第1話 婚約破棄は、記録される
婚約破棄から始まる物語です。
ただし、これは単なるざまぁでは終わりません。
「存在そのもの」を巡る戦いになります。
婚約破棄の言葉より先に、グラスが割れた。
高い音だった。
けれど、広間にいた誰もそちらを見ない。今夜、いちばん面白い見世物は、はじめから私だと決まっていたからだ。
「リディア・エル=カレスト。君との婚約を、ここで破棄する」
王宮の大広間は、春の夜会らしく明るかった。
燭台の光は金の装飾を照らし、磨き上げられた床は人の顔まで映す。壁際には楽師、中央には貴族たち。笑顔、香水、宝石、そして退屈。
退屈していた彼らは、いまや露骨に目を輝かせていた。
壇上に立つアルヴェルト殿下は、よく通る声をしている。
王になる男にふさわしい声だと、以前は思っていた。
以前は。
「理由は明白だ。君は宮廷に害をなした。傲慢で、冷酷で、誰よりも身勝手だ。記録局の権限を盾に人を脅し、己に従わぬ者の評価を落とし、さらには――」
少し、言葉を切る。
わざとだろう。間の使い方まで上手くなった。
その沈黙に耐えきれず、誰かが息を呑む。
「無実の令嬢を陥れた」
その一言で、ざわめきが波のように広がった。
殿下のすぐ隣には、薄桃色のドレスを着た少女がいる。
ミリア・フェンリス伯爵令嬢。
庇護欲を誘う顔立ちで、震える指先までよく見えた。たぶん本当に震えている。演技ではなく。そういうところが、あの人らしい。
「……申し訳、ありません。わたくしのせいで、このようなことに……」
彼女が言えば、周囲はますます殿下に同情した。
弱いものを守る王子。高慢な婚約者を断ずる正義の人。
絵としては、よくできている。
私は壇上の下に立ったまま、視線だけを上げた。
殿下は、私が泣くと思っている。
弁解するか、怒るか、せめてみっともなく取り乱すか。そうすれば、この断罪は完成する。
けれど私は、手袋の指先を整えるだけに留めた。
「何か言うことはあるか、リディア」
ありますとも。
山ほど。
けれど、言葉は時々、記録より弱い。
だから私は、静かに尋ねた。
「殿下。そのご発言は、正式なものとして扱ってよろしいのですね」
広間の空気が、ほんの少しだけ止まった。
殿下が眉をひそめる。
「……何だ、それは」
「婚約破棄の宣言です。ならば、日時、場所、立会人、理由を含めて記録する必要があります」
「そんなことを聞いているのではない!」
珍しく声が荒れた。
その瞬間、何人かが顔を見合わせた。たぶん彼らは今、最初の違和感を覚えた。
婚約を破棄された令嬢が最初に気にするのが、体面でも感情でもなく、記録の形式だということに。
私は少しだけ首を傾げる。
「では、何を」
「反省の弁だ。謝罪だ! 君はどこまでもそうやって、冷たい顔で――」
「殿下」
遮ったのは私ではない。
宰相補佐の老貴族だった。額に汗がにじんでいる。
「この場での糾弾は、いささか性急では……」
「性急? 証言は揃っている!」
殿下は一歩前に出る。
正義を信じる人の目だった。そういう目を、私は嫌いではなかった。
だから困るのだ。嫌える相手なら、記録する手も震えない。
「リディアは記録局の立場を私していた。圧力をかけ、書類を止め、意に沿わぬ貴族家には不利な注記まで加えていた。ミリア嬢の推薦文が何度も差し戻されたのが、その証拠だ」
「わたくしは……っ、殿下、もうよろしいのです。本当は、こんなこと望んでなど……」
望んでいない顔はしていた。
それでも、この場に立っている。
それもまた事実だ。
周囲から「おいたわしい」「なんて酷い」「前から噂はあったわ」と囁きが飛ぶ。
噂。便利な言葉だ。証拠がなくても、空気さえあれば人を裁ける。
私はようやく、小さく息を吐いた。
たぶん殿下は知らない。
推薦文を差し戻したのは私ではない。
差し戻させたのが誰かも、私は知っている。
知っていて、今まで黙っていた。
黙ることには慣れている。
昔、一度だけ、感情のままに口を開いたことがあった。
あの時失ったものは、まだどこにも戻っていない。
だから私は、もう間違えない。
「……否定はしないのか」
殿下の声が、少し低くなる。
期待しているのだろう。私が否定してくれれば、それを叩き潰して気持ちよくなれる。
私は目を伏せた。
床に映る自分の輪郭は、驚くほど静かだった。
「必要ありません」
「何?」
「殿下がそう記録したいのであれば、それで結構です」
一拍遅れて、広間がざわつく。
諦めたと思った者。強がりだと思った者。気味が悪いと思った者。
全部、正解で、全部、少し違う。
「では、これをもって婚約は破棄とする!」
殿下が宣言した。
拍手が起こる。最初は遠慮がちに、やがて堂々と。
誰かの人生が壊れる音に、人は案外あっさり慣れる。
