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第十二話「はじまりの追憶」⑧

 鍾馗の指示を受け、艦に備蓄する水の生成を終えたイネッサは、格納庫から自室に戻る途中だった。

 いま格納庫では、神楽夜と鍾馗が、動くとわかったホバーバイクへ荷物の積み込みをしている。それが終わり次第の出立だ。ひと仕事終えたイネッサは、その間、わずかであるが休息を得られることになった。

 足元を壁沿いに走る白い誘導灯と、天井から点々と落ちる淡い照明だけが頼りの薄暗い通路から右に折れ、上階の居住層へと至る階段へ足をかける。その直後、

「あ……」

 人の気配に顔を持ち上げたイネッサは、こちらに体の側面を向けて踊り場に座す九垓を見つけ、小さく声を漏らした。片膝を立てて座る九垓は、窓から差し込む外光から翳のある顔を逸らすと、それを、のぼりはじめて固まったイネッサへと振り向けた。

「終わったか?」

「……はい」

 イネッサは答えながら目を伏せた。対して九垓は「そうか」と嘆息するや、

「あんま気張んねえほうがいいぜ? 肝心な時に出せなくなったら困るからな」

 と渋々立ち上がった。次いで思いきり腰を逸らしながら伸びをひとつし、盛大な大あくびをしてみせた。

 肝心な時とは、レジスタンスとの交渉を指している。砂漠において水は貴重だ。同道を申し出たイネッサには驚かされたが、その能力は彼らと交渉するうえで充分な手札になる。そう考えた九垓にもう反対の意思はない。その旨は無論、イネッサ本人と鍾馗にも伝え、双方から了承を得ている。

「なに、してたんですか」

 イネッサは瞳を横に逸らしたまま訊いた。

「あ? 休憩だ、休憩。いらねえってあの爺さんが言ってんのに、お前がばかすか出すから、まったく」

 相も変わらない無遠慮な物言いにイネッサは若干顔をしかめ、静かに階段をのぼりはじめた。

 彼女が生成した水は、十日ほどは持ちこたえられる量になる。明日にも片をつけて戻る気らしい鍾馗は、その間の備えだけでいいとイネッサに言っていた。だが、彼女は母と違って生み出した分だけ憔悴するようなことがない。自分にできることを求めるイネッサは、ゆえに、時間の許す限り容器を満たしていった、というわけだ。

 が、それを各自の部屋や浴室に運んだのはこの九垓である。おかげで艦内を上から下まで何往復もさせられ、文句のひとつも言いたくなるというものだ。しかし九垓はそれ以上物言わず、くたびれた様子で階段を下りはじめた。

 以前触れたように、階段の幅はさほど広くない。イネッサはあと数段で踊り場というところで体の正面を壁側に寄せ、九垓が通り過ぎるのを待った。その間、彼女の顔には躊躇いが浮かんだ。言うべきか、言わざるべきかという迷いである。イネッサには、九垓に伝えねばならないことがひとつあった。

 彼はもう階段のなかほどを過ぎている。

「――あの」

 踊り場まで迷いを引きずったイネッサは、思い切って彼を呼び止めた。けれど、言いたい感情は定まっているのに、それをどう切り出せばいいかわからない。言葉を探る沈黙が、ひどく長く感じられた。

「興味あったんだな、槍」

 先んじたのは、足を止めた九垓だった。

「え、あ、違うんです……。なにか、変えなきゃって思って」

 イネッサは背を向けたままうつむいた。それを尻目に見た九垓は、

「へえ。ま、折れない程度に頑張んな」

 と、興味がなさそうにまた一段下りる。その背中に、

「さっきは!」

 とイネッサが振り向きざまに言った。九垓の足は、そこでまたしても止まった。

「さっきは、すみません、でした……」

 いつものように両手をへそのあたりで組み、おずおずと続けるイネッサに、

「さっきって、どれだよ」

 思い当たる節が多すぎる。そんな思いとともに九垓は呆れ顔をねじ向けたが、途端、その顔は半ば驚きを交えた神妙なものへと変わった。

 はっとした自分を取り繕う間はなかった。窓から差し込む月明かりが、伏せ気味の彼女の瞳に憂いを落としている。それだけではない。どう踏み出すか逡巡する輝きすら秘めていた。

