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第十三話「神が定めし運命なれど」①

 八年前のことである。

 時計の秒針が刻む規則正しい律動が、意識が沼の底から這い上がるとともに鮮明になっていく。その感覚が引き連れる絶望にも近い悲しみに枕を濡らしながら、漆黒の長髪に死人のごとき白い肌をしたその少女は、薄闇の和室でひっそりと目を開けた。

 まず視界に飛び込んできたのは、闇にぽつりと浮かぶ橙色の点だった。少女はそれを夜空の月のようだと思いながら、その点から視線だけをゆっくりと時計回りに動かした。

 壁際に、ひと際濃い箱状の影が鎮座している。高さが胸下あたりまである和箪笥のようだ。そこからさらに視線を横に流せば、闇のなかでも薄っすら青白い襖の存在が見て取れた。しかし少女には、それが和箪笥だということも、青白い壁が襖だということも、いまはわからなかった。

(ここ、は)

 少女は涙ぐむ紅い瞳を正面に戻した。そして、再び視界に収まった橙色の常夜灯を見つめながら、この少しカビ臭い布団に寝かされることになった経緯を思い出そうと、ぼうっと思考を巡らせた。

 けれど、

(なん、だっけ……)

 自分のなかから返るべき答えはひとつもない。ここがどこか、なぜこうなったのかという疑問を持つ以前に、彼女には思い出せるものがひとつもありはしなかった。自分の存在が、いまこの瞬間からはじまったような気さえするほどに虚無である。目尻から落ちる涙のわけも、どうやらそこに置いてきたらしかった。ただひとつ、「どうして自分が」というとりとめのない後悔だけを残して。

 それは、おそらく魂の記憶だ。脳の奥底に仕舞い込まれてなお痛む、違和感を伴う悔恨の情である。

 その胸を締めつける焦燥感の理由を探し、娘はしばしの間、呆然自失として天井の常夜灯を見つめ続けた。やがて部屋の外から数人の話し声が聞こえた娘は、己の身に起きたことの次第を探るべく、鉛のように重い体を起こそうと腕や腹の筋に力を込めた。

 その矢先だった。自身の背中を斜めにつんざく烈火のごとき激痛に、娘の意識は一瞬で阿鼻叫喚の渦に呑まれた。肉を、焼いた鉄の矛先で力任せに抉り取るような痛みであった。

 娘が眠る和室と廊下を挟んだ隣の居間で、黒髪の少年と囲炉裏の鍋を囲んでいた灯弥(とうや)ら三人の男どもは、突如として聞こえた女の絶叫にたちまち睨みを鋭くするや、すぐさま居間を飛び出した。

 先陣を切って和室へ踏み入った灯弥は、面食らった様子で眉をひそめた。

 寝ていたはずの娘は左に捻った上体だけを布団から抜け出させ、這うようにして畳に両手の爪を立てていた。肩から腰下までの胴体すべてを巻いた包帯は、案の定、背中がびっしょりと赤に染まっている。暗がりに這いずるその姿にぎょっとしないはずはない。

 しかし灯弥の動きを止めたのは恐怖ではなく、娘が放つ獣のごとき眼光だった。背中に滴る赤よりも深く、そして濃い深紅の瞳が、娘の顔にかかった黒髪の合間からぎょろりと覗いていたのである。

(知っている)

 そう、灯弥は知っている。

 痛みを堪え、世の不条理に対する怨嗟の声を叫びあげているようなその目を、知っている。

 それは、かつての自分そのものだ。<プラハの悲劇>と呼ばれる地獄を生き延びてしまった哀れな男と、いま娘が恨めしく突きつけてくる鋭い眼の出どころは、「どうして」という嘆きで一致する。

 その実、娘は叫びたくて堪らなかった。もちろん、理由らしい理由は見当たらない。ただ、痛みに紛れ、脳裏を掠めたいつかの景色が語るのだ。

 なにがいけなかったんだ――と。

 果てのない白銀の大地。混じりけのない青き天空。それらの景色が過ぎ去っていく最後の最後、魂に残っていたはずの情熱すらも掴まえ損ね、娘は、落涙とともに意識を深い闇の底へと落としていった。

 その一連の様子を見ていた鍾馗(しょうき)には予感があった。だから後日、娘の退院が決まったそばから、

「あいつらは俺が引き取る」

 と灯弥が言い出しても、なんら驚くことはなかった。

「自分と重ねたか」

 娘たちを拾った夜と同じく囲炉裏の前に座した鍾馗は、手元の湯飲みに物憂げな視線を落としながら、なかの煎茶をひとくちすすった。

 鍾馗の言に灯弥は答えない。否定しないということの意味を汲んだ鍾馗は、

「同情するのは構わんが、あやつらは得体が知れん。特に娘のほうはな」

 と、火の気のない囲炉裏を見つめる灯弥に一瞥をやった。調べが足りないとはいえ、ここまで素性がわからず仕舞いであることは灯弥にも伝えてある。

 山中で娘らを保護してから三日。あの娘は記憶を喪失していたが、肉体はもう退院できるまでに回復していた。その尋常ならざる再生能力は人の域を超えて余りある。祀木(まつるぎ)家の息がかかった、そういうモノの扱いに慣れた病院でなければ、いまごろとんだ騒ぎになっていたことだろう。

 だからこそ鍾馗は、灯弥が引き取ることに賛同しかねていた。異類異形の管理と討滅は、祀木家と翳祇(かげるぎ)家が使命とするところである。かような娘らを灯弥のもとに預けるというのは、山に放つのとなんら変わりはない。国で管理すべきなのだ。

