第15話 前か後ろか
次のブロックは、通路が細い。
前のブロックより肩幅ひとつ分は狭く、縦一列以外の選択肢が消える種類の細さだ。縦一列で進むということは前後への視線が分断されるということで、俺は前を見るか後ろを見るかを常に選ばなければならない立場になった。どちらも同時には見えない。今日白城悠真として習得した制約の一つ目だ。制約リストが着実に伸びている。好ましくない。
合流区画を出る前に、ひばりが係員に何か話して、間宮と黒木がこちらの班に加わった。応急処置担当を後方に一人、前衛を一人補強する、という判断だと理解している。5人編成になった。説明が短かったのは助かった。
ひばりが先頭で、三枝が俺のすぐ後ろ、間宮が最後尾の手前にいる。黒木は先頭のひばりの後ろで前衛を担う形だ。縦一列で、この通路に合っている。通路がS字に折れていて、どちらの先も見えない。見えないまま進む仕様になっている。
歩き始めて数分で、最初の変化が来た。
S字の曲がり角の先で、何かが出る準備をしているという感知が先にある。見えていない。音もない。でも来る。来る前から分かる——という現象を俺は語彙を持っていないので毎回うまく説明できないのだが、今は説明している場合じゃなかった。
前から来る、と思った瞬間、後ろも来た。
前と後ろ、同時だ。
頭の中の何かが一拍だけ止まって、すぐ計算を再開して、答えを出した。二本同時は無理だ、という答えだ。白城悠真として試験に潜入して以来の最大の問題が、今ここで更新された。更新速度が速すぎる。評価できない。
「止まってください」
声が出た。落ち着いた声だった。本当にまずい時ほど変に落ち着くのは人間の仕様らしく、俺もその仕様に従って動いているらしい。従いたくて従っているわけじゃないが、仕様に逆らう権限が俺にあるかどうかは不明だ。
ひばりが振り返る。三枝が振り返る。間宮が前を向く。
「前の曲がり角に一体。後ろにたぶん二体」
言い切ったとき、後ろから音が来た。足音のリズムが小型犬型のそれと一致している——という確信が言語になる前に、間宮が刃を引く金属音がした。
「来ます」と間宮が言った。
知っている。
判断を組み立てる時間は一秒ない。
前の一体は曲がり角から出てくるまであと数秒、角の向こうで起こりが固まりつつある。ひばりが対処できる。できるが、正面から受けると入射角が悪い。角の手前で起こりを一拍だけ崩せれば、ひばりの踏み込みに余裕が生まれる。俺がそれをできる。
後ろは二体で、三枝と間宮が当たることになる。間宮は手が速い。三枝は判断が早い。たぶん対処できる。「たぶん」という精度の答えを根拠に人を配置する、という行為を、今やっている。
三枝が後ろへ一歩動いた。先に判断した。言う前に動いた。三枝透という人間の処理速度は、俺の読みより半テンポ速いことが分かった。頼もしいという感情が、感情じゃなく確認事項として処理された。
俺は前へ動いた。ひばりの横に滑り込みながら曲がり角に近づき、傘を引く。角から出てくる手前のタイミングで、壁に石突を当てた。
乾いた音が一つ。
角の向こうで、何かの動きが一拍だけ崩れた。助走の形が壊れた、と言えばいい。完成する前の起こりが音で形を失い、その隙にひばりが踏み込んだ。
後ろの音が止まるまで、体感で十数秒かかった。
振り返ったとき、間宮の腕から血が出ていた。浅い。致命傷じゃない。でも出ている。
間宮が自分の腕を見て、「浅い」と言った。自分を三秒で診断して結論まで出せる人間を、俺は素直に尊敬している。俺は今でも自分の心臓の挙動を正確に把握できていない。平常時との比較データを持っていないので、これが動揺なのか興奮なのか健康な心拍数なのかが判定不能だ。心臓よ、たまには報告してくれ。
「白城、前の一体、どこで分かった」
ひばりが聞いてきた。
どこで分かったかを俺は言語化できない。説明できる語彙を持っていない。「見えた」は正確じゃない。「聞こえた」も違う。「分かった」としか言えないのに、「分かった」では答えにならない。
「雰囲気、で」
「雰囲気」
「はい」
ひばりが俺を一秒見て、何も言わずに前を向いた。何かを保留したまま閉じる目だ。疑われるよりはマシだが、信じてもらうよりは落ち着かない。難しい位置に置かれている——難しい位置に自分を置いたのは俺なので、結局俺が悪い。
三枝が間宮の腕に応急処置を始めた。手際がいい。
俺はその間、さっきの選択を頭の中で分解していた。
前に動いたから後ろを三枝と間宮に任せた。間宮の腕に傷が出た。俺が後ろに残っていれば、この傷は出なかったかもしれない。前の一体をひばり一人に任せていれば。でも角の起こりを誰かが潰さなければ、ひばりの対処に一瞬だけ余計な負荷がかかった可能性がある。どちらが正解だったかを確認する手段はない。起きなかった側は検証できない。
前を取ったから後ろに傷が出た、という見方と、後ろを取っていたら前が崩れていた可能性がある、という見方が同時に成立していて、どちらも否定できない。間宮の腕の傷だけが確定事項として残る。
「進めます」と間宮が言った。
「無理はしなくて」とひばりが言いかけた。
「浅いと言いました」と間宮が切った。
ひばりが止まった。止まって間宮を一度見て、頷いた。
俺は傘を持ち直した。
次の曲がり角の先がまだ見えない。見えないまま前後を同時に測りながら進む、という仕様での運用が今日から始まった。二本同時には処理しきれないという制約も今日確定した。制約を確定させながら前に進んでいる。これを前進と呼んでいいかは微妙だが、後退でもないので及第点で受け取ることにする。
及第点を自分に出した。白城悠真として初めての自己採点だ。採点基準が甘い気もするが、採点者が俺なので不服申し立て先がない。




