第百四話 選ぶ場所 【最終回】
帝都ローズの工房を訪れたのは、秋の初めのことだった。
「エリーさん、珍しいですね。体は大丈夫ですか」
パウラが、机の上の資料から顔を上げる。
「うん。今日は、聞きたいことがあって」
江理は、少し間を置いてから、切り出した。
「私が日本へ帰ることは、できる?」
部屋の空気が、わずかに変わった。
隣にいたシリルが、息を呑む気配がした。
「……考えてるの?」
「分からない。でも、ちゃんと知ったうえで、決めたいの」
パウラは、しばらく江理を見つめていた。
それから、静かに答えた。
「できる。仁さんを送れたから、理屈の上では、エリーさんも」
「リスクは」
「ゼロじゃない。それに、一度送ったら、二度と戻ってこられない。呼ぶ術と送る術は、同じ道を逆に辿れないの」
「そう」
江理は、小さく頷いた。
「教えてくれて、ありがとう」
帰る方法は、本当にあった。
その事実を、江理は、自分の耳で確かめた。
◇
「もう一つ、お願いがあるの」
「何?」
「手紙を、送れないかな。物を送る実験、続けてるでしょう」
パウラは、目を瞬かせた。
「できなくはない。ただ、届いたかどうかを確かめる方法は、まだないよ」
「それでもいい」
江理は、きっぱりと言った。
「届くかどうか分からなくても、書きたいの」
パウラは、少し考えてから、ふっと表情を和らげた。
「分かった。ちゃんと送る。私の術で」
「ありがとう」
その夜、江理は、ペンを取った。
日本にいる家族へ。
突然いなくなってしまったこと。
今、生きていること。
大切な人たちに囲まれて、医者を続けていること。
そして、もうすぐ、二人の子どもの母になること。
便箋に向かうほど、涙がこぼれた。
それでも、書き終えたとき、胸の奥が、不思議と軽くなっていた。
――ごめんね。でも、私は、ここで元気にやってるよ。
最後の一行を書き終え、そっとペンを置いた。
◇
翌日、パウラの手で、手紙は、淡い光に包まれて消えていった。
「届くといいね」
シリルが、ぽつりと呟く。
「うん」
江理は、光の消えた空間を、静かに見つめていた。
◇
その夜、江理は、オジーの隣で、自分の気持ちを言葉にした。
「私ね、帰る方法があることを、確かめてきた」
「……そうか」
オジーの声は、静かだった。
「一度送れば、戻ってこられないことも、聞いた」
「それでも」
オジーは、江理の手を、そっと握った。
「江理が選ぶなら、俺は、何も言わない」
「ありがとう」
江理は、まっすぐオジーを見た。
「私、ここで生きる」
その言葉に、オジーの目が、わずかに見開かれた。
「帰れないから、じゃないよ。帰れるって知ったうえで、それでも、ここがいいの」
声は、少し震えていた。
けれど、迷いはなかった。
「日本の家族に会いたい気持ちは、今も変わらない。でも、ここにも、会いたい人が、帰りたい場所が、たくさんあるの」
ピーコック村の診療所。
アイリスの庭園。
マーサのアトリエ。
シアンの城。
そして、隣にいる人。
「これは、私が、自分で選んだ答え」
オジーは、何も言わず、江理を強く抱きしめた。
その腕の中で、江理は、静かに目を閉じた。
◇
それから、いくつかの季節が巡った頃。
ピーコックの庭に、春の風が吹いていた。
「エリー! おめでとう!」
「ふたごちゃん、かわいい!」
妖精たちが、嬉しそうに飛び回っている。
江理の腕の中には、小さな二つの命があった。
男の子と、女の子。
お腹にいた頃から、ずっと待ち望んでいた、双子だった。
「どんな名前にしよう」
隣で、オジーが、柔らかな声で尋ねた。
「ゆっくり、考えよう」
江理は、微笑んだ。
庭には、アイリスが、ハンナが、アメリアが。
マーサ、ミラ、ライリーも、顔を揃えている。
マイミとエイトの姿も、桜子の姿もあった。
「エリーさん、見てください」
アイリスが、庭を示した。
ベンチには、貴婦人と農婦が並んで座り、同じ茶を楽しんでいる。
その向こうでは、子どもたちが、ハーブの間を走り回っていた。
「身分も、立場も、関係なく、皆が笑ってる」
「うん。夢みたいだね」
「夢じゃありません。エリーさんが、最初に種を蒔いてくれたんです」
アイリスの言葉に、江理は、静かに首を振った。
「違うよ。皆で、育てたの」
隣で、桜子が、穏やかに微笑んだ。
「ここに来てよかったって、毎日思ってます」
その言葉に、マイミが、小さく頷いた。
それぞれが、自分の居場所を、自分で選び取った人たち。
その輪の中心に、今、江理は立っていた。
誰も、完璧ではなかった。
それぞれが、それぞれの過去と、選択を抱えて、ここに集まっている。
江理は、空を見上げた。
どこまでも、青い空だった。
ピーコックブルーの、澄んだ空。
夜勤中だった外科医は、ある日突然、異世界へ召喚された。
もちろん、日本には帰りたい。家族にも会いたい。
その気持ちは、少しも変わっていない。
けれど、今の江理には、もう一つ、確かな想いがあった。
この場所が、愛おしい。
帰りたい場所は、元の世界だけではなくなった。
腕の中で、小さな命が、ふわりと笑った。
江理は、その頬に、そっと唇を寄せた。
これが、私の選んだ場所。
風が、庭の花々を揺らしていった。
その香りの向こうで、誰かが、江理の名を呼ぶ。
「エリー先生!」
診療所の方から、アイリスの声が響いた。
江理は、双子をオジーに預け、立ち上がった。
「はーい、今行きます!」
白衣の裾を翻し、診療所へと駆けていく。
その背中を、青空が、優しく包んでいた。
――完。
ここまで読んでいただいて大変ありがとうございました。
最終回になります。