「それから記録局の補佐権限も剥奪だ。君は宮廷の実務から外れ、カレスト家にて謹慎――」
「承知しました」
また早すぎたらしい。
殿下の言葉がわずかに詰まる。
「……ずいぶん素直だな」
「命令ですから」
「今さら従順を装っても遅い」
「そうでしょうね」
つい、少しだけ本音が混じった。
それを皮肉と取ったのか、殿下の表情が険しくなる。
そのときだった。
後方の給仕が、銀盆を取り落とした。皿が割れる。二度目だ。
「申し訳ございません!」
「何をしている!」
叱責が飛ぶ。
給仕は真っ青になっていた。見れば、彼の腕章の色が違う。本来ここに入れない部署の者だ。
人の配置が狂っている。
珍しいことではない。
珍しくない、はずだった。
さらに、広間の入り口で別のざわめきが起きた。
「第二会計室の書類が見つからないそうです!」
「今、その報告を持ち込む場か!」
「ですが、本日の決裁印が必要で――」
誰かが舌打ちした。
誰かが「またか」と呟いた。
私は何も言わない。
殿下が苛立ちを隠さず手を振る。
「後にしろ! 今は私の婚約破棄が先だ!」
言ってから、自分でおかしいと思ったのだろう。
一瞬だけ、広間に妙な沈黙が落ちた。
婚約破棄に、先も後もない。
私はその隙に、胸元の小さな銀鎖へ触れる。
先端には、鍵を模した装飾がついている。
見た目はただの飾りだ。ほとんどの人間には。
「……リディア嬢」
小さな声。
ミリア嬢だった。
彼女は青ざめた顔で、けれどまっすぐ私を見ている。
「本当に、あなたは……何も言わないのですか」
その問いは、少しだけ予想外だった。
勝ち誇るのではなく、確かめるような口調だったから。
「言う必要がありませんので」
「でも……」
「ミリア嬢」
私はそこで初めて、彼女に向けて微笑んだ。
たぶん今夜最初の笑みだったので、彼女は息を止めた。
「どうぞお幸せに」
祝福の言葉にしては、あまりに温度がなかった。
広間にいた何人かが、ぞくりとした顔をする。
殿下が私を睨む。
「その態度が、最後まで気に入らなかった」
「ええ。存じております」
知っている。
気に入られなかったことも。
必要とされたのが、私そのものではなかったことも。
少しだけ、胸の奥が空く。
喪失というほど綺麗なものではない。長く抱えすぎて、もう形も分からなくなった穴だ。
埋める方法も知らない。
だから私は、空いたままで進む。
一礼し、踵を返す。
拍手はもう止んでいた。代わりに、遠巻きの視線だけが背中に刺さる。
憐れみ、好奇心、安堵。私ではなく、自分が舞台に立たずに済んだことへの安堵。
大扉へ向かう途中、壁際に立つひとりの男と目が合った。
見覚えがない。黒い礼服。年若いくせに、妙に落ち着いた視線。
彼だけが笑っていなかった。
その人は、ごくわずかに唇を動かした。
――なるほど。
声にはならなかったが、そう読めた。
私は扉の前で足を止める。
振り返らないまま、はっきりと告げた。
「では、失礼いたします。婚約破棄の件、ならびに今夜の発言一切を、正式に記録いたします」
ざわめきが、三度目に広がる。
殿下が鼻で笑った。
「好きにしろ。君の記録など、もはや何の意味も持たない」
そう。
そうであれば、よかった。
私はようやく振り返り、壇上の王子を見上げた。
「……それは、どうでしょう」
広間の空気が冷える。
誰かが息を呑んだ。
誰かが、今さら自分の発言を思い返した。
私は礼をして、今度こそ大扉をくぐる。
廊下は静かだった。
広間の熱気が嘘みたいに、冷たい。
背後で、慌ただしい足音が走る。
書類がない、印章が違う、担当者が見つからない。そんな断片が漏れ聞こえる。
今夜だけなら、ただの混乱で済んだだろう。
今夜だけなら。
私は歩きながら、袖の内から小さな黒革の手帳を取り出した。
留め具を外し、何も書かれていないように見えるページを開く。
そこには、銀の文字が浮かび上がる。
【王太子アルヴェルト・ルクス=ディ=ヴァレイン
婚約破棄宣言 王宮大広間 立会多数
証言記録、取得済】
続く頁には、まだ空白があった。
正確には、空白に見えるだけで、書き込まれる余地が残っている。
誰が、何を言ったか。
誰が、どこで笑ったか。
誰が、いつ、誰を切り捨てたか。
全部、残る。
私は手帳を閉じた。
「さて」
誰に聞かせるでもなく呟く。
欠けたものは戻らない。失った時間も、信じた気持ちも。
けれど、始まるものはある。
「まずは、第一頁ですね」
夜会の喧騒を背に、私は歩き出した。
王宮の崩れる音は、たいてい最初、とても小さい。
あとがき
婚約は終わりました。
でも、終わったのはそれだけです。
静かな人が本当に静かなまま終わるのかどうか、
次の数話で少しずつ分かっていくと思います。




