第十二話「はじまりの追憶」⑭
とんがり頭をした山形のテントに、暖簾をくぐるようにして入ったイネッサは、目に飛び込んだ光景にはたとその動きを止めた。
「あ、ごめんなさい!」
と言いつつも、ちら見する。
彼女の視界に入ったのは、ふたつ並べられた寝袋の間であぐらをかき、白い半襦袢を乱雑に脱ぎ捨てた神楽夜の背中である。晒が巻かれたその背は、肩甲骨の流麗な隆起が見て取れる。無駄な肉の存在は感じられない。かといって筋立っているわけでもなく、なめらかな僧帽筋から丸みを帯びた三角筋、そしてそこから伸びる二の腕は、柔らかな曲線美を残している。同じ女性から見ても綺麗と思える、憧れのひとつの具現だった。
「いいよ。それより背中、なんかなってない?」
慌てて踵を返そうとするイネッサを呼び止めるなり、神楽夜はそう訊いた。
「背中、ですか?」
テント内を照らすのは、神楽夜の手元に置かれたランタンひとつだ。イネッサは差し出されたそれを受け取ると、背中の前に両膝をついた。
「傷が……」
晒が横断して一部隠れているが、右肩から袈裟に斬られたような傷跡が残っている。神楽夜の肌は剥きたての卵のようだが、その部分の皮膚は濃く変色していて、まるで細長い三日月の色が反転したふうにも見える。
「ああ、それ結構昔のだから大丈夫。あと、なんかできてない?」
首をねじ向けた神楽夜はなんでもないふうに言うが、大層な怪我であったに違いない。この娘は自分より幼く見えて、その実、九垓のような苦境を乗り越えてきているのではなかろうか。
「ほかには、特に。痛むんですか?」
「うん、ちょっとね。やっぱそれかな……」
傷が疼くなどもっぱら心理的な要因からだろうが、痛むというならば、得意の魔術でひとつできることがある。
「あの、よかったら治癒、かけてみましょうか」
「チユ?」
この娘に難しい単語はご法度であるが、
「私のはむしろ、そっちのほうが向いてて」
そうと知らぬイネッサは、なんの悪気もなく神楽夜の背中に右手をかざした。それに合わせ、イネッサの背中に宿る龍の紋様が薄っすらと青く光りはじめる。
その時だった。
「がっ!?」
神楽夜は目玉をひん剥き、背中を棒かなにかで鋭く殴打されたかのごとく仰け反らせると、腹のなかから喉までを絞り切るような呻き声を垂れ流し、うずくまった。
「カ、カグヤさん!?」
倒れ伏した神楽夜を抱き起そうとして、イネッサはその手をすぐさま引いた。また触れれば同じことが起きるかもしれない。
(術を、間違えた……? そんなこと)
あるわけがない。母から教わったのは水の運用と癒しの魔術のみだ。このように相手を痛めつけるだけの技はそもそも体得などしていない。
それに。
そもそも彼女はまだ、技を発動させてなどいない。
困惑するイネッサは神楽夜に触れることもできず、苦悶に歪んだ彼女の顔を這いずるようにして覗き込んだ。それに神楽夜は細目を開け、
「これが、チユ……」
と、麟寺の一打にも勝るその衝撃に敬意を表し、苦しげな笑みを漏らした。
「違います!」
渾身の否定とともに上体を跳ね起こしたイネッサは、伏せた神楽夜の背に疑いの目を向けた。
「この傷、もしかして治りきってないんじゃ」
「んな。八年も経ってんのに?」
まだ痛むのか、眉間に深いしわを刻んだ神楽夜は、頭を垂れたままかろうじて体を起こした。
「それなら治ってないわけ、ないですよね……」
イネッサはますます怪訝な顔つきになる。そして、彼女の背に触れた自身の右手を一瞥すると、
「大怪我だったんじゃないですか。子供の時にそれだと」
と神楽夜を心配げに見やった。が、神楽夜の横顔には苦悩の色が浮かんだ。
傷跡は右肩から左の脇腹まで伸びている。幅は、背中のなかほどのところでもっとも太く、二、三センチはある。彼女の見た目から推し量るに、八年前となれば、その頃の彼女はおそらく十代に入っているか否かだろう。
純粋にその当時を案じたイネッサであったが、しかし。
「私――」
と思い詰めた顔で続ける神楽夜の答えは、よく意味の呑み込めないものだった。ゆえにイネッサは疑念をもって繰り返した。
「変わって、ない……?」
そう。
それは、神楽夜たち姉弟が灯弥に出会った日。黒風吹き荒び、怪雨暴れる六月の、その、新月の夜のこと。その日から彼女たちの肉体は、時が止まったままだった。
第十二話「はじまりの追憶」




