第百話 引き継ぎ
帝都ローズの皇宮に、エイトが久しぶりに姿を見せたのは、仁の出発を間近に控えた日のことだった。
「エイト殿」
「仁」
二人は、しばらく、無言で見つめ合った。
「アーサー陛下から、打診を受けた」
「ああ」
「俺に務まるかどうか、正直、自信はない」
珍しく、弱気な声が漏れた。
「お前が、長年積み上げてきたものを、簡単に引き継げるとは思えない」
「簡単だとは、私も思っていない」
静かに、答える。
「だが、お前になら任せられる。これは、謙遜でも世辞でもない」
「仁」
「お前は、帝国の宮廷医としての経験もある。ピーコックで、江理殿たちと築いてきた、新しい医療の形も知っている。両方を知る者は、お前の他にいない」
その言葉に、エイトは、しばらく黙っていた。
「分かった。引き受ける」
「ありがとう」
「礼を言うのは、まだ早いと言っただろう」
エイトが、口の端を上げた。
「最後まで、見届けてから言え」
「そうだったな」
小さく、仁も笑った。
◇
翌日から、引き継ぎの作業が始まった。
宮廷医としての職務、後宮の女性たちの病歴、長年積み重ねてきた記録の数々。
「これだけの量、よく一人で管理していたな」
エイトが、資料の山を見て、呆れたように言った。
「一人じゃない。アメリア殿や、桜子殿の力も借りていた」
「それでも、この量だ」
エイトは、記録の一枚を手に取った。
「この症例、覚えてる。難産だった側妃だろう」
「よく覚えているな」
「江理殿から、何度も相談を受けた。あの頃から、お前の診立ては、的確だった」
二人は、記録をめくりながら、これまでの症例を一つずつ確認していった。
誰を、いつ、どう診たか。何が功を奏し、何が反省点だったか。
その一つひとつに、仁の三十年近い歳月が刻まれていた。
「お前が築いたものは、記録だけじゃ測れないな」
エイトが、ぽつりと呟いた。
「どういう意味だ」
「患者たちの信頼だ。それは、紙には書けない」
その言葉に、仁は、少し目を細めた。
「それを、お前が引き継いでくれるなら、十分だ」
「サクラコ殿のことは、頼んでおいた方がいいな」
エイトが、ふと真剣な顔になった。
「仁。お前が抜けたあと、あの人のことは、俺たちが気にかけておく」
「頼む」
深く、頭を下げた。
「サクラコ殿は、強い人だ。だが、強い人ほど、弱さを見せるのが下手だ」
「分かってる。しっかり見ておく」
◇
引き継ぎは、医療の実務だけにとどまらなかった。
「後宮の方々との付き合い方も、覚えておいた方がいい」
仁が、そう切り出すと、エイトは、少し困ったような顔をした。
「俺は、江理殿たちのように、気さくに話すのは得意じゃない」
「無理に合わせる必要はない。ただ、誰に、どんな事情があるかは、知っておいた方がいい」
仁は、一人ひとりの名前を挙げながら、注意すべき点を伝えていった。
「サラ様は、以前体調を崩されたことがある。無理をなさらないよう、気を配ってほしい」
「分かった」
「セレネ様は、ご自分のことより、周りのことを優先されがちだ。だからこそ、先回りして声をかけるといい」
「それも、覚えておく」
エイトは、一つひとつ、丁寧にメモを取っていった。
その真剣な横顔に、仁は、安堵を覚えた。
「お前になら、本当に、任せられる」
「何度も言うな。照れる」
エイトが、珍しく頬を赤らめた。
その様子に、仁は、小さく笑った。
◇
作業の合間、シリルも顔を出した。
「レイモンド先生、お手伝いできることがあれば」
「ありがたい。だが、これは、私とエイト殿の仕事だ」
「そうですか……」
少し残念そうなシリルに、仁は、優しく声をかけた。
「お前には、お前の役目がある。パウラ殿と共に、送還術を完成させてくれ。それが、何よりの手伝いだ」
「はい!」
シリルは、その言葉に、表情を明るくした。
若い召喚士の成長を見届けられることも、仁にとって、ひそかな喜びだった。
◇
引き継ぎが進む中、桜子も、時折顔を出した。
「お二人とも、息が合ってますね」
「長い付き合いだからな」
仁がそう答えると、エイトも頷いた。
「こいつとは、若い頃からの仲だ。お互い、隠し事はなかったつもりだったが」
「一つだけ、あったがな」
仁の軽口に、エイトが苦笑した。
「それも、今は水に流した」
その穏やかなやり取りに、桜子は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
仁がいなくなっても、ここには、残る人たちがいる。
その事実が、わずかながら、桜子の心を支えていた。
◇
その帰り道、エイトが、桜子に声をかけた。
「サクラコ殿」
「エイト先生」
「少し、よろしいですか」
二人は、後宮の廊下を、並んで歩いた。
「仁から、頼まれました。あなたのことを、気にかけてほしいと」
「……そうですか」
「余計なお世話かもしれませんが」
エイトは、少し言葉を選びながら続けた。
「辛くなったら、一人で抱え込まないでください。私も、江理殿も、いつでも力になります」
「ありがとうございます」
桜子は、静かに頭を下げた。
「正直、まだ、どう受け止めればいいか、分かりません。でも」
「でも?」
「仁さんが、きちんと決めたことです。だから、私も、ちゃんと受け止めたいと思ってます」
その言葉に、エイトは、小さく頷いた。
「強い人ですね、あなたは」
「強くなんか、ないです」
桜子は、少し自嘲気味に笑った。
「ただ、弱いところを見せるのが、下手なだけかもしれません」
その答えに、エイトは、仁が以前言っていたことを思い出した。
強い人ほど、弱さを見せるのが下手だ、と。
「それでも、見せたくなったら、見せてください。誰かに頼ることは、弱さじゃありません」
その一言に、桜子の目が、わずかに潤んだ。
「覚えておきます」
◇
引き継ぎの最終日、仁は、エイトに最後の言葉を託した。
「エイト殿」
「何だ」
「宮廷医の仕事は、時に孤独だ。誰にも相談できないことも、ある」
「分かっている」
「それでも、一人で抱え込むな。お前には、江理殿たちがいる。ここにも、サクラコ殿や、アメリア殿がいる」
まっすぐ、エイトを見た。
「私のような、孤独にはなるな」
その言葉に、エイトは、深く頷いた。
「肝に銘じる」
二人の間に、長年の友情が、静かに、確かな形で結ばれていた。
窓の外には、長い引き継ぎの一日を締めくくるように、夕暮れの光が差し込んでいた。
積み重ねてきたものを、一つずつ手渡していく作業は、簡単ではなかった。
それでも、託す相手がいるということが、仁にとって、何よりの安心だった。