 九垓はただ次の言葉を待った。やがて、

「一緒に……」

 そう絞り出すと、

「父を見送ってくれて――ありがとう、ございました」

 イネッサは静かに頭を下げた。すると、瞳にたゆたう月が雫となってこぼれ落ちた。九垓はそれで、イネッサの言う「さっき」が埋葬した帰り道のことを指しているのだと悟った。

 どれほど憎くとも親子ということか。理不尽を嘆いてなにかのせいにして、その矛先を向けた父の死を、しかし彼女は(いた)んだ。

 九垓には解せなかった。自分の道は自分で切り拓いてきた。ただそれだけを信条に生きてきた。誰かのためにというのは対価が伴うものだと、そう学んだ彼に信じられるものは、この世にふたつしかなかった。

 金と自分だ。それ以外に信じられるもの、信じていいものなどなかった。

 けれど、イネッサは――父の亡骸を前にただ祈る彼女の姿は、それとは違う。

「なんでだ」

「え?」

 九垓の切り返しに、イネッサは下げた頭を少し上げ、潤んだ瞳を向けた。

「親を許したわけじゃ、ないんだろ」

 視線を下げる九垓と彼を向くイネッサの視線は交わらない。

「……だって、手伝ってくれたから」

「あんなのは形だけだ。言ったろ。なんの意味もない。それとも、それもか?」

 そこでようやく、九垓は上に立つイネッサに顔を振り上げた。

「違います! きっと、お父さんも喜んでいると思うから」

「……わかんねぇ奴だ。本当は納得してるんじゃねぇのか?」

 母の失踪、父の死、アービターという力の具現――自分の身に降りかかった、彼女自身が「運命」と呼ぶそれらの不運について、である。

 イネッサは視線をそらす。

「納得は、まだ……。でも、あのあと考えました。この力のおかげで守れたものもあります」

 そう言われ、九垓は以前窮地を救われたことを思い出した。フランスの基地でのことである。

「だから、よかったって。いつか、私に宿ったその意味を、知れるように」

 生きていこう、と。その意志がイネッサの言葉には宿っていた。つい数時間前まで不幸を嘆いていた彼女とは思えぬ変わりようである。

(兄貴、か)

 神楽夜とのあの戦いが、彼女の心のどこかに火をつけたのだろう。イネッサは、ほんの少しであるけれども、憑き物が落ちたような清々した顔でいる。彼女が自ら槍の教えを乞うたわけを、九垓はここに至って納得した。

 ただより怖いものはない。前にも触れたが、この男の信条とするところだ。なれば、借りは早々に返さねばならない。基地で助けられた借りを、である。とはいえここで金を渡しても、この修道女が素直に受け取るはずはない。

 ゆえに。

「――槍、俺が教えてやるよ」

「え、でも」

「お前の獲物はカグヤ(あいつ)には長すぎる」

 イネッサにすれば意外すぎる提案であった。

「……いいんですか?」

 恐る恐る確認する。

「いいんだよ。これじゃ性に合わねえ」

「性に?」

 首をかしげるイネッサに九垓は背を向けると、

「そんなことより、さっさと支度しろ。ついてくるんだろ?」

 そそくさと彼女の視界から去っていった。

(ありがとう、ねえ)

 それは、これまであまり触れる機会のなかった言葉である。あってもそれは、傭兵としての報酬を受け取る時だ。同じ言葉でも、込められた心はまるで違う。

「ハ。なにやってんだかな、俺は」

 その機微を感じ取れる自分に半ば呆れた調子で、九垓は格納庫へ続く通路を行きながら、ひとり後頭部をかいた。

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