第10話 逃げた理由
――盤面が、一段上がった。
その実感だけが、はっきりと残っていた。
王宮の空気は、すでに“平常”ではない。
誰もがそれを理解しながら、理解していないふりをしている。
だから。
壊れる。
「……では、分けます」
私は静かに言った。
全員の視線が集まる。
「追跡班と、残留班」
短く、明確に。
「追うのですか?」
文官の一人が問う。
先ほどの“逃げるな”という判断からの転換に、戸惑いが見える。
「いいえ」
私は首を振る。
「“追いません”」
その言葉に、場が揺れる。
「では、なぜ――」
「確認です」
遮る。
「逃げた理由を」
沈黙。
理解が、ゆっくりと降りてくる。
「……理由」
「ええ」
私は頷く。
「逃げる必要があったのか。それとも、“逃げさせられた”のか」
その違いは、大きい。
自発か。
誘導か。
どちらかで、構造は変わる。
「ルーク」
「はい」
「屋内の導線を確認してください。逃走経路と、遮断箇所」
「承知しました」
彼はすぐに動く。
迷いがない。
「残りの方は、ここで待機」
視線を巡らせる。
「何も触らないでください」
念押しする。
今は、“変化させないこと”が重要だ。
私は一歩、後ろへ下がる。
そして、黒い礼服の男を見る。
「ご同行いただけますか」
問い。
だが、半分は確認だ。
彼はわずかに笑った。
「ええ、もちろん」
迷いはない。
興味が勝っている。
それでいい。
――
西廊下は、静かだった。
さきほどまでの混乱が嘘のように、誰もいない。
足音だけが響く。
私と、男。
少し遅れて、ルークが合流する。
「経路は確定しました」
簡潔な報告。
「西廊下から保管庫側へ。その後、外部搬入口へ向かっています」
「途中で止まった形跡は」
「一度だけ」
ルークが視線を向ける。
壁際の、小さな扉。
通常は使われない、資料室の入口。
私は扉に手をかける。
鍵は、かかっていない。
開ける。
中は暗い。
だが。
空気が違う。
誰かが、いた。
ついさっきまで。
私はゆっくりと中へ入る。
床に、何かが落ちている。
紙。
拾う。
記録の断片。
そして。
破れている。
「……持ち出していない」
呟く。
男が後ろから覗き込む。
「どういう意味です?」
「必要な部分だけ、切り取っています」
完全な記録ではない。
一部だけ。
「つまり」
私は紙を見つめる。
「“全部”はいらなかった」
沈黙。
そして。
理解が走る。
「……特定の情報だけを」
「ええ」
私は頷く。
「目的がある」
無差別ではない。
選別されている。
「何を、ですか」
男が問う。
私は答えない。
代わりに、紙を裏返す。
そこに、わずかな書き込み。
数字。
そして、印。
見覚えがある。
「……これは」
ルークが低く言う。
「特定取引の識別印です」
「ええ」
私はそれをなぞる。
確定する。
「資金の流れ」
これが目的だ。
「記録の改竄ではない」
私は立ち上がる。
「資金の追跡を“消す”ための操作」
場の空気が変わる。
これは。
単なる内部混乱ではない。
「……外部ですね」
男が静かに言う。
私も同意する。
「ええ」
王宮の中だけでは完結しない。
外と繋がっている。
つまり。
「内通です」
断定する。
もう、曖昧にする必要はない。
そのとき。
廊下の奥で、足音が響いた。
走っている。
荒い。
そして。
「い、いました!」
若い兵士が駆け込んでくる。
「外部搬入口付近で、対象を発見しました!」
全員の視線が集まる。
「……生存は」
私は短く問う。
兵士が、わずかに言葉を詰まらせる。
「……それが」
一瞬の間。
そして。
「倒れております。意識はありません」
沈黙。
私は目を細める。
「傷は」
「……外傷は、ありません」
それで、十分だった。
理解する。
「……口封じ」
男が低く呟く。
私は頷く。
「ええ」
間に合わなかった。
いや。
間に合わせなかった。
最初から。
私はゆっくりと息を吐く。
そして。
手帳を開く。
新しい行に、書く。
【逃走者 無力化】
その下に、続ける。
【外部関与 確定】
インクが、静かに染みる。
その文字を見て。
はっきりと分かる。
これはもう。
個人の問題ではない。
王宮の外。
そして。
その先。
私は手帳を閉じる。
視線を上げる。
「……次です」
短く言う。
誰も、反論しない。
できない。
全員が理解している。
ここで終わりではない。
これは。
入口に過ぎない。
そして。
その入口の向こうには――
まだ、誰かがいる。
一つ、終わりました。
ですが、終わったのは“口”だけです。
本当に隠したかったものは、まだ残っています。
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次は、“誰がその先にいるのか”に踏み込みます。




