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「君を断罪する」と記録された瞬間、私はその記録を書き換えた ~婚約破棄令嬢は、従者にだけ視えている~  作者: 夜空ミリア


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第54話 呼ばれた一瞬

 ――書けない理由が、ひとつある。


 その理由に名前をつけないまま、私は庭に出た。


 夜だった。


 屋敷の明かりは、もう落ちている。


 庭の輪郭だけが、薄く残っていた。


 石の段に腰を下ろす。


 冷たい。


 冷たさは、私を避けない。


 温度と、重さ。


 その二つだけが、この世界で最後まで公平だった。


 少し離れた芝の上に、ノクスがいた。


 座っているのか、立っているのか、分からない。


 輪郭が曖昧だ。


 この子は、いつもそうだ。


 境界の向こう側から連れてきてから、揺れ方は減った。


 減った。


 だが、無くなってはいない。


「……起きてる」


 ノクスが言う。


「ええ」


「……寝ない」


「寝ません」


 それきり、しばらく黙っていた。


 ノクスは、沈黙を怖がらない。


 沈黙が続くと不安になるのは、記録されている側の癖だ。


 会話が途切れると、自分がそこにいる証拠も途切れる気がする。


 この子には、その恐れが最初から無い。


「ノクス」


「……ん」


「あなたに、伺いたいことがあります」


 私は、膝の上で手を組んだ。


 組んでから、気づく。


 こんな仕草を、人前でしたことがなかった。


 誰も見ていないと、姿勢は崩れる。


 崩れることを、私は今まで知らなかった。


「あなたは、長い間、誰にも記録されていませんでした」


「……うん」


「名前もありませんでした」


「……なかった」


「怖くありませんでしたか」


 ノクスは、少し考えた。


 この子が考えるときは、輪郭がわずかに濃くなる。


 言葉を探すために、自分を集めているように見える。


「……こわかった」


 やがて、そう言った。


「ええ」


「……でも」


 一拍。


「……見られなくても、ある」


 その一言で、庭の空気が止まった気がした。


 見られなくても、ある。


 あの日の廊下で、私が辿り着いた答えと、まったく同じ形をしている。


 定義されなくても。


 証明されなくても。


 ただ、ある。


 私は、それを勝ち取ったつもりでいた。


 上位存在から自分を切り離して。


 誰にも観測されない場所へ出て。


 扉を押して。


 光の中に一歩踏み出して。


 そして、言ったのだ。


 ――私は、ここにいます。


 誰にも聞かれないまま、確かにそこにあった。


 あのときの私は、それで十分だと思っていた。


 思っていた。


 そういう言い方をしている時点で、もう答えは出ている。


「……リディア」


 ノクスが、こちらを見る。


「はい」


「……ちがう?」


 この子は、こういうときだけ鋭い。


 感情の名前を知らないぶん、形の変化だけを正確に見る。


 私は、すぐに答えなかった。


 答えるべきではない、と思った。


 ここで認めれば、あの夜から積み上げてきたものが、自分の口で崩れる。


 世界のルールに勝てないなら、せめて自分の答えくらいは守るべきだ。


 守らなければ、何のために切り離したのか分からなくなる。


 だが。


 この子に嘘をつくのは、たぶん一番してはいけないことだった。


 この子は、誰にも記録されない場所で、それでも「ある」と言い続けてきた。


 私はその隣で、同じ側に立ったふりをしている。


 息を、吸う。


 浅い。


「……私は」


 声が、思ったより小さく出た。


「そうは、思えなくなりました」


「……」


 ノクスは、何も言わない。


「宿の主人は、私の金を受け取れませんでした」


 私は続ける。


「門番は、私に門を開けませんでした」


 一拍。


「通さないのではありません。通す必要がないのです」


「……」


「名簿の私の項は薄れて、王宮の名鑑からは落ちました」


「……」


