第19話 評価外
新しいブロックは、前よりも静かだった。
静かというのは音が少ない、という意味じゃない。何かがいる気配の密度が薄い、という意味だ。前のブロックは通路に入った瞬間から何かが詰まっている感触があったが、ここはそれが薄い。薄い、が、ゼロじゃない。ゼロじゃないことを、今の俺は知っている。知っていると知らないでは、対応できる速度が変わる。その違いを証明する機会が、たぶんもうすぐ来る。
来た。
通路の右側、壁の向こうから音が来る前に、音が来る予感が先にあった。俺は歩きながら黒木の肩に軽く触れた。触れながら右を向いた。黒木が一瞬だけ俺を見た。一拍、あった。その一拍が今日より前だったら止まっていたかもしれない。だが黒木は動いた。半歩左に寄って、右への視野を開ける。
ひばりが気づいて振り返る。俺が目で右を指した。
壁の継ぎ目から一体が出た。出た瞬間にひばりが踏み込んでいて、黒木が角度を塞いでいた。
一体で終わった。
全員が止まらずに動いた。声は一言も出なかった。十秒かかっていない。
白城悠真として今日最も完成度の高い連携が、たった今完了した。俺の貢献を言語化すると「黒木の肩に触れた」だ。採点官がいたとして記録票に何と書くかを想像した。「肩に触れた(効果あり)」になるのか、「肩に触れた(意図不明)」になるのかで評価が変わる。どちらになるかは採点官次第で、採点官は今ここにいない。今ここにいない人間の判断に依存している俺の採点計画には問題がある。
三枝が後ろを確認した。間宮が前を見た。俺は右の壁を見た。もう何もいない。
「次、行けますか」とひばりが小声で言った。
「行けます」と黒木が答えた。
腕の傷は、動く分には問題ないらしい。黒木誠一という人間の「動く」は、かなり広い定義で使われている。定義の広さを今日一日かけて学習した。
しばらく進んで、探索証標の取得ポイントに着いた。
壁に埋め込まれた端末で証標を記録する仕組みで、班単位でデータが送られる。俺たちの記録が入った瞬間、端末が一度だけ点滅した。
点滅の意味が分からない。エラーか、確認か、あるいは何かの基準を超えたサインか。端末に聞いても答えは返ってこない。今日「聞いても答えが返ってこない相手」が何回目かを数えようとして、ダンジョン、冬月司、と来てやめた。数えると俺の問いかけの宛先選択に根本的な問題があることが浮かぶ。問題が浮かんでも今すぐ解決できないので、浮かばせない方が健全だ。健全な判断をしている。えらい。
「記録、入りましたね」と三枝が言った。
「はい」と俺は返した。
三枝が端末を一度見て、前を向いた。何も言わなかった。言わないことで何かを置いていく人間だということは、前のブロックから分かっている。置いていったものを俺が正確に受け取れているかどうかは、毎回判定保留だ。
次の折れ角の先で、別の班と鉢合わせた。
第一班だった。
氷室玲が先頭にいた。
お互いの班が確認し合う、短い停止が起きた。第一班の状態を俺は視野に入れた。負傷なし。消耗の顔色もない。移動の無駄がない。氷室の判断で動いている班だ、というのは隊列の形を見れば分かる。前衛と後衛の間隔、各自の視線の向き、全部が整っている。整っている班を見るのは久しぶりだ。久しぶりというか、今日初めてだ。今日初めて、という表現が正しいかどうかは、この班と俺たちを比べた時に少し考えた方がいい気がする。
ひばりと氷室が短く目配せした。先に進むのはこちら、という判断になったらしく、俺たちが右側を通った。
すれ違いざまに、氷室が俺を見た。
一秒。視線が来て、一秒あって、外れた。
一秒の間に、俺は何かを返せたかというと、返せなかった。返す動詞が存在しなかった。「見た」に対して「見た」で返すと視線の交換になる。視線を交換する関係に今日なった覚えはない。「目をそらす」は挙動不審だ。「頷く」は何に頷くのかが不明だ。「笑う」は論外だ。選択肢を並べている間に一秒が終わった。氷室玲に一秒見られた白城悠真の対応として、「硬直」と記録しておく。採点官がいれば減点案件だ。いなくてよかった。
氷室玲という人間を俺は数回しか見ていない。合流区画で冬月司を見ていた視線を、俺は知っている。あの視線は、何かを測っていた。冬月司を測っていたのか、冬月司が見ているものを測っていたのかは、その時点では分からなかった。
今の一秒も、測っていた。
冬月司が測るのは記録との齟齬だ。データが合わない、という角度から入る。氷室が測るのは別のものだ、という感触がある。感触が根拠になるかというとならないが、感触がゼロではないことは今日何度か確認している。
氷室は、俺が何をしているかを、見ていた。
何をしているか、という見方と、この人間は何者か、という見方は違う。冬月司は後者で、氷室は前者だと思う。思う、だけで確認できない。でもその違いが今の俺に何を意味するかを、歩きながら考えた。
結論が出る前に、通路が曲がった。
「白城」とひばりが言った。
「はい」
「さっきの、最初に気づいた時」
さっき、というのは壁の継ぎ目から出た一体のことだと分かった。
「黒木さんに触れたのはなぜ」
なぜ、という問いが今日何回来たかを数えようとして、途中でやめた。答えられない問いを数えても、答えが一個も増えないことに気づいたからだ。数字だけが増えて答えが増えない、という現象を人生でたまに経験する。今日はその一日で、しかも今日はまだ終わっていない。
「右に寄ると邪魔になると思ったので」
「邪魔」
「はい」
ひばりが少し沈黙した。沈黙の長さが前回より少し伸びている。伸びているということは、保留している量が増えている、ということだ。保留の量が増えている人間の隣を歩いている。重量感がある。
「分かった」とひばりが言った。
分かった、は分かったじゃないと俺は知っている。分かった、は保留の別名で、ひばりはまだ判定を出していない。判定を出していないまま「分かった」と言える人間は、判断の引き出しが多い。多い人間がチームの先頭にいるのは、設計として正しい。
設計したのはひばり自身だ。俺じゃない。今日何回目かの無罪だ。
ブロックの出口が見えてきた時、間宮が後ろから言った。
「白城さん」
「はい」
「さっきの証標の端末、点滅しましたよね」
「しましたね」
「あれ、通常は点滅しません」
間宮が事実として置いた。感情なしで、事実だけを置いた。
俺は前を向いたまま返した。
「そうですか」
「そうです」
それ以上、間宮は何も言わなかった。事実を渡すだけ渡して、解釈は俺に預けた形だ。預けられた解釈の重さが、出口に向かう残りの数歩にある。
端末が点滅した。記録の中に、白城悠真では説明できない何かが入った。
判定できない値が入った時に、機械は点滅する。
人間が点滅するかどうかは、まだ分からない。