 灯弥はその考えを理解したうえで、

「もうあいつらに言ったのか」

 と尻目に訊いた。あいつらとは言わずもがな、月の白銀(しろがね)機関である。あの娘から感じられた命の気配は紛れもなくアービターのものだ。だとすれば、日本には月の連中に報告する義務がある。

「いや、まだだ。だが連絡はあった。知らぬ顔はしておいたが、あの様子だと近々降りてくるだろう」

 そう言って湯飲みを見下ろす鍾馗の顔には遺憾の色が浮かんだ。ますます下がった口角と哀愁を帯びた眼差しがそれを物語っている。

 されど、同じく囲炉裏を囲む麟寺(りんじ)は別であった。あぐらをかいたまま不満げに荒い鼻息を放つや、

「まったくどっから嗅ぎつけて来よるんだ、あいつら!」

 と吹き抜けの天井を睨み上げた。もともと怒髪天を衝いたような顔だけに、本人はちょっとしたぼやきのつもりであっても随分と鬼気迫るものがある。

 すると囲炉裏を挟んだ向かいから、

「アストラル・シフトだ」

 と鍾馗の冷ややかな言が飛び、一転して麟寺の顔つきは呆けたものに変わった。

「よくわからんあれか。あの、瞬間移動だろう?」

 麟寺は適当な語彙が見当たらずそう絞り出したが、おおむね間違いではない。<アストラル・シフト>は、白銀機関が月から地球などの長距離を移動する際に使用する転送技術である。

「もしや、それで監視しとるのか」

 神妙な顔つきでそう迫る麟寺だが、その問いは鍾馗にとって大きく的を外したものだった。

 鍾馗が「いや」と口を開いた、その刹那である。

「それであいつらが来たんだろ」

 横から核心を突くように言った灯弥に、ふたりは阿吽(あうん)の呼吸で首をねじ向けた。

「……あの晩、お主が見たと言っていた青い光はそれであろうな」

 いままさに言わんとしたことを先んじられた鍾馗は、曇らせた顔を正面に戻した。

 鍾馗は娘らを運び込んだ灯弥から事情を聞いた時、よもやと思っていただけに、白銀機関からの通達は妙に腑に落ちるものがあった。戸籍を持たぬ孤児という線も残っているが、月の話を信じるならば、あの娘と少年がどこの者かわからぬ現状に、一定の、かつ、簡単な説明がつけられそうである。

 つまり、あのふたりは<アストラル・シフト>によって転送されてきた、ということだ。

 だが、ならばこそ鍾馗は、灯弥の「引き取りたい」という申し出を承諾しかねる。

「さて、どうしたものか」

 鍾馗は嘆息混じりに言った。

 連絡してきた白銀機関のグラッグス・ヴァルドという大男は、<アストラル・シフト>の反応を検知したことにどこか懐疑的であった。その反応は、<アストラル・シフト>が門外不出の技術ゆえに当然といえる。さすれば次に、現地を確認しに来るというのは容易に想像がつく話だろう。

 その際、月の連中が娘らに興味を示さぬはずはない。仮に灯弥が引き取ったとしても、半ば強引に引き離されるのは目に見えている。日本という国は、月の庇護なくしては生き残れないのだ。拒否することは難しい。

(万が一そうなれば、月の連中に手を出しかねんしな……)

 鍾馗の顔色が晴れぬ理由はそこだ。

 威武(いぶ)灯弥(とうや)という男は他者と群れることを好まない。しかし一方で、身内と定めた者には義理堅いのだ。

 鍾馗が指摘したように、灯弥はあの娘に自分を重ねている節がある。十二年前に残してきた無念がそうさせるのだろう。それゆえ一度引き取れば、「今度こそは」と全力で守ろうとするに違いない。たとえ、月を敵にまわすことになっても、だ。

(そうか……。もしやスミレも)

 あの娘に重ねているのか。鍾馗は思案に耽る傍ら、灯弥を尻目に盗み見た。

 すると、腕組みして話の成り行きを見守っていた麟寺は早くも痺れを切らしたか、

「まあ、いいではないかショウキ。お前も似たようなもんだったんだろう?」

 と、なだめる調子で言った。

「一緒に匿えとな……」

 鍾馗はそれ以上言葉を返さず、憂鬱に顔をしかめた。三十年前に山で拾われてここまで生きた身としては、安易に否を示すこともできない。そのうちに、

「カグヤとサクヤだ」

 と灯弥が不意にそう言い出したものだから、鍾馗は思議もそこそこに、

「なんだ、それは」

 と怪訝な顔をねじ向けた。

「名前だ。あいつらの」

 灯弥は「なにかおかしいか」とでも言いたげである。それを隣の大男は早速茶化しにかかった。

「かぐや姫か? 随分怪体(けったい)な名前をつけおる」

「麒麟児の住まう寺で<麟寺>のお前のほうが怪体だろうが」

 灯弥は悪態をつくや急に勢いを失い、

「――あいつらが倒れていた場所に、スミレがひとつ、咲いていたんだ」

 そう、どこか思い詰めた様子で言葉を紡いだ。

 その事実に運命めいたものを感じずにいられないのは、灯弥だけではない。みな感傷に浸るかのごとく押し黙り、居間は一瞬にして葬式のあとのような重苦しい空気に包まれた。

 やがて、

「わかった」

 沈黙を破った鍾馗は、静かな決意の燃える目を、灰しか残らぬ囲炉裏のなかへと物悲しげに下ろした。

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