第42話 閑話 記録が揃うとき(ミリア・フェンリス)
本編のその後ではなく、あの夜のすぐあと――婚約破棄の広間を、もう一方の側から見た一場面です。
リディアがミリアに残した「いずれ、記録が揃います」という言葉の、続きにあたります。
あの夜から、三週間が経っていた。
王宮は、何も変わっていないように見える。
燭台は磨かれ、楽師は同じ曲を奏で、貴族たちは同じ笑顔で同じ噂を交わす。
婚約破棄の夜に「おいたわしい」と囁いた人たちが、今は別の誰かを囁いている。
わたくしのことを囁く人も、少しだけいる。
けれど、誰も本気では見ていない。
あの夜、本気でわたくしを見たのは、たった一人だけだった。
「あなたは、何を信じますか」
リディア・エル=カレスト。
婚約を破棄された令嬢は、馬車に乗り込む前に、わたくしにそう尋ねた。
殿下の言葉か、それとも、自分の見たものか――と。
答えは、まだ出ていない。
けれど、彼女は最後にこう言った。
「いずれ、記録が揃います。そのときに、もう一度考えてください」
記録。
あのときは、ただ怖いだけの言葉だった。
今は、少しだけ意味が変わってきている。
きっかけは、些細なことだった。
わたくしの推薦文。
記録局に何度も差し戻され、宙に浮いたままになっていた、あの書類。
殿下は広間で言った。リディアが意地悪く止めていたのだ、と。それが彼女の罪の証拠なのだ、と。
わたくしも、そう思っていた。
思わされていた、と言うほうが正しい。
けれど先日、書庫の隅で、古い受付控えを見つけた。
差し戻しの日付が、並んでいた。
その中の三件は、リディアが記録局から外された後の日付だった。
彼女は、もういなかった。
権限を剥奪され、カレスト家で謹慎していた。
なのに、差し戻しは続いていた。
つまり。
わたくしの書類を止めていたのは、最初から彼女ではない。
手が、少しだけ震えた。
怖かったのではない。
今まで信じていたものが、たった一枚の控えで崩れたことが、恐ろしかった。
記録は、優しくない。
彼女はそう言った。
本当だった。記録は、信じたいものではなく、あったことだけを残す。
それからわたくしは、確かめるようになった。
誰に言われたわけでもない。
ただ、自分の目で見たものを、自分の手で書き留めた。
差し戻された日付。立ち会った人の名。書類が回された順番。
大したことはできない。
わたくしには、記録を書き換える力などない。リディアのように、世界の決まりに触れる手も持っていない。
伯爵令嬢の小さな手帳に、見たことを並べるだけだ。
けれど、並べていくうちに、形が浮かんでくる。
誰かが、わたくしを選んでいた。
あの夜、殿下の隣に立つ役に。
弱くて、嘘がつけなくて、同情を集めやすい娘を。
わたくし自身の意思ではなく、誰かの都合で。
その誰かは、まだ見えない。
差し戻しの先にいる手は、記録の上では、いつも空白になっている。
空白は、消したのではなく、最初から書かせなかった跡だ。
――いずれ、記録が揃います。
彼女の言葉が、ようやく腑に落ちる。
揃うのは、誰かが揃えてくれるからではない。
ばらばらの違和感を、自分で並べたときに、ひとりでに揃うのだ。
ある朝、廊下で殿下とすれ違った。
アルヴェルト殿下は、以前ほど人に囲まれていない。
婚約破棄の宣言のあと、決裁の遅れや会計の不備が次々と表に出て、その対応に追われていると聞く。
あの夜、広間の隅で割れた皿も、見つからなかった書類も、今になって意味を持ち始めている。
殿下はわたくしを見て、何か言いかけ、結局何も言わずに行ってしまった。
昔なら、追いかけていた。
すがって、安心させてほしいと願っていた。
けれど、今はしない。
わたくしはもう、誰かの言葉でわたくしの輪郭を決めてもらわなくていい。
手帳を閉じる。
そこに書いたことは、誰にも見せていない。証拠にもならない。裁きにも届かない。
ただ、わたくしの中にある。
誰にも書き換えられない、たった一つの記録として。
窓の外で、春が終わろうとしていた。
あの夜と同じ燭台の光は、もう少しだけ、違って見える。
わたくしは小さく息を吐いて、手帳をしまった。
まだ、答えは出ていない。
けれど、考えることは、もう始まっている。
――その夜。
手帳の余白に、わたくしが書いていない一行が、浮かんでいた。
わたくしの字ではない。
――誰かが、まだ書いている。
ミリアの視点でした。
本編で「記録を書き換える」のはリディアでしたが、この物語の“記録”は、たぶん誰の手の中にもひとつあります。
そして、この手帳には続きがあります。
本作はここから第二部『空白に住む人』に入ります。ジャンルを異世界恋愛へ移しますが、文体も温度も変えません。
次話より、リディアの側の物語が再び始まります。引き続き応援していただけると嬉しいです。




