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第十二話「はじまりの追憶」⑬

 それからしばらくののち、

「いつまでそうしてんだ」

 とイネッサの背に声かけたのは、折り畳み式の椅子を一脚、小脇に抱えた九垓だった。彼は首を振り向けたイネッサが返事をする間もなく、鉄パイプに布地で組まれたその椅子を彼女の横に広げた。

 湖面に浮かんだ月のごときイネッサの瞳は、そんな彼に不思議そうなまなざしを送った。

「まだ寝ねえなら、とりあえず座っとけ」

 九垓はその視線に気づかないふりをして、すぐさま立ち去ろうとする。明日に備え早く休まねばならないのだ。ここで視線を交わそうものなら、また妙な会話に発展しかねない。

 そんな予感を現実にしたくはなかったのだが、無言ですくりと立ち上がった彼女に、九垓は図らずも顔を向けてしまった。

「……私、どんな顔、してましたか?」

「あ?」

 さきほど自分で言ったことを忘れている九垓は、なんのことか意味がわからず、訝しげに片眉を吊り上げた。

「さっき言ったじゃないですか。んな顔って」

 イネッサはまっすぐ前を向いたまま問いを重ねた。

(あれか!)

 ようやく合点のいった九垓は、面倒臭さのあまり心中でげんなり口を開けた。

「どんなって、自分で鏡見て来いよ」

「ないです、鏡」

「いまにもぶっ倒れそうな面してるっつってんの」

 呆れ半分、怒り半分といった調子で九垓は肩を落とした。

 度重なる緊張が、彼女の心をすり潰しているのは明らかだ。数日前の出会った時に比べて目は据わり気味で、見るからにやつれている。いまや彼女に圧し掛かるのは親絡みの心労だけではない。またいつ襲ってくるやも知れぬあの神父の影があるのは、想像にかたくないことだ。

 だから、九垓はイネッサが同道すると言い出した時、心の底から信じられなかったのである。こういう時、この修道女はきっと自分を守る。そう思っていただけに。

「それで椅子を……」

 イネッサはいまさらながらに気づいたことを口にした。この男のことだ。てっきり自分が座るために持ってきたのだとばかり思っていた。

「座っとけっつっただろ」

 嘆息を混ぜ、さぞ大儀そうに九垓は答えた。ようやく意図は伝わったらしいけれども、イネッサは用意された椅子に腰を下ろそうとはせず、物憂げな顔を再び前に戻した。

「やっぱり全然役に立ててないですね……。体力もないし」

「まだ外出ただけじゃねえか。はじめから背負い込みすぎなんだって」

 九垓は仕方なしに、自分で用意した椅子にどっかりと座った。それになんら反応を示すことなく、

「でも」

 と、イネッサは砂塵の彼方へ言葉を投げる。その台詞を彼女の口から聞いたのはこれで何度目か。

「――お前さ、負けん気強くねえ?」

 半笑いで見上げる九垓に、

「そんなこと!」

 ない、とまでは言い切らないが、イネッサは語気を強めに首をねじ向けた。それを、

「シスターにも我が強いやつがいたもんだ」

 と九垓は涼しげに受け流しながら椅子に背を預けた。

「……勝手に納得しないでください」

 イネッサは文句にむくれた面を前に戻す。

 しばしの沈黙がふたりの間に流れた。

 ここサハラの地は、時期になればカムシンと呼ばれる地方風が吹くことで有名だ。これがまた猛烈な風で、その強さは、木造の建築物なら倒壊するほどといえば想像しやすいだろうか。かのナポレオンもその砂塵の前に進軍を阻まれたという説がある。この強風は特定の周期で訪れるものだが、幸いにもいまは時期を終えていた。

「ずっと、考えてました」

 夜半の静寂を破り、イネッサがぽつりと言葉を置いた。いつもどおり両手を枕にした九垓は、それを黙して聞いた。

「なんで私がって。アービターってなんなんだろうって」

「アービター、ねえ」

 なぜ自分が選ばれたのか。それは九垓も知りたいところだ。仰いだ夜空にともる無数の星々を見た彼は、

(そういや、こんな感じだったな)

 と、在りし日の己を想起した。

「クガイさんはいつからなんですか」

 こちらを向くことなく訊いてくるイネッサを、九垓は空を見上げたまま一瞥した。呼び捨てでいいと言ったのだが、そうしないあたり、彼女との距離はまだあると見える。

「組織から逃げた、その少し前だな」

「逃げたって」

 さきほどの話にはなかった表現である。イネッサはきょとんとした顔を向けた。

「五、六年くらい前じゃねえかな。気づいたら右足に痣があってさ。ここでの仕事終わったばっかりだったからな。てっきり、どっかでぶつけたんだと思ってたんだ」

 痣はその存在に気づいてから間を置かず、ある形を取りはじめた。それはやがて、一匹の虎が小さな塔の背後から、体を沿わせながら前に進み出てきているような、まるで入れ墨じみた紋様へと変わった。

