第5話 ズレは、止まらない
記録にない存在。
その言葉だけが、頭の中に残っていた。
――ノア。
名前はある。
だが、記録がない。
それは本来、あり得ない。
あり得ないはずのことが、今、目の前で起きている。
「お嬢様」
ルークの声で、意識が戻る。
「王宮から、追加の伝令が到着しています」
早い。
予想より、ずっと。
「通してください」
答えると同時に、書庫の扉が開いた。
今度の伝令は、先ほどよりも階級が上だ。
衣装も整っている。
だが、顔色はさらに悪い。
「失礼いたします。緊急の通達です」
封書を差し出す手が、わずかに震えている。
私はそれを受け取り、開封する。
中身を一読する。
そして、静かに閉じた。
「……どうやら、事態は進んでいるようですね」
ルークが問いかける。
「ええ」
私は封書を机に置いた。
「第二会計室に加え、第四保管庫の記録が消失したそうです」
ルークの眉がわずかに動く。
「消失、ですか」
「紛失ではなく、消失と書かれています」
言葉の選び方が変わった。
つまり、ただのミスではないと認め始めている。
「対象は」
「過去三年分の取引記録の一部」
それは――大きい。
単なる一部署の問題では済まない。
「……狙われていますね」
ルークの言葉に、私は頷く。
「ええ」
ただし。
「誰が、ではありません」
「では?」
「どこが、です」
狙われているのは、人ではない。
仕組みだ。
記録という仕組みそのもの。
「……なるほど」
ルークが静かに息を吐く。
理解が早い。
だから助かる。
「王宮は、どう対応しているのでしょう」
「まだ“調査中”です」
つまり、何もできていない。
いや。
何も“できない”。
私は再び手帳を開く。
【第四保管庫 記録消失】
書き込む。
インクが乾く。
だが――
違和感。
ほんのわずかだが、引っかかる。
私はその行を見つめる。
消失。
本当に?
「……お嬢様?」
ルークが不思議そうに見る。
私は答えず、別のページを開いた。
保管庫の管理記録。
閲覧履歴。
権限者。
指先でなぞる。
そして。
「……おかしいですね」
「何が」
「消えたはずの記録に、“触れた痕跡”がある」
ルークが目を細める。
「それは……」
「消えていません」
断言する。
「少なくとも、“完全には”」
つまり。
「誰かが、意図的に“見えなくしている”」
消したのではない。
隠した。
それも、かなり雑に。
私は椅子から立ち上がる。
「馬車の準備を」
「どちらへ」
一瞬だけ迷う。
だが、答えは決まっている。
「王宮へ戻ります」
ルークの目がわずかに見開かれた。
「……よろしいのですか」
「ええ」
微かに口元を緩める。
「呼ばれていますから」
実際には、呼ばれてはいない。
だが、状況が呼んでいる。
それで十分だ。
――
王宮に戻ると、空気が変わっていた。
昨夜の華やかさは消えている。
代わりにあるのは、焦燥と苛立ち。
人が走っている。
声が飛んでいる。
書類が散らばっている。
秩序が、崩れかけている。
「通ります」
私は迷わず中へ進む。
止める者はいない。
止められない。
すでに私は“外された人間”のはずだが――
だからこそ、逆に自由だ。
第二会計室の前に着く。
扉は開きっぱなし。
中では数人が言い争っていた。
「だから、昨日まではあったんだ!」
「記録上は存在していません!」
「そんなはずが――」
私は扉の前に立つ。
誰も気づかない。
「……失礼」
一言だけ。
それで十分だった。
全員の視線が、こちらに集まる。
そして、凍る。
「リ、リディア様……」
誰かが呟く。
恐怖と安堵が混ざった声だった。
「少し、確認させてください」
私は中へ入る。
机の上に散らばった書類を見る。
乱れている。
順序がない。
だから、分かる。
「ここです」
一枚の書類を抜き取る。
「……それは、関係ない資料です」
「いいえ」
ページをめくる。
指で示す。
「ここに、“ないはずの番号”があります」
全員が息を呑む。
数字。
小さな違和感。
だが、確実なズレ。
「この番号は、消えた記録と対応しています」
「……そんな」
「つまり」
私は書類を机に置く。
「消えたのではなく、移された」
静寂。
誰も言葉を発せない。
理解が、追いつかない。
「どこに……」
誰かが呟く。
当然の疑問だ。
私は答えない。
答える必要がない。
そのとき。
廊下の奥から、足音が近づいてきた。
ゆっくりと。
だが、確実に。
そして。
「……やはり、来ていましたか」
聞き覚えのある声。
振り返る。
黒い礼服。
あの男だ。
観客。
彼は入口に立ち、こちらを見ていた。
「面白いですね」
ゆっくりと歩み寄る。
「誰も気づかないのに、あなたは気づく」
私は視線を外さない。
「仕事ですので」
「ええ」
男は笑う。
「だからこそ、厄介だ」
一歩、距離が詰まる。
空気が変わる。
周囲の人間が、無意識に下がる。
「一つ、質問を」
彼は言う。
「あなたは、どこまで“見える”のですか」
問いは、軽い。
だが、意味は重い。
私は少しだけ考える。
答えるかどうか。
そして。
「見える範囲だけです」
そう答える。
嘘ではない。
だが、真実でもない。
男の目が、わずかに細くなる。
「なるほど」
納得したふりをする。
だが、納得していない。
それが分かる。
「では」
彼は視線をずらす。
机の上の書類へ。
「その“移された記録”は、どこにあると?」
全員の視線が、私に集まる。
答えを待っている。
私は一歩だけ前に出る。
書類に手を置く。
そして。
「……ここにはありません」
静かに言う。
「王宮にも」
ざわめきが広がる。
「では、どこに――」
問いが飛ぶ。
私は、それを遮る。
「問題はそこではありません」
視線を上げる。
全員を見る。
「誰が移したか、です」
沈黙。
そして。
ゆっくりと、男を見る。
観客。
彼と目が合う。
ほんの一瞬。
その間に、何かが走る。
彼の口元が、わずかに歪む。
――知っている。
そう言っている顔だった。
私は何も言わない。
だが、理解はした。
この件は、ただの混乱ではない。
意図がある。
そして。
その意図は――
この場にいる。
静かに、息を吐く。
手帳に触れる。
まだ書かない。
書くべき名前が、確定していない。
だが。
次の一行は、もう決まっている。
――これは、事故ではない。
ズレは、ただのミスではありませんでした。
そして、それを知っている人間がいます。
ここから、ただの崩壊では終わらなくなります。
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次は“誰が動かしているのか”に触れていきます。




