第2話 正義は、よく喋る
廊下は静かだった。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、音がない。
だからこそ、足音がやけに響く。
――カツ、カツ。
私の靴音ではない。
速い。焦っている音だ。
「待て!」
背後から声が飛んだ。
振り返る必要はない。声の主は分かっている。
それでも私は、数歩だけ進んでから足を止めた。
振り返ると、アルヴェルト殿下がこちらへ歩み寄ってくるところだった。
広間で見せていた余裕は、もうない。
「……何のご用でしょうか、殿下」
言葉を選ぶ必要はなかった。
もう、婚約者ではないのだから。
「さっきの態度は何だ」
息がわずかに荒い。
怒りというより、引っかかりに近い。
「態度、とは」
「とぼけるな。あの場での言動だ。妙に落ち着いていたな」
観察は、間違っていない。
殿下は人を見る目がないわけではない。むしろある。
だからこそ、外されるときは大きく外す。
「取り乱すべきでしたか?」
「普通はそうする!」
少し声が大きくなった。
廊下の奥で控えていた侍女が、びくりと肩を震わせる。
私は視線だけをそちらにやり、すぐに戻した。
「普通、ですか」
「そうだ。君は自分が何を失ったか分かっているのか?」
婚約。
地位。
将来。
失ったものはいくつかある。
けれど、それを数え上げるのはあまり意味がない。
「承知しております」
「ならば、なぜ――」
言いかけて、殿下は口を閉じた。
言葉が続かない。
不思議だった。
さきほどまで、あれほど饒舌だった人が。
私は少しだけ首を傾げる。
「殿下は、何をお求めですか」
「……は?」
「謝罪でしょうか。あるいは弁明か。それとも、感情的な反応を」
「そんなことを言っているのではない!」
今度ははっきり怒りが混じった。
けれど、その奥にあるものは別だ。
理解できないものに対する苛立ち。
「君は何も感じていないのかと聞いている!」
ようやく、核心に触れた。
私は少し考えるふりをした。
考えるまでもないことでも、間を置くことには意味がある。
「感じております」
「なら――」
「ただ、表に出す必要がないだけです」
殿下が息を呑んだ。
その反応は、正しい。
たいていの人間は、感情を見せることで相手を納得させる。
泣けば哀れまれるし、怒れば恐れられる。
けれど、それは“記録”には残らない。
「……君は昔からそうだ」
低く呟くような声だった。
「何を考えているのか分からない。人の気持ちを、理解しようともしない」
「理解はしております」
「ならばなぜ寄り添わない!」
問いではなく、ほとんど叫びに近い。
廊下の空気がわずかに揺れる。
今度は、私のほうが少しだけ驚いた。
この人は、こんな声を出すのか。
「……殿下」
私はゆっくりと言葉を選んだ。
「寄り添う、とは」
「――」
「事実を曲げることですか。それとも、見なかったことにすることですか」
殿下の表情が、わずかに歪んだ。
図星ではない。
だが、近いところにある。
「君は……」
何かを言いかけて、また止まる。
今日だけで三度目だ。
私はその間に、静かに続けた。
「殿下は、正しい判断をなさったのでしょう」
「当然だ」
「では、その判断は、記録に残ります」
殿下の眉がぴくりと動いた。
「……まだそれを言うのか」
「ええ。重要ですので」
私は手帳には触れない。
触れなくても、そこにある。
「誰が、いつ、何を理由に、誰を切り捨てたのか」
一つずつ、区切って言う。
「それは、後で必ず参照されます」
殿下が黙った。
理解したわけではない。
だが、嫌な予感だけは伝わったらしい。
「……脅しか?」
「いいえ」
私は首を振る。
「記録です」
その一言で、空気が変わる。
先ほどまで廊下にいた侍女や文官たちが、明らかに距離を取った。
誰も近づこうとしない。
その反応を見て、殿下の表情がさらに硬くなる。
「君は……本当に、そういう人間だな」
「そういう、とは」
「冷たい」
短い断定だった。
私は少しだけ視線を落とす。
否定する理由も、肯定する理由もない。
「……そうかもしれません」
それだけ言って、再び歩き出す。
「待て」
今度は、さきほどよりも弱い声だった。
足を止めるかどうか、一瞬だけ迷う。
だが、止めなかった。
「リディア!」
呼ばれる。
その呼び方は、少しだけ懐かしかった。
けれど、振り返らない。
「……もう一度聞く」
背後から声が届く。
「本当に、それでいいのか」
何が、とは言わない。
婚約か。判断か。あるいは、今この瞬間の距離か。
私は歩みを緩めた。
答えは、決まっている。
「問題ありません」
短く、それだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
しばらく、何も言葉は返ってこなかった。
やがて、背後の気配が遠ざかる。
殿下は戻ったのだろう。あの広間へ。
正義の続きを、演じるために。
私はそのまま廊下を進む。
角を曲がると、ひとりの男が壁にもたれて立っていた。
先ほど、広間で目が合った人物だ。
黒い礼服。整った顔立ち。年はそれほど変わらないはずなのに、妙に落ち着いている。
「……お疲れ様です、令嬢」
軽く会釈される。
初対面のはずだが、妙に距離が近い。
「どなたでしょうか」
「名乗るほどの者ではありません。ただの観客です」
観客。
あの場にいた人間をそう呼ぶのは、少し面白い。
「観客にしては、ずいぶん冷静でしたね」
「ええ。面白い劇でしたので」
笑っている。
だが、その目は笑っていない。
「特に、最後の一言が良かった」
ゆっくりと近づいてくる。
「――“それは、どうでしょう”」
正確に再現された。
私はその場から動かない。
「記録官殿」
その呼び方に、ほんの一瞬だけ間が空いた。
気づくほどではない。
だが、確かに。
「あなたは、あの王宮を壊すつもりですか」
問いは、直線的だった。
私は少しだけ目を細める。
「壊す、とは」
「崩れるでしょう。いずれ」
男は、まるで確信しているように言った。
「あなたがいなくなった時点で、すでに綻びが出ている」
事実だ。
だが、それを口にする人間は少ない。
「観察がお上手ですね」
「職業柄です」
「職業を伺っても」
「今はまだ」
はぐらかされる。
けれど、敵意は感じない。
好奇心に近い。
「一つ、忠告を」
男が少しだけ声を落とす。
「記録は、便利な武器です。ですが」
一歩、距離が詰まる。
「それを持っているのが、あなただと知られた瞬間――」
そこで言葉を切る。
続きを言う必要はない。
理解はできる。
だから私は、わずかに首を傾げた。
「すでに、知られていますよ」
男の目が、ほんの少しだけ揺れた。
初めての変化だった。
「……なるほど」
小さく笑う。
「では、これは失礼を」
一歩下がる。
「またお会いしましょう、記録官殿」
名乗らないまま、彼は去っていった。
足音は静かで、気配だけが残る。
私はしばらくその場に立ち尽くした。
そして、ゆっくりと手帳に触れる。
開かない。
まだ、書く必要がない。
「……観客、ですか」
呟いて、歩き出す。
王宮の夜は、まだ終わっていない。
けれど、何かは確実に始まっている。
それがどこまで広がるのか。
どこまで記録されるのか。
――それは、これから分かる。
少しずつ、空気が変わり始めました。
壊れる音は、まだ小さいですが、
聞こうとすれば、ちゃんと聞こえるものです。
次は、その“ズレ”がどこまで広がるのか。
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