第8話 最初の回避
結果から言う。死者はゼロだ。
高橋の右腕に爪が入ったが、深くはない。黒木の膝に俺の石突きの跡がある。黒木については俺のせいだ。ただし俺がやらなければ黒木は今頃爪傷の側に入っていたので、打撲と爪傷のどちらを好むかは黒木の価値観に委ねる。委ねるという行為を黒木に伝えていないので現時点では一方的な申告だが。委ねたことを委ねられた側が知らない場合に委ねは成立するのかという問いが来た。今は無視した。
犬型は三匹だった。前衛二人と氷室が制圧した。ひばりが後方の一匹を引き付けた。俺は後衛の六番手で傘を構えたまま、追加の一手が来なかったので傘を畳んだ。武器として構えた後に収納するのはそれなりに気持ちが要る。地味だ。白城悠真。傘は鋭かったかどうか自分でも分からないので傘に聞いた。
聞いた直後に聞いていることに気づいた。ダンジョンの石の通路の中で折りたたみ傘に向かって問いを投げた人間がいる。俺だ。傘は返事をしなかった。返事をしない方が正常だ。俺と傘のどちらが正常かという比較が来た。今は考えない。
通路の石の床に、小さな血の跡がある。高橋の分だ。高橋は自分の腕を見ながら、痛みと深さと継続可能かどうかを同時に確認している。三つを同時に確認する顔はああいう顔になる。情報量が多い顔だ。俺も似たような顔を今しているかもしれない。確認する手段がない。
黒木が振り返った。
大柄な前衛の男で、俺が石突きで踏み込みを止めた側だ。整理が終わった人間が振り返る時の目は、疑問というより会計だ。何が起きたかを清算しようとしている。黒木の目は今、会計の目をしていた。俺が今日ここで清算されるとは思っていなかった。思っていなかったことは思っていなかったというだけで、起きないとは別の話だ。
「なんで分かった」
声は低かった。低いが、低い声に聞こえなかった。
向き先が俺ひとりなのは明確だ。
答えを考えた。
「音を聞いた」は正確ではない、音が来る前から手が動いていた。「気配があった」は本当のことだが説明として弱い。「列が詰まっていたから」は半分本当だが残り半分が言語化できていない。言語化できていない部分を「言語化できていません」と説明することは可能だが、それは説明責任を果たしているのか逃げているのかが俺にも判定できない。判定できない答えを出すことへの答えが出ていない。三層になった。
「なんとなく」
言った。
言った瞬間に言ったことに気づいた。言ったことに気づいた瞬間に取り消せないことに気づいた。取り消せないことに気づいた瞬間にフォローが必要なことに気づいた。気づきが三段来てフォローがまだ来ていない。生産性が低い。
「なんとなく、で俺の足を止めたのか」
納得しようとする気がない顔だ。そうだろうと思う。俺も今俺の答えに納得していない。答えた本人が納得していない答えで相手が納得するわけがない。この構造は言う前に気づくべきだった。言う前に気づけていたら「なんとなく」は出なかった。出なかったものが出た。出た。
「止まれなかったら俺もそっちに入ってた。なんとなくで動くな」
正しいことを言っている。俺が黒木なら同じことを言う。
言い訳を考えた。「なんとなくというのは便宜上の表現で、実際には複数の要素を統合的に——」長い。長い上に今作った感じがする。今作った感じがするのは今作ったからだ。「ダンジョンの空気が——」空気のせいにし始めた。まずい。「傘が——」傘のせいにし始めた。もっとまずい。傘は何もしていない。傘に謝りたい。謝る順番が来る前に黒木がいる。
黙った。
黙ることが最善かどうかは分からないが黙ること以外の選択肢が全部まずかった。消去法で残った選択肢が最善とは限らない。限らないが今は限られている。限られた中でやっている。やっているということだけは主張したい。主張する相手が今俺を見ている。タイミングが悪い。
「間宮」
ひばりが別の名前を呼んだ。
間宮という受験者が高橋の腕を確認している。俺は間宮の名前を把握していなかったが、今名前が来たので登録した。本日の名前登録数が増えた。良いことのはずだが、容量がどこから削れているのかが分からない。分からないまま増やしている。こういう運用は後で問題が出る。後で問題が出ることは今の俺には止められない。記録だけした。
