第4話 死んだ受験者のID
夜中に3回、「やめておけ」と思った。
1回目は歯を磨いているとき。2回目は布団に入ったとき。3回目は結局眠れなくて天井を見ていたときだ。「やめておけ」という判断を1日に3回も出せる俺の頭は誠実だ。誠実なのに3回とも却下されているのは、俺の頭の中に「やめておけを却下する係」がいるためだ。係の権限が強すぎる。組織改革が必要だが、夜中にできることではないので保留にした。
朝になった。却下係は一晩眠って元気になっていた。
死亡した受験者の情報を整理した。持っているのは3点だ。
名前。受験番号。「本人確認書類・照合済み」のスタンプ。
1.2秒で読み取った情報がこれだけある。俺の記憶力、意外と高い。不適合判定を受けた日に記憶力の高さを発見するのは、タイミングとして若干おかしい。若干というか大幅におかしい。でも今日は使う。
名前は白城悠真。
受験番号は4桁と4桁のハイフン繋ぎで、前半の4桁は昨日の日付だった。当日登録型の番号だ。当日まで番号が確定しない仕組みということは、逆に言えば当日まで名簿が流動的ということだ。流動的な名簿には、処理待ちの期間がある。処理待ちの期間には、隙がある。俺の頭の中の却下係がこれを既に把握していたことが、3回の却下によって証明されている。
問題を3つに整理した。整理するのは得意だ。
一、名簿から白城悠真の死亡が正式に削除されるまでの時間。
二、照合済みのIDに紐づいた身体情報の照合方式。
三、試験当日の入場確認の具体的な手順。
この3つが揃えば、実行可能かどうかの判断ができる。まだ実行を決めていない。判断材料を集めるだけだ。判断材料を集めることは犯罪ではない。今のところは。
午前中に施設の外周を歩いた。
S級試験エリアは昨日より人の出入りが少なかった。金属パーティションは撤去されていた。撤去が早い。昨日のあの深刻顔3人組は仕事が速い。尊敬するが今は邪魔だ。なぜなら撤去が早いということは後処理も早く進んでいる可能性があり、白城悠真の名前が名簿から消えるまでの時間が俺の想定より短い可能性がある。時間の話は常に重要だ。
掲示板を見た。試験棟の外壁、搬入口の反対側、案内看板の隣に、S級試験の進行スケジュールが貼られていた。
「受験者確認・照合期間:本日17時まで」という一行があった。 確認した時刻は午前10時22分だった。 6時間38分ある。
「6時間38分」という数字が視界に入った瞬間、胃がまた動いた。「倫理的な問題として受け取った」の胃じゃなく、「ここから逆算が始まる」の胃だった。俺の胃は正直だ。俺の胃は俺の意思より先に「これは動く案件だ」と判断していた。胃に先を越された。俺の身体の各部位、勝手に動きすぎる。
照合の方式を調べた。方法は施設横の案内端末だ。一般見学者向けの説明パネルが設置されていて、S級試験の概要が書いてあった。国家試験なので透明性のために公開されている。公開されている情報をただ読んでいるだけだ。現時点では何も問題ない。本当に。
書いてあった。
「受験者照合は、登録時の生体情報ではなく、発行された照合カードによる機器読み取りで行います」。
つまり顔ではない。指紋でもない。カードだ。
「照合カードは登録時に一名一枚発行、原則として本人管理とします」。
カードが一枚ある。
あの台車のコンテナの中に、白城悠真の書類が入っていた。照合カードは書類と一緒に管理される可能性が高い。昨日「書いてある方に送ればいい」と言っていた係員が、どこかにコンテナを移した。移した先がどこかが分かれば、カードの所在地が分かる。
俺は施設の外周を、もう一周した。 これは散歩だ。散歩は不法行為ではない。
搬入口の裏に、昨日と違う台車が止まっていた。 台車の上に、コンテナが2個積まれていた。 コンテナの1個に、昨日見たのと同じ形の封筒が入っていた。
封筒の上に、照合カードらしき薄いカードが乗っていた。
台車に誰もついていなかった。
「やめておけ」が4回目を出した。
4回目は今日一番まともな「やめておけ」だった。論拠もあった。「これは国家試験への不正侵入に使う可能性のある物品の窃取である」。法律的に正しい。正しさは認める。ただ。
ただ、俺は昨日死亡した受験者の情報が「念のため金属パーティション」の速さで封じられていくのを見た。あの金属パーティションの中で何かが起きていた。転倒事故にしては、担架の準備が早すぎた。S級試験の内部で何かが壊れていて、俺にはそれが見えていて、俺はその現場にもう入れない判定を食らっていた。
「捨てられたまま終わる」という文字列が頭の中に出てきた。
やめておけ係と却下係が4回目の交渉を行った。
交渉の結果は、3秒で出た。
俺は台車のコンテナから照合カードを取った。
どう見ても自然な動作ではなかった。
言い訳を考える時間を自分に与えなかった。考えると止まるので、考える前に手が動いていた。俺の手も勝手に動く。俺の身体の各部位の独立性が高すぎる。チームワークの問題だが、今日に限っては助かった。
カードはジャンパーの内ポケットに入れた。
薄い。軽い。S級試験への入場権が、この薄さとこの軽さに収まっている。不釣り合いだ。人生の節目に関わるものは重くあれという持論を昨日も述べたが、今日も同じことを思う。軽すぎる。ただ、軽いから今俺が持っている。重かったら持てていなかった。軽さに感謝する場面が人生にあるとは思っていなかった。
搬入口の裏から離れた。
20歩歩いたところで、背中に視線の重さを感じた。
振り返った。
搬入口の上部、壁と屋根の境目に、黒い半球があった。
監視カメラだ。
レンズの向きが、こちらを向いていた。
映っている。
この映っているという状態には2種類ある。「ただ画角に入っている」と「意図して捉えられている」だ。カメラは表情を持たないので、どちらか判断できない。判断できない状態で俺にできることは一つしかない。普通の顔で歩き続けることだ。
俺は普通の顔で歩き続けた。内ポケットの薄さと軽さを意識しないように、意識しながら。
「やめておけ」は5回目が来なかった。 却下係の仕事が、今日は終わったらしい。




