第4話 ズレは、もう始まっている
最初の報告は、朝食の前に届いた。
「第二会計室より緊急報告です」
執事が、いつもより半歩だけ速く歩いてくる。
それだけで、何かがおかしいと分かる。
私は紅茶に口をつけたまま、視線だけを向けた。
「どうぞ」
「本日提出予定だった決裁書類が、所在不明とのことです」
想定より早い。
カップを置く。
音は立てない。
「紛失ですか」
「はい。ただ、担当者は“昨日までは確かにあった”と」
曖昧な証言。
だが、曖昧なままでは済まない案件だ。
「影響範囲は」
「本日中に決裁が下りない場合、三件の支払いが停止します」
三件。
少ないようで、少なくない。
金の流れは、止めると連鎖する。
「誰の案件ですか」
「……いずれも、昨夜の夜会に関係する貴族家です」
予想通りだった。
私はパンに手を伸ばす。
空腹ではないが、食事の手は止めない。
「他には」
「第三人事局にて、配属記録の不整合が報告されています。配属されたはずの人員が、現場にいないと」
「逆に、余っている人員は」
「おります。ですが、帳簿上では存在しない扱いです」
それも、想定内。
私は一口だけ口に運び、ゆっくりと咀嚼した。
ルークが壁際に控えている。
表情は変わらないが、視線だけがこちらを見ている。
「……お嬢様」
「ええ」
頷く。
「始まりました」
ルークは何も言わなかった。
言う必要がない。
沈黙は、理解の証明だ。
「王宮からの正式な連絡は」
「まだありません」
それはそうだろう。
“異常”は、最初はただの“ミス”として処理される。
誰もすぐには認めない。
だからこそ、広がる。
「では、こちらからは何も動きません」
「よろしいのですか」
「ええ」
私はナプキンで口元を拭く。
「記録が揃うまでは」
それが最優先だ。
慌てて動けば、証拠は散る。
放置すれば、勝手に積み上がる。
――どちらが効率的かは、明白だった。
食事を終え、立ち上がる。
「書庫へ行きます」
「かしこまりました」
廊下に出ると、屋敷の空気が少し違っていることに気づく。
使用人たちの動きが、わずかに速い。
声が少しだけ低い。
何かを“知っている”空気だ。
私は何も言わず、そのまま歩く。
書庫の扉を開ける。
ひんやりとした空気が流れ込む。
棚には整然と書類が並んでいる。
すべて、管理されている。
ここは、乱れない。
だからこそ、外の乱れがよく見える。
私は中央の机に座り、手帳を開いた。
【第二会計室 決裁書類紛失】
【第三人事局 配属不整合】
すでに、二件。
少なすぎる。
昨夜の規模を考えれば、もっとあるはずだ。
ページをめくる。
空白が続く。
そこに、軽くペン先を当てる。
まだ書かない。
そのとき、扉がノックされた。
「入って」
入ってきたのは、年配の文官だった。
カレスト家に古くから仕える記録係。
「お嬢様、王宮より伝令が」
早い。
私は手帳を閉じる。
「通してください」
ほどなくして、若い伝令兵が入ってきた。
顔色が悪い。
「リディア・エル=カレスト様でいらっしゃいますか」
「ええ」
「王宮よりの通達をお持ちしました」
差し出された封書を受け取る。
封はされていない。
急いで出されたものだ。
中身を確認する。
内容は簡潔だった。
――記録局に関する一時的な権限停止
――関係書類の提出命令
――事情聴取の可能性
私は目を通し、元に戻す。
「ご苦労様です」
「……失礼いたします」
伝令兵は、ほっとしたように頭を下げて出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
ルークが一歩前に出る。
「予想より早いですね」
「ええ」
想定の範囲内だが、少しだけ前倒しだ。
「どうされますか」
「何もしません」
即答だった。
ルークの視線がわずかに揺れる。
「提出命令が出ていますが」
「提出すべき記録は、まだ揃っていません」
正確には、揃っている。
だが、揃っていることを示す必要はない。
「……なるほど」
ルークが理解する。
そのときだった。
書庫の奥で、小さな音がした。
紙が擦れる音。
誰かがいる。
私は視線だけを向ける。
「そこにいる方」
静かに呼びかける。
「出てきてください」
数秒の沈黙。
やがて、棚の影からひとりの少女が現れた。
年は、十にも満たないだろうか。
簡素な服装。
見覚えは、ない。
だが――
「……あなたは」
違和感がある。
彼女は、私を見ていた。
真っ直ぐに。
「ねえ」
少女が口を開く。
「それ、全部ほんとうに残るの?」
問いは、単純だった。
だが、核心を突いている。
私は少しだけ目を細める。
「何のことを指しているのかによります」
「記録」
即答だった。
「消えたりしない?」
普通の子どもなら、そんなことは聞かない。
記録が何かも、よく分からないはずだ。
だが、彼女は違う。
「……あなたは、誰ですか」
問い返す。
少女は少しだけ考える素振りを見せた。
そして、笑う。
「わたし?」
無邪気な顔だった。
けれど、その目は、どこか空虚だ。
「わたしは――」
一瞬、言葉が途切れる。
名前を思い出せないような、そんな間。
そして。
「……ノア」
小さく、そう言った。
私はその名を、頭の中で反復する。
記録には、ない。
少なくとも、今のところは。
「ノア」
呼んでみる。
少女は嬉しそうに頷いた。
「ねえ」
もう一度、同じ問い。
「それ、ほんとうに消えない?」
私は手帳に触れる。
冷たい感触。
確かな重み。
「……基本的には」
答える。
「ただし」
一拍置く。
「例外は存在します」
ノアの目が、わずかに輝いた。
「ほんとうに?」
「ええ」
私は彼女から視線を外さない。
「だからこそ、記録するのです」
消えないように。
消されないように。
ノアはしばらく私を見つめていた。
やがて、小さく笑う。
「そっか」
それだけ言って、くるりと背を向けた。
出口へ向かう。
止めるべきか、ほんの一瞬だけ考える。
だが、止めなかった。
扉が開く。
光が差し込む。
そして、閉じる。
再び静寂。
ルークが低く呟く。
「……どなたでしょうか」
「分かりません」
本当に。
分からない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
私は手帳を開く。
新しい行に、ゆっくりと書き込む。
【ノア 出現 記録未確認】
インクが乾く。
その文字を見て、ほんの少しだけ、違和感が残る。
記録未確認。
つまり――
「……記録にない存在」
小さく呟く。
その意味を、完全には理解できていない。
だが、直感が告げている。
これは、例外だ。
そして例外は、必ず歪みを生む。
私は手帳を閉じた。
机の上に置く。
指先で、軽く叩く。
外では、まだ小さな混乱が続いているはずだ。
だが、それとは別に。
別の“何か”が、動き始めている。
それはまだ、形になっていない。
けれど確実に――
この記録の外側で、動いている。
少しずつ、崩れ方が見えてきました。
ただの“ミス”では済まないズレと、
記録にない存在。
どちらが先に表に出るのか。
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次話では、さらに一段階、状況が動きます。




