第百三話 帰りたい場所
レイモンドこと仁が旅立ってから、数日が過ぎた。
知らせを受けた江理は、シアンの自室で、一人、静かに考え込んでいた。
仁の決断、桜子の選択。
二人の姿が、何度も頭の中で蘇ってきた。
◇
「江理ちゃん、顔色が優れないみたいだけど」
様子を見に来たマイミが、心配そうに声をかけた。
「ちょっと、考え事をしてて」
「仁さんのこと?」
その問いに、江理は、小さく頷いた。
「仁さんは、帰ることを選んだ。桜子さんは、残ることを選んだ。マイミさんも、ずっと前に、同じ選択をしたよね」
「うん」
静かに、マイミが頷いた。
「私は、この世界に残った。エイトがいたから」
「後悔、してない?」
「一度もない」
マイミの答えに、迷いはなかった。
「でも、仁さんみたいに、帰る道を選ぶ人がいても、それもまた、正しいんだと思う。どっちが正解とか、そういう話じゃないから」
その言葉に、江理は、少し救われた気がした。
◇
数日後、江理は、ピーコック村の庭を訪れた。
「エリーさん、久しぶりですね」
アイリスが、嬉しそうに迎えてくれる。
庭は、以前よりも、さらに豊かになっていた。色とりどりのハーブが並び、小さなベンチと、木陰を作る棚まで設えられている。
「見違えました」
「少しずつですけど、形になってきました」
アイリスは、誇らしげに笑った。
「マルコさんが、パール村にも、同じような庭を作る計画を立ててるんです。それに、ローズでも、興味を持ってくれる人がいるって話で」
「本当に?」
「はい。身分に関係なく楽しめる場所が、あちこちに増えたらいいなって」
その話を聞きながら、江理は、庭の隅に腰を下ろした。
風が吹き抜け、ハーブの香りが、ふわりと漂う。
「エリーさん、何か、悩んでるんですか」
アイリスが、隣に座りながら、そっと尋ねた。
「ちょっとね。仁さんのこと、考えてて」
「帰る方法が、あったらって話ですか」
「うん」
江理は、小さく頷いた。
「アイリスは、どう思う? もし私が、日本に帰るって言ったら」
その問いに、アイリスは、少し驚いた顔をしたが、すぐに、優しい表情に変わった。
「寂しいです、すごく。でも」
「でも?」
「エリーさんが選ぶことなら、何でも応援します。帰りたいなら、帰ってもいいと思います」
その言葉に、江理は、目を見開いた。
「それでも、江理さんがいなくなるのは寂しいから、本音を言えば、ここにいてほしいです」
アイリスは、はにかむように笑った。
「ごめんなさい、矛盾してますよね」
「ううん」
江理は、首を振った。
「それが、本当の気持ちだと思う。ありがとう」
◇
夜、オジーと二人、寝室で静かな時間を過ごしていた。
「何を考えてる」
オジーが、ふと尋ねた。
「色々」
江理は、お腹に、そっと手を当てた。
「私、ずっと、帰る方法があるかどうか、考えないようにしてきた気がする。考えても仕方ないから、って」
「そうだったのか」
「うん。でも、仁さんが実際に帰るのを見て、改めて考えちゃった」
江理は、言葉を選びながら、続けた。
「もし私にも、帰る方法があったら、どうするんだろうって」
何も言わず、江理の言葉を待っていた。
「日本には、家族がいる。会いたい気持ちは、今でもある」
「……うん」
「でも」
江理は、オジーの手を、そっと握った。
「今の私にとって、帰りたい場所は、一つじゃない」
その言葉に、オジーは、静かに江理を見つめた。
「この世界に来たばかりの頃、ピーコック村が、初めての『帰りたい場所』になった。それから、シアンも、ここも」
「俺も、その一つか」
「一番、大きいかもしれない」
江理は、小さく笑った。
「日本への想いが、消えたわけじゃない。それでも、ここにも、確かに、帰りたい場所がある」
オジーは、江理の手を、強く握り返した。
「焦らなくていい。ゆっくり、考えればいい」
「うん」
静かに、頷いた。
◇
窓の外には、穏やかな夜が広がっていた。
お腹の中で、小さな命が、二つ、確かに育っている。
仁の選択も、桜子の選択も、マイミの選択も、どれも、それぞれの答えだった。
江理には、江理自身の答えが、まだ見えていない。
それでも、少しずつ、その輪郭が、形になり始めているのを感じていた。
帰りたい場所は、一つじゃない。
その事実と、ようやく、正面から向き合えた気がした。
窓の外に、小さな光が二つ、ふわりと浮かんでいた。
ノアとピコが、いつの間にか、様子を見に来ていたらしい。
『エリー、だいじょうぶ?』
『かんがえごと、おおい?』
「うん、少しね」
江理が答えると、光の粒は、安心したように、揺れた。
『エリーが、えらんだみちなら、どこでもいいとおもうよ』
ノアの、無邪気な一言に、江理は、思わず笑ってしまった。
子供のような言葉が、時に、一番シンプルな真実を突いてくる。
どこを選んでも、誰かが、ちゃんと受け止めてくれる。
その安心感が、江理の心を、静かに支えていた。




