第43話 受け取れないもの
――誰も、書かない。
それが、あの扉を出て最初に分かったことだった。
街道沿いの宿。
夕暮れ。
煮込みの匂いと、薪の匂い。
どこにでもある宿だ。
「一晩、お願いします」
私は言う。
主人は、顔を上げる。
こちらを見る。
そして。
何も見なかったように、視線を戻す。
「……」
驚きはなかった。
当然だ。
もう一度、同じ言葉を言う。
同じ高さで。
同じ速さで。
結果も、同じだった。
「お嬢様」
ルークが、隣で言う。
「はい」
「こちらで」
短い。
それでいい。
「お願いします」
ルークが前に出る。
「部屋を、二つ」
「はい、ただいま」
主人の声が、変わる。
張りが出る。
当たり前の声だ。
当たり前ではないのは、こちら側だけ。
主人が帳簿を開く。
ペンを取る。
日付。
人数。
名前。
――一名様。
そう書かれる。
「……」
私は、その帳簿を見ている。
部屋は、二つ。
人は、一名。
ルークだけが、そこにいる。
私は、いない。
ノクスも、いない。
差はそれだけだ。
それだけで、私は宿の客ではない。
「代金を」
私は言う。
卓に硬貨を置く。
音がする。
確かに、音はする。
主人の手が、伸びる。
伸びて。
止まる。
迷ったのではない。
届かなかったのでもない。
ただ。
その硬貨が、帳簿のどこにも収まらなかった。
誰から受け取ったのかを、書けない。
書けないものは、受け取れない。
「……あれ」
主人が、小さく言う。
自分の手を見る。
不思議そうに。
そして、すぐに忘れる。
忘れられる。
その速さが、いちばん静かだった。
「こちらでお支払いします」
ルークが硬貨を出す。
主人が受け取る。
帳簿に、線が引かれる。
済。
それで終わりだ。
「……」
ノクスが、卓の上を見ている。
私の硬貨が、まだそこにある。
「……ある」
ノクスが言う。
「ええ」
私は頷く。
「あります」
ある。
誰も受け取れないだけで。
「……変」
「そうですね」
私は硬貨を拾う。
冷たい。
重い。
何も変わっていない。
変わったのは、この金が誰の手にも渡らないということだけ。
記録に残せないものは、受け取れない。
交換ができない。
交換ができなければ、暮らせない。
思っていたより、単純な話だった。
「……お嬢様」
ルークが言う。
声が、少しだけ低い。
「はい」
「差し出がましいことを申し上げます」
「どうぞ」
「これは、続きます」
一拍。
そのとおりだ。
今日だけの不便ではない。
宿も。
門も。
書類も。
すべて、同じ形で来る。
「ええ」
私は答える。
「便利ですね」
「……」
ルークが、こちらを見る。
何か言おうとして。
やめる。
賢い人だ。
私が今、それ以外の言い方を持っていないことを、たぶん分かっている。
部屋に上がる。
窓を開ける。
街道。
荷馬車。
誰かの笑い声。
世界は、何も変わっていない。
構造も。
ルールも。
変えたのは、こちらだ。
私は手帳を取り出す。
留め具を外す。
空白のページ。
銀の文字は、浮かばない。
当然だ。
書く相手が、いない。
この手帳は、繋がりに触れるための道具だった。
繋がりのない場所では、ただの紙束になる。
閉じる。
留め具をかける。
音が、小さく鳴った。
――誰も、書かない。
――ここから第二部が始まります。
観測されないことを選んだ彼女は、自由になりました。
ただ、この世界のルールでは「記録されないもの」は受け取ることも、渡すこともできません。
勝利のかたちをした不便が、静かに彼女を追い始めます。
なお本作は第二部より、ジャンルを異世界恋愛へ移します。
文体も温度も変えません。恋愛も、この作品の語彙のままで書きます。
次話では、王都へ戻ります。門は、彼女のためには開きません。
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