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異世界転移した女医ですが、帰りたいのは元の世界だけではなくなりました ~辺境の村から始まる異世界診療記~  作者: 滝内亜依
第6章 それぞれの道を考え始めちゃった。

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第百話 引き継ぎ

 帝都ローズの皇宮に、エイトが久しぶりに姿を見せたのは、仁の出発を間近に控えた日のことだった。

「エイト殿」

「仁」

 二人は、しばらく、無言で見つめ合った。

「アーサー陛下から、打診を受けた」

「ああ」

「俺に務まるかどうか、正直、自信はない」

 珍しく、弱気な声が漏れた。

「お前が、長年積み上げてきたものを、簡単に引き継げるとは思えない」

「簡単だとは、私も思っていない」

 静かに、答える。

「だが、お前になら任せられる。これは、謙遜でも世辞でもない」

「仁」

「お前は、帝国の宮廷医としての経験もある。ピーコックで、江理殿たちと築いてきた、新しい医療の形も知っている。両方を知る者は、お前の他にいない」

 その言葉に、エイトは、しばらく黙っていた。

「分かった。引き受ける」

「ありがとう」

「礼を言うのは、まだ早いと言っただろう」

 エイトが、口の端を上げた。

「最後まで、見届けてから言え」

「そうだったな」

 小さく、仁も笑った。

 ◇

 翌日から、引き継ぎの作業が始まった。

 宮廷医としての職務、後宮の女性たちの病歴、長年積み重ねてきた記録の数々。

「これだけの量、よく一人で管理していたな」

 エイトが、資料の山を見て、呆れたように言った。

「一人じゃない。アメリア殿や、桜子殿の力も借りていた」

「それでも、この量だ」

 エイトは、記録の一枚を手に取った。

「この症例、覚えてる。難産だった側妃だろう」

「よく覚えているな」

「江理殿から、何度も相談を受けた。あの頃から、お前の診立ては、的確だった」

 二人は、記録をめくりながら、これまでの症例を一つずつ確認していった。

 誰を、いつ、どう診たか。何が功を奏し、何が反省点だったか。

 その一つひとつに、仁の三十年近い歳月が刻まれていた。

「お前が築いたものは、記録だけじゃ測れないな」

 エイトが、ぽつりと呟いた。

「どういう意味だ」

「患者たちの信頼だ。それは、紙には書けない」

 その言葉に、仁は、少し目を細めた。

「それを、お前が引き継いでくれるなら、十分だ」

「サクラコ殿のことは、頼んでおいた方がいいな」

 エイトが、ふと真剣な顔になった。

「仁。お前が抜けたあと、あの人のことは、俺たちが気にかけておく」

「頼む」

 深く、頭を下げた。

「サクラコ殿は、強い人だ。だが、強い人ほど、弱さを見せるのが下手だ」

「分かってる。しっかり見ておく」

 ◇

 引き継ぎは、医療の実務だけにとどまらなかった。

「後宮の方々との付き合い方も、覚えておいた方がいい」

 仁が、そう切り出すと、エイトは、少し困ったような顔をした。

「俺は、江理殿たちのように、気さくに話すのは得意じゃない」

「無理に合わせる必要はない。ただ、誰に、どんな事情があるかは、知っておいた方がいい」

 仁は、一人ひとりの名前を挙げながら、注意すべき点を伝えていった。

「サラ様は、以前体調を崩されたことがある。無理をなさらないよう、気を配ってほしい」

「分かった」

「セレネ様は、ご自分のことより、周りのことを優先されがちだ。だからこそ、先回りして声をかけるといい」

「それも、覚えておく」

 エイトは、一つひとつ、丁寧にメモを取っていった。

 その真剣な横顔に、仁は、安堵を覚えた。

「お前になら、本当に、任せられる」

「何度も言うな。照れる」

 エイトが、珍しく頬を赤らめた。

 その様子に、仁は、小さく笑った。

 ◇

 作業の合間、シリルも顔を出した。

「レイモンド先生、お手伝いできることがあれば」

「ありがたい。だが、これは、私とエイト殿の仕事だ」

「そうですか……」

 少し残念そうなシリルに、仁は、優しく声をかけた。

「お前には、お前の役目がある。パウラ殿と共に、送還術を完成させてくれ。それが、何よりの手伝いだ」

「はい!」

 シリルは、その言葉に、表情を明るくした。

 若い召喚士の成長を見届けられることも、仁にとって、ひそかな喜びだった。

 ◇

 引き継ぎが進む中、桜子も、時折顔を出した。

「お二人とも、息が合ってますね」

「長い付き合いだからな」

 仁がそう答えると、エイトも頷いた。

「こいつとは、若い頃からの仲だ。お互い、隠し事はなかったつもりだったが」

「一つだけ、あったがな」

 仁の軽口に、エイトが苦笑した。

「それも、今は水に流した」

 その穏やかなやり取りに、桜子は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 仁がいなくなっても、ここには、残る人たちがいる。

 その事実が、わずかながら、桜子の心を支えていた。

 ◇

 その帰り道、エイトが、桜子に声をかけた。

「サクラコ殿」

「エイト先生」

「少し、よろしいですか」

 二人は、後宮の廊下を、並んで歩いた。

「仁から、頼まれました。あなたのことを、気にかけてほしいと」

「……そうですか」

「余計なお世話かもしれませんが」

 エイトは、少し言葉を選びながら続けた。

「辛くなったら、一人で抱え込まないでください。私も、江理殿も、いつでも力になります」

「ありがとうございます」

 桜子は、静かに頭を下げた。

「正直、まだ、どう受け止めればいいか、分かりません。でも」

「でも?」

「仁さんが、きちんと決めたことです。だから、私も、ちゃんと受け止めたいと思ってます」

 その言葉に、エイトは、小さく頷いた。

「強い人ですね、あなたは」

「強くなんか、ないです」

 桜子は、少し自嘲気味に笑った。

「ただ、弱いところを見せるのが、下手なだけかもしれません」

 その答えに、エイトは、仁が以前言っていたことを思い出した。

 強い人ほど、弱さを見せるのが下手だ、と。

「それでも、見せたくなったら、見せてください。誰かに頼ることは、弱さじゃありません」

 その一言に、桜子の目が、わずかに潤んだ。

「覚えておきます」

 ◇

 引き継ぎの最終日、仁は、エイトに最後の言葉を託した。

「エイト殿」

「何だ」

「宮廷医の仕事は、時に孤独だ。誰にも相談できないことも、ある」

「分かっている」

「それでも、一人で抱え込むな。お前には、江理殿たちがいる。ここにも、サクラコ殿や、アメリア殿がいる」

 まっすぐ、エイトを見た。

「私のような、孤独にはなるな」

 その言葉に、エイトは、深く頷いた。

「肝に銘じる」

 二人の間に、長年の友情が、静かに、確かな形で結ばれていた。

 窓の外には、長い引き継ぎの一日を締めくくるように、夕暮れの光が差し込んでいた。

 積み重ねてきたものを、一つずつ手渡していく作業は、簡単ではなかった。

 それでも、託す相手がいるということが、仁にとって、何よりの安心だった。

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