「そしたら声が聞こえたんだ」

 九垓のその言に、イネッサははっとした。

「私も、聞こえました」

「守護者がどうとかな。もしかしたら、アービターの連中はみんな聞いてんのかも知んねえな。それから妙に体が軽くてさ。軽くねえ? 体」

 イネッサの返事を待たず九垓は続ける。

「んで、次の仕事でアルカン領の街に行ったらもう、まわりビカビカしててなあ。ちょうどこんな感じに」

 かつて高層ビルの屋上から見た街の景色は、星を散りばめたかのように輝いていた。聖夜を間近に控えた頃である。とある軍需企業の重役を暗殺する任務を帯び、その地を訪れたまではよかったものの、それまで知り得なかった「幸福」の形を見せつけられたことで、彼のなかでなにかがズレた。

「人の命なんて飯代より安いもんだ。そう思ってたのに、そこに住んでるやつら、その何倍も高ぇ飯食ってやがった。ガキなんて綺麗な服着てさ。ホント……」

 なんの喜びも楽しみもない日々だった。毎日が足踏みだ。前進もしなければ後退もしない。立ち止まっているのとは少し違うから、余計に質が悪い。人を殺して得た金で飯を食い、人間の命なぞ、その飯代以下だと知った。旨くもなければまずくもない。ただ生命を維持するために食うのだから、それは動物と変わらない。

 そう、動物だった。飼われて人を殺す、ただの動物。指示されたことをこなす家畜風情は、その意味なんて考えない。与えられた仕事を淡々とこなす、ただそれだけだ。

 届かないから美しいと誰かは言う。確かにそうかもしれないが、それは、諦めた者の言葉である。変わりたくば変えられる。伸ばさなくては届かない。届かないのならば伸ばし続ける。仕方がない、なんてことはない。

 だから。

「だから、逃げたのさ。知っちまったからな。ああいう生活があるって」

 ――逃げたきゃ自分の足でとっとと逃げればよかったじゃねえか。

 いつだったか、被害者面しているのが気に食わないとこの男は言った。その時のイネッサは父の喪失と命を狙われた衝撃で塞ぎ込むあまり、彼の言葉を拒絶するしかなかった。

 けれどもいまはその言葉が、少し、違ったものに聞こえる。

 誰かが、そう、あの時は神が、自分を救ってくれるものだと信じていた。しかし、

(違う)

 自分を救えるのは、神でも来世でもない、いまの自分だ。九垓はそれを乗り越えて、ここにいる。

「――クガイさん。カゲルギさんの言ってたこと、覚えてますか?」

「爺さんのぉ?」

「討伐です。繭の」

 イネッサは生返事ばかりする九垓を尻目に睨んだ。されど九垓はなおざりに、

「そんなモン、やりたいヤツにやらせときゃいんだよ」

 と瞼を閉じたまま夜空に言う。やはり乗り気ではなかった。

「でも私、知ってます。突然、なにもわからないまま大事なひとが消えて。それから十年経ってもまだ探し続けているひとたちがいるんです。私が住んでいたあの場所は、そんなひとばかり……」

 修道女は胸の下で祈りを捧げるように両手を組み合わせ、憂いに満ちた顔を伏せた。それを九垓は見ない。変わらず天を仰いで目を瞑り、

「んなこと言われても俺はイヤだね。見ず知らずの誰かのために死ねるかよ。どうせ死ぬなら、好きなことして死ぬさ」

 と、くたびれ気味に達観を述べた。

 またしても沈黙が降りる。彼女の気分を損ねるのはもはや毎度のことながら、言葉が返らぬこの状況はいよいよもどかしい。九垓はさりげなく横目でイネッサを盗み見た。その瞬間、

「私も、そうかも……」

 星空を見上げるイネッサは、夜露に濡れたように煌めき放つその淡青色の横髪を、静かに、微風に揺らした。

「父の亡骸に祈りを捧げたのは、結局、自分のためでした。だって、死んだひとはもういないんですから。孤児院の子たちを世話するのも、全部……自分の、ためだった」

 ――手に余したもんを、全部神とやらに放り投げるのはやめろ。

 夕日に焼かれたクラドノの風景とともに、九垓の言葉が彼女の胸を締めつける。

「言うとおりです。私もお父さんと同じで、神様にすがってた。なにもできない自分が許せなくて。お母さんがいなくなって、お父さんまでおかしくなって……。きっと、子供たちから求められることで、もらえるはずだったものを埋めてたんです」

 そう言って伏せられた瞳が回顧するのは、来る日も来る日も礼拝堂で縮こまるようにうずくまっていた父の姿だ。

 母が去り、その心の空白を埋めるかのように、父は神に祈っていた。あのグラディアという神父の目的が魔女狩りであると知りながら、それをむざむざ見過ごしたにもかかわらず、父は、神に赦しを乞い続けた。それが生み出した父娘(おやこ)の溝に、決して目を向けぬまま。

