の裏通り。
昼過ぎ。
書庫へ向かう道の途中だった。
「――やあ」
声。
背後から。
私は、足を止める。
止めてから、止めた自分に驚いた。
街で声をかけられて足が止まるのは、久しぶりだ。
「記録官殿」
振り向く。
黒い服。
変わらない立ち姿。
変わらない、面白がっている目。
「……」
私は、すぐには答えなかった。
「おや。無視ですか」
「いいえ」
私は答える。
「驚いています」
「それは光栄です」
男が笑う。
この人の笑い方は、いつも一拍早い。
「あなたには、見えているのですね」
「ええ」
「今は」
「今は、と付けられましたか」
男が、少し目を細める。
「鋭い」
一拍。
「そのとおりです」
やはり、と思う。
「では、伺います」
私は言う。
「あの日、あなたはいませんでした」
あの日。
扉を開けた日。
廊下を歩き、外へ出て、光の中へ一歩踏み出した日。
ずっと隣にいた人が、一人だけ欠けていた。
欠けていたことに、あのときは気づいていた。
気づいて、考えないことにした。
「……ええ」
男が、頷く。
珍しく、笑っていない。
「いませんでした」
「なぜですか」
「見失いました」
短い。
この人にしては、短すぎる。
「……」
「初めてです」
男が続ける。
「初めて、というのは、大袈裟ではありません」
一拍。
「本当に、初めてでした」
風が、路地を抜けていく。
荷車の音。
誰かの呼び声。
私たちの会話だけが、この通りで記録されない。
「あなたは、ずっと私を見ていました」
「ええ」
「あの夜からです」
「そのとおりです」
「なぜ見えていたのですか」
「それは、今はまだ」
――出た。
この人の、いつもの一線。
名前も、所属も、職業も、この一言で止まる。
「では、別の訊き方をします」
私は言い直す。
「なぜ、見えなくなったのですか」
男が、こちらを見る。
しばらく黙る。
この人が黙るのは、答えを選ぶときだ。
「私は」
やがて、言う。
「観る側にいます」
「……」
「ずっと、そう申し上げてきました。ただの観客だと」
「ええ」
「あれは、謙遜ではありません」
一拍。
「役割です」
役割。
その言い方で、輪郭が一つ決まる。
観客とは、席にいる者のことだ。
舞台の上ではない。
だが、舞台の外でもない。
見ることによって、その場に属している者。
「あなたは、観測する側の仕組みに乗っているのですね」
「……いいですね」
男が笑う。
今度は、いつもの笑い方だった。
「その言い方は、正確です」
「では」
私は続ける。
「観測されない者を、あなたは見られない」
「そのとおりです」
あっさりと認めた。
「あの日、あなたは自分を観測の外へ出しました。上位存在から切り離すために」
「ええ」
「同じ手が、私にも効きました」
当然だ。
私は「上位存在から見えなくなる」ように書いたのではない。
「観測されない」と書いた。
書いたとおりに、なった。
例外は作らなかった。
例外を作れば、そこが穴になるからだ。
――だから、この人も切れた。
勝ち方が、こうだった。
また一つ、代金の明細が出てきただけだ。
「面白いでしょう」
男が言う。
「面白くありません」
「私は面白いです」
この人らしい。
「観る者が、観る対象を失った。これは、私の立場では初めての経験です」
一拍。
「困りました、とも申し上げておきます」
困った、と言いながら、この人は困った顔をしない。
だが、嘘は言わない。
言わないことはあっても、嘘は言わない。
「一つ、確かめさせてください」
「どうぞ」
「今、あなたに私が見えているということは」
私は言う。
「あなたは、何かを経由して私を辿った」
男が、両手を軽く上げた。
降参の形。
だが目は、少しも降参していない。
「……本当に、鋭い」
「答えてください」
「明日にしましょう」
男が言う。
「その方が、面白い」
勝手な人だ。
昔から、そうだった。
「では、明日」
私は言う。
「ええ。――ああ、記録官殿」
背を向けかけた男が、振り返る。
「はい」
「見失っていた間」
一拍。
「あなたは、どこにもいませんでした」
その言い方は、静かだった。
面白がってもいなかった。
――観客も、見失う。
第41話で、彼だけがいませんでした。理由が明かされます。
「ただの観客です」というあの口癖は、謙遜ではなく役割の説明でした。
観る側にいる者は、観測されなくなったものを見られません。彼女が自分にかけた術は、彼にも等しく効きました。
名前も職業も、今回も明かされません。「今はまだ」――いつもの一線です。
次話では、彼がどうやって彼女を見つけ直したのかが分かります。
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