第3話 沈黙の価値
王宮の外気は、思っていたよりも冷たかった。
夜会の熱気を抜けたせいか、それとも、単に季節の問題か。
理由はどちらでもいい。
私は階段を下りながら、背後を振り返らなかった。
もう、あの場所に用はない。
――少なくとも、今は。
石造りの回廊を抜けると、正門へ続く長い通路がある。
そこには、夜会の帰りを待つ馬車と、従者たちが並んでいた。
ざわめきが、少しずつ広がる。
「……あれが」
「本当に?」
「もう終わったらしいわよ」
囁きは、風よりも早い。
広間で起きたことは、すでに半分以上、形を変えて伝わっているだろう。
私は足を止めない。
視線が集まる。
好奇心、軽蔑、安堵。
そのどれもが、私には直接関係がない。
「お嬢様」
聞き慣れた声が、横から差し込んだ。
振り向くと、黒髪の青年が一歩下がった位置で頭を下げている。
カレスト家の従者、ルークだ。
「お迎えに上がりました」
その言葉はいつも通りだが、視線がわずかに揺れている。
広間で何があったか、すでに知っているのだろう。
「ありがとう」
短く返す。
それだけで十分だ。
ルークは何も聞かない。
聞かないまま、私の隣に並ぶ。
その沈黙は、ありがたかった。
馬車の扉が開かれる。
乗り込む直前、背後から声が飛んだ。
「リディア!」
今夜、三度目だ。
足を止める。
振り返る。
アルヴェルト殿下ではない。
ミリア・フェンリスだった。
ドレスの裾を持ち上げ、息を切らしながら駆け寄ってくる。
周囲の視線が、一斉に集まった。
「……何のご用でしょうか」
問いかけると、彼女は一瞬だけ言葉を失った。
距離が近い。
広間よりもずっと。
「わたくし……その……」
言葉が続かない。
当然だろう。
何を言うべきか、まだ決まっていない顔だった。
「謝罪、でしょうか」
私が先に提示する。
彼女ははっと顔を上げた。
「い、いえ……違います……その、違う、わけでは……」
混乱している。
嘘はつけないタイプだ。
だからこそ、あの場に立ってしまった。
「では」
「聞きたいんです」
ようやく、言葉が形になる。
彼女の瞳は、真っ直ぐだった。
「あなたは、本当に……あのようなことをしたのですか」
その問いは、正しい。
少なくとも、彼女にとっては。
私は少しだけ考える。
何を答えるべきかではない。
どこまで残すか、だ。
「殿下は、そう判断なさいました」
「それは……」
答えになっていない。
彼女はすぐに気づいた。
「あなたは、どうなのですか」
「私の見解は、すでに不要です」
広間で決まったことだ。
今さら個人の意見が割り込む余地はない。
「そんなことはありません!」
思ったよりも強い声だった。
周囲がまたざわめく。
ミリアは、それに気づいていない。
「だって……だって、あの場は、あまりにも……」
言葉を選ぼうとして、失敗する。
正義の場だったはずなのに。
どこかが歪んでいたと、彼女自身が感じている。
それが、声に出ている。
「……ミリア嬢」
私は静かに呼ぶ。
彼女はびくりと肩を揺らした。
「あなたは、何を信じますか」
「え……」
「殿下の言葉か、それとも、自分の見たものか」
単純な問いだ。
だが、簡単ではない。
彼女は視線を泳がせる。
殿下のほうを見ることはできない。
かといって、私を真っ直ぐ見続けることもできない。
「わたくしは……」
答えが出ない。
当然だ。
今この瞬間に決められるものではない。
だから私は、少しだけ救いを残す。
「急ぐ必要はありません」
ミリアが顔を上げる。
「いずれ、記録が揃います」
「記録……」
その言葉に、彼女は少しだけ怯えた。
それも無理はない。
記録は、優しくない。
「そのときに、もう一度考えてください」
それで十分だ。
今、彼女にできることは少ない。
けれど、ゼロではない。
「……はい」
小さく頷く。
それは、今夜初めての、彼女自身の意思だった。
私はそれを確認して、馬車へと乗り込む。
扉が閉まる直前、もう一度だけ視線を外へ向けた。
ミリアはその場に立ち尽くしている。
誰にも助けられず、誰にも指示されず、ただ自分で考えなければならない場所に、立たされている。
――いい傾向だ。
馬車が動き出す。
石畳を叩く車輪の音が、一定のリズムを刻む。
ルークが向かいに座る。
何も言わない。
沈黙は続く。
やがて、王宮の灯りが遠ざかる頃。
「……お嬢様」
ようやく、彼が口を開いた。
「本当によろしいのですか」
同じ問いだ。
今夜、何度も聞かれた。
「何がでしょう」
「すべてを、そのままにして」
少しだけ、違う。
ルークは、私のことを知っている。
“そのままにしない”人間だと。
「……そのままではありません」
私は小さく首を振る。
「順番を変えただけです」
「順番、ですか」
「ええ」
窓の外を見る。
街の灯りが流れていく。
「先に、記録する」
それだけだ。
暴くのは、その後でいい。
ルークはしばらく黙っていた。
やがて、静かに息を吐く。
「……承知しました」
それ以上は聞かない。
その信頼は、重い。
馬車はやがて、カレスト家の屋敷へと到着する。
門が開かれ、庭を抜け、正面玄関へ。
扉が開くと、執事が深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
声は落ち着いている。
だが、その背後に控える使用人たちの空気が、わずかに揺れていた。
すでに、知っている。
当然だ。
「ただいま戻りました」
私はそのまま中へ入る。
廊下を進み、自室へ。
扉を閉めると、ようやく完全な静寂が訪れた。
私は机の前に立つ。
黒革の手帳を取り出す。
ゆっくりと開く。
銀の文字が浮かび上がる。
今夜の記録。
すでに、ほとんどは埋まっている。
だが、最後の一行だけが空白だった。
私は指先で、その空白に触れる。
そして、静かに書き込む。
【記録官、宮廷より離脱】
それだけ。
短い一文。
だが、それはひとつの区切りだった。
次の頁をめくる。
そこは、まだ何も書かれていない。
真っ白だ。
私はペンを取る。
ほんの少しだけ、迷う。
何を書くべきか。
ではない。
どこから書くか、だ。
やがて、先ほどの廊下の出来事を思い出す。
黒い礼服の男。
観客。
あの視線。
私はペン先を紙に当てる。
そして、一行だけ記した。
【不明人物 観測済】
インクが乾く。
それを見届けて、私は手帳を閉じた。
――さて。
これで準備は整った。
誰が、どこから崩れるのか。
それはまだ分からない。
だが、確実に言えることがある。
今夜の記録は、終わりではない。
これは――
最初の一頁にすぎない。
少しずつ、「何が起きているのか」が見え始めました。
まだ断罪は終わっていません。
むしろ、ここからが本番です。
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次は、“ズレ”がはっきりと形になります。