 だからイネッサは、自分でそれを補うほかなかった。家族として平静を装い、互いに踏み込まれない距離を保って、ひとつ屋根の下で無為に過ごす。――そこに絆はない。もちろん、その手段を取ったイネッサが、自分を慕う孤児たちに抱く感情もまた、愛ではない。すべて欺瞞(ぎまん)だ。ただ痛みに耐え、空虚さを満たすためだけの嘘でしかない。父母から受け取るはずだった愛情を、あるいは父性や母性を、彼女は自ら代行することで渇きを癒したに過ぎない。

 見て見ぬふりをし、逃げるだけだった。守るだけだった。あらゆる不運も(あがな)いも、その(ゆる)しさえも、神という偶像に委ねた結果がいまの孤独だ。

「だから、いまは――どんな形でも、あの子たちが自由になったのがよかったって、思えます。あと……私も。本当はちゃんと向き合うべきだったって」

 それを伝えたい相手は、もういない。どんなに後悔を重ねたところで、死んだ者は戻らない。だからこそ、イネッサは噛みしめる。生を受け、いまこの時をともに生きられることこそが、一番大切にしなければならない奇跡だったと。独りになってそこに至るとは、実に皮肉な話であるが。

「所詮、みんな自分のことで手一杯だ。誰かのためだなんて、対価なしじゃあり得ねえ。だって気持ち悪ぃだろ? どんなに綺麗事並べたってよ、生きてンだから。人間だって、結局そういうモンさ」

 夜空に目をやったまま言う九垓を一瞥し、イネッサは黙考する。

 ともに生きる喜びを分かち合えるのは、死が遠いからこそか。命の奪い合いが日常だった彼にしてみれば、自分の考えは、ある一点からしかものが見えていないのかもしれない。

 そう、この男は自分の対極にいるのだ。はじめから背を向けているのだから、そりが合わないのも当然である。

「対価……そうですね。でも――だったら」

 と彼女はおもむろに体を九垓に向け、

「私、もう貰ってます」

 そう確かに口にした。

 これまでにない気概を感じさせるその言葉に、九垓は頭をよぎった嫌な予感を確認せずにはいられない。

「まさかとは思うけどな。参加する気じゃねえよな?」

 繭の討伐に、である。九垓は椅子に背を預けながら不愉快そうに睨みつけた。が、真顔のまま見返してくるイネッサを見て、そのまさかだ、と納得した。途端、本人もわからない深い嘆息が漏れ()でた。

「別になんでもいいけどさ。さきに兄貴に、ちゃんと礼すんのが筋じゃねえ?」

 一応、マシューは彼女の恩人のひとりのはずだ。彼女の言う「対価」がなにを指すのか知れないが、それを貰っていると言い、報いるつもりでいるのなら、まずはじめに命を救ったマシューにこそ返礼して然るべきだろう。

 と九垓は考えるのだが、いざ返ってきた答えは、

「だからです」

 だった。

「あ?」

 すっとぼけた顔でさも当たり前かのように抜かす修道女に、九垓はますます怪訝に眉をひそめるが、相手に怯む様子はない。イネッサはもう慣れていた。

「だって、マシューさんが繭を止めないはずがないです。逆に想像できますか? なにもしないの」

 考えるまでもなかった。

「ねえわ」

「そうですよ。だから決めました」

 そう言うなりイネッサがテントに向かって歩き出したものだから、

「お、おい」

 九垓は「決めました」の続きを催促して、上体を起こすなりねじ向けた。

 すると、彼から離れていくイネッサの背中は、どれだけ手を伸ばしても届かないところまで行って、ようやく止まった。

 そして、

「クガイさん」

 不意に名を呼び、彼女は体の横を向けるようにして振り返る。それに九垓は、

「なんだ」

 と、わけもなく神妙な面持ちで答えた。

 彼女のなかでいま、さまざまな想いと言葉が交錯しているだろうことは、顔つきを見ればすぐにわかる。それがまとまるまでの沈黙を、九垓は急かすことなく見届けた。

 やがて、

「――槍、上手くなります、私」

 そう言ってまっすぐ向いた彼女の顔は憂いなど欠片もない、この静謐(せいひつ)な夜に相応しい凛としたものだった。

「おう」

 つぶやきにも似た小ささで、わずかな頷きとともに返した言葉がイネッサに届いたかはわからない。「おやすみなさい」と言ってテントに戻って行く彼女の背を見送って、九垓はひとり、夜天を仰ぐ。

「なにやってんだかな」

 ここのところ調子が狂わされっぱなしである。よもや自分が、無償で技術を教える約束をするとは。だが、こちらはどこまで行っても傭兵である。

(金が途切れたら、とっととずらかるか)

 それからしばらく、男は月を眺めた。

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