「深くない。動ける」
高橋本人が答えた。声がわずかに上ずっている。痛みで上ずる声と驚きで上ずる声は音が違う。今のは驚きの方だ。生きていることへの驚きか、想定より浅かったことへの驚きか、浅かったことに驚いている自分への驚きか。三層ある。高橋も三層になっている。本日この通路、三層率が高い。
間宮が処置をして、立ち上がった。
「たまたまだろ」
独り言の音量だったが、ひばりの立ち位置にも届く声量だった。独り言の音量設定が独り言ではなかった。
たまたまではなかった。俺は知っている。知っていることが今ここで完全に無力だ。知識の無力というものがある。あることは知っていた。まさか今日のこれがそれとは思っていなかった。思っていなかったことへの感想を探したが、何も来なかった。胃だけが動いた。正直な胃め。
ひばりが俺の方を向いた。
値踏みではなく確認の視線だ。何を確認したかが文字ではなく重さで伝わってくる。今回は「あなたは説明できますか」を確認したと俺は受け取った。
受け取った瞬間に何か返そうとした。「説明できます」は嘘になる。「説明できません」は開示になる。「今は」を前に付けると逃げに見える。「どうでしょう」は一番怪しい。「あなたは?」は話を振っている。五択全部まずかった。まずいと気づいた瞬間に目が合ったままだった。目が合ったまま全部まずかった。
ひばりは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
結果だけ見ると二人とも黙っているが、経緯の重さが全然違う。ひばりが黙ったのと俺が黙ったのは別の黙り方だ。俺の側の黙りは五択を全滅させた後の残骸だ。残骸を黙りと呼んでいる。
後方で端末の操作音が鳴った。
一回だけ鳴って止まった。
俺は振り返らなかった。振り返ることの意味が複数あって、どの意味に取られるかが計算できなかった。振り返らないことの意味も複数ある。複数対複数で、どちらを取っても解釈の余地が残る。余地が残る選択しかない時は、余地が少ない方を取る。振り返らない方が余地が少ないかどうかは今判断した結果なので正しいかどうかは後で分かる。
冬月だと思った。確認しなかった。
班は進むことになった。
高橋の傷は軽い。班の構成に欠員はない。迷宮生物の制圧は完了している。試験の続行条件は満たされている。満たされているので進む。合理的だ。
合理的だが、班の歩き方が一時間前と変わっていた。
位置は同じだ。俺は依然として後衛の六番手にいる。変わっていないのに、前の受験者が俺との間隔をわずかに広げている。意識して取った間隔ではないだろう。意識していない間隔の方が、時として本音に近い。広がった間隔に名前を付けると形が固まるので付けない。付けたくない、とは少し違う。付けない、が正確だ。この二つは違う。俺の中では違う。俺の中でだけ違う。
三枝が斜め後ろに来た。
何も言わないまま同じ速度で歩いた。何も言わないために来た人間だと分かった。それが三枝の、この場面での仕事だったのかもしれない。
感謝する気持ちがある。ある気持ちを持ったまま黙った。三枝も黙っている。通路も黙っている。三者全員が黙っている中で一人だけ感謝を抱えて歩いている。感謝の行き場がない。行き場がない感謝は体のどこに収まるのかという疑問が来た。胃に来るかもしれない。さっきから胃が忙しい。
分岐点の明かりが遠くに見えた。
あそこに着けば止まる。止まれば記録と傷の確認が入る。その記録に今日のことがどう書かれるかを、俺は見られない。後方の端末に入ったことは変わらない。入ったまま次へ向かう。
俺のせいで班の空気が変わった。
班の空気が変わったのは、全員が生きているからだ。
この二つを同時に抱えて歩く方法を、今発明している最中だ。発明に成功するかどうかは分岐点に着く前に分かるかもしれないし着いても分からないかもしれない。どちらでも足は動いている。足は発明の結果を待っていない。正しい判断だ。足だけが正しい。




