第5話 偽名潜入
白城悠真、と声に出してみた。
悪くない。舌の上での転がりがスムーズだ。「くろせみなと」は「く」で始まって口が狭くなるが、「しらきゆうま」は開いた音で始まる。明るい名前だ。俺に合っている。俺の名前は今日から白城悠真だ。決めた。1分かからなかった。重大な決断ほど速い。
問題は残り2つだ。
一、白城悠真の情報の穴を埋めること。
二、黒瀬湊の情報を全部家に置いてくること。
この2つが今日の仕事だ。シンプルで好きだ。シンプルな仕事は達成感が明確だ。
白城悠真の穴を埋める作業から始めた。
照合カードで入場できる。これは確定している。問題は入ってからだ。試験中に「白城さん、さっきの動き良かったですね」と話しかけられたとき、半秒でも反応が遅れたら終わる。「白城さん」を「自分のことだ」と受け取る筋肉が俺にはまだない。筋トレが必要だ。名前の筋トレをする。白城悠真。白城悠真。白城悠真。3回で馴染んできた。俺の順応性、高い。
次に白城悠真のスペックを整理した。
見えていたのは名前と番号だけだ。年齢も、専門技能も、外見の記載も見ていない。つまり俺は今、「白城悠真」という名前の人物が存在したこと以外、何も知らない。白城悠真のことを何も知らないまま白城悠真になろうとしている。これは無謀か。無謀だ。でも、照合がカード読み取り式である以上、試験官は「白城悠真の顔」を照合しない。「白城悠真のカード」を照合する。カードは俺の手元にある。 つまり俺が白城悠真だ。論理的に。
ただし穴が一つある。
S級試験は参加前に技能区分の登録がある。戦闘型、補助型、偵察型、など。白城悠真がどの区分で登録されていたか、俺には分からない。区分が分からないまま入ると、試験冒頭の「各自の区分を確認してください」で固まる可能性がある。固まると終わる。
考えた。3秒で答えが出た。
「補助型」にしておく。
補助型は万能の言い訳区分だ。前に出ない理由になる。指示より観察を優先できる。荷物を持つ、先導する、判断を補佐する、全部が補助型の仕事に収まる。俺のやりたいことと100%一致している。白城悠真、賢い。最初から補助型で登録していてほしい。していなかった場合の言い訳も考えた。「直前に変更申請しました」でいい。書類処理が追いついていない可能性はある。あるに決まっている、昨日あんな事故があったんだから。事故が俺に言い訳を供給してくれている。供給に感謝する。
黒瀬湊の情報を全部家に置く作業は5分で終わった。
免許証、学生証の残り、パーティ登録番号の控え、名前が書いてある全てのもの。鞄から出して机の上に並べた。並べてみると、けっこうある。俺は「黒瀬湊」として相当な量の書類を持ち歩いていたらしい。それが今日から全部机の上に残る。机の上の黒瀬湊が俺を見ている。
「ちょっと行ってくる」と机に向かって言った。
誰もいない部屋で一人で言った。
前向きか。前向きか。前向きだ。
試験会場へ向かう道は、思ったより普通だった。
もっと足が重くなると思っていた。3日前の俺が「明後日、死んだ人の名前で国家試験に潜入することになるよ」と聞いたら腰を抜かしていたはずだが、今の俺の足は普通に動いている。これは麻痺か。麻痺かもしれない。でも動いているので問題ない。問題ないとは言っていない。問題があっても動いているという話だ。
会場の外周に入った。
受験者の列が見えた。整然としている。資料と照合端末を持った係員が等間隔に立っている。密度が高い。監視の目が細かい。俺の「念のため」リストに載っていない要素を探す方が難しい。
列の中の人間を観察した。背筋が違う。装備の質が違う。顔に「選ばれた人間の顔」が乗っている。選ばれた人間の顔というのは、選ばれたことを自分で知っている顔のことだ。知っているから堂々としている。俺には知識がない代わりに麻痺がある。麻痺と堂々は見た目が似ている。いける。
列の最後尾についた。
前の人間との間隔を自然に保った。自然にしようとしたので少し不自然になった。自然にしようとすること自体が不自然だという問題は解決不可能なので考えるのをやめた。
列が動いた。
ゲートまで、あと20人分だった。
ここで初めて、昨日見た担架のことを思い出した。
担架が来るのが早かった。待機していたみたいだった。あの速さは、「事故が起きる可能性を知っていた」か「すでに起きていた」のどちらかだ。どちらにしても、S級試験の中で何かが設計から外れていた。俺はそれを見ていた。見てしまった。見てしまった以上、「適性がないので帰ります」で片をつけて終われない。
これが俺の正直な動機だ。
怒りでも意地でもなく、「見てしまったものを見なかったことにする方が、俺には難しい」という話だ。片づけが得意なのかもしれない。整理と片づけが、俺の最終的な動機になっている。しみったれた英雄譚より整理整頓の話の方が俺らしい。白城悠真らしくもある気がしてきた。俺たちは意外と同じ人間だったのかもしれない。会ったことないけど。
列が、また動いた。
あと12人。
係員が照合端末を構えた。カードを差し出す人間、端末が光る、通過する、の繰り返しが目の前で続いている。シンプルな工程だ。シンプルな工程は突破しやすい。
あと9人。
腹が鳴った。
このタイミングで鳴るな。
あと6人。
鳴り終わった。胃は正直だ。腹が減っていることを今の今まで忘れていた。俺の集中力が高かったのか胃の主張が弱かったのか判断できないが、ゲートの前で腹が鳴った事実だけは残った。白城悠真は腹が減っているらしい。あと6人のところで初めて腹が減った人間として記録される。国家試験史上、類を見ない。
あと3人。
内ポケットのカードを指先で確かめた。薄い。軽い。昨日と変わらない。
あと1人。
係員が端末を俺に向けた。
「カードをどうぞ」
白城悠真として、俺は前に進んだ。