「誰も悪くありません」


「誰も、私を憎んでいません」


「……」


「ただ、少しずつ、読まれなくなっていくだけです」


 言い始めると、止まらなかった。


 私は普段、これほど続けて喋らない。


 喋る必要がないからだ。


 形式で足りることを、言葉で言うのは無駄だと思ってきた。


「私は、それを不便だと申しました」


 一拍。


「実際、不便です」


「……」


「ですが、不便なだけなら、耐えられます」


 一拍。


「耐えられないのは、そこではありませんでした」


 庭の奥で、風が枝を鳴らす。


 誰の名前も呼ばない音だ。


「ミリア嬢が、私の名を呼びました」


 私は言う。


「一度だけです」


「……」


「声しか届いていません。姿は見えていません」


 一拍。


「証拠にも、記録にもなりません」


 そこで、言葉が止まった。


 止まった場所が、答えだった。


「……あのとき」


「息が、通りました」


 ずっと浅いままだった呼吸が、名を呼ばれた瞬間だけ深くなった。


 それが何なのか、あのときは分からないふりをした。


 分からないふりをして、負荷のせいにした。


 違う。


 そして、認めてしまえば、もう一つ出てくるものがあった。


 昨夜、私はペンを紙に下ろして、止めた。


 書けばこの人が観測される。


 理由は、それで正しい。


 正しいが、全部ではない。


 書いて確かめれば、なぜこの人にだけ私が見えるのかが分かってしまう。


 分かってしまえば、それは仕組みになる。


 仕組みになったものは、条件と同じだ。


 条件は、満たされているあいだだけ続く。


 私は、それを知りたくないのだと思う。


 知りたくない。


 その気持ちに、記録官が持っていい名前は無い。


 事実を確かめないという判断は、この仕事でいちばんしてはならないことだ。


 私はそれを、自分に対してだけ、もう三日続けている。


「……ノクス」


「……ん」


「私は、見られたいと思ってしまいました」


 言ってしまった。


 誰にも観測されないことを自分で選んだ人間が、観測されたいと言った。


 矛盾している。


 矛盾は、私がいちばん嫌うものだ。


 記録において矛盾は隙であり、隙は必ず突かれる。


 なのに。


 口に出したあと、少しだけ楽になっていた。


「……」


 ノクスが、動いた。


 輪郭が、こちらへ寄ってくる。


 芝を踏む音はしない。


 この子は、音を立てない。


 それでも、近づいてきているのは分かる。


 隣に、座った。


 石の段。


 私の、すぐ横。


 触れてはいない。


 触れる寸前の距離で、止まっている。


「……」


 何も言わない。


 慰めない。


 否定もしない。


 そんなことはない、とも。


 それでいい、とも。


 この子は、そういう言葉を持っていない。


 持っていないから、代わりに隣に座る。


 いつか、誰かが似たようなことを言い残していった。


 あのときは、意味が分からなかった。


「……重い?」


 ノクスが訊く。


「いいえ」


 私は答える。


「軽くはありませんが、重くもありません」


「……そう」


 それで会話は終わった。


 しばらく、二人で庭を見ていた。


 何も起きない。


 誰も来ない。


 誰も、私たちを見ていない。


 見ていないことが、今夜は少しだけ、寂しかった。


 その寂しさに名前をつけるのは、まだやめておく。


 名前を与えるのは、奪う行為だ。


 外から与えられた名は、外から書き換えられる。


 だが。


 無かったことには、もうできない。


 ――見られたい、と思ってしまった。

記録されない側の存在と、庭で話しました。


「見られなくても、ある」――それは、彼女自身が第41話で辿り着いた答えと同じ形でした。

けれど彼女はもう、そうは思えなくなっています。名を呼ばれた一瞬だけ、呼吸が深くなった。

本編第28話以来、二度目の本音です。ノクスは何も言わず、隣に座りました。


次話では、第41話にいなかった人と、再び会います。


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