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異世界転移した女医ですが、帰りたいのは元の世界だけではなくなりました ~辺境の村から始まる異世界診療記~  作者: 滝内亜依
第6章 それぞれの道を考え始めちゃった。

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第九十九話 レイモンドの三十年

 帰還の日取りが決まってから、仁は、少しずつ身辺を整理し始めていた。

 診療記録の束、使い込んだ医療道具、そして、これまで診てきた患者たちへの挨拶。

 一つひとつが、三十年近い歳月の重みを持っていた。

 ◇

「レイモンド先生、本当に、お辞めになるのですか」

 長年世話になってきた看護係の老女が、寂しそうに尋ねた。

「ああ。遠くへ、行くことになった」

「寂しくなります。先生に診ていただいて、何度命を救われたことか」

 その言葉に、仁は、静かに頭を下げた。

「こちらこそ、長い間、支えてもらった。礼を言うのは、私の方だ」

 仁が初めてこの皇宮に来た頃、まだ右も左も分からなかった自分を、この老女は何かと気にかけてくれた。

 誰にも本当の素性を明かせない中で、こうした小さな優しさの積み重ねが、仁にとって、どれほどの支えになってきたことか。

 ◇

 診療室の整理をしていると、古い木箱が出てきた。

 開けると、召喚されたばかりの頃に使っていた、簡素な医療道具が入っていた。

 この世界に来たばかりの頃、何もかもが手探りだった。

 現代医学の知識はあっても、それを形にする道具がない。

 薬草の性質も分からず、ただ、目の前の患者を何とかしたい一心で、試行錯誤を重ねた日々。

 あの頃の自分が、まさか三十年近くも、この世界で生きることになるとは、思ってもいなかった。

 ◇

 荷物をまとめながら、仁は、何を持っていくべきか迷っていた。

 この世界で得た知識、築いた関係、積み重ねた信頼。

 それらは、物として持ち運べるものではない。

 結局、荷物として残したのは、ごくわずかだった。

 長年使ってきた聴診器もどき――マルコが試作し、形にしてくれたもの。

 そして、桜子から贈られた、小さな押し花のしおり。

 多くを捨てて、わずかなものだけを抱えて、仁は、次の場所へ向かおうとしていた。

 ◇

 そこへ、エイトが顔を出した。

「片付けは、進んでいるか」

「ああ、だいぶ」

 エイトは、木箱の中の古い道具を見て、小さく笑った。

「懐かしいな。お前が、まだ要領を掴めずにいた頃の道具だ」

「よく覚えてるな」

「忘れるわけがないだろう。お前には、散々世話になった」

 二人は、しばらく、昔話に花を咲かせた。

 初めて共に診た患者のこと、意見がぶつかり合った治療方針のこと、夜を徹して症例を検討した日々のこと。

「お前が抜けた穴は、大きい」

 エイトが、ぽつりと呟いた。

「埋め合わせるのは、簡単じゃないだろうな」

「だから、お前に頼んでいる」

 仁が、そう言うと、エイトは、小さく息を吐いた。

「分かってる。引き受けるさ、お前の頼みなら」

「ありがとう」

「礼を言うのは、まだ早い。ちゃんと、最後まで見届けてから言え」

 その言葉に、仁は、小さく笑った。

 長年の友との、何気ないやり取り。

 それもまた、仁がこの世界で築いてきた、かけがえのないものの一つだった。

 ◇

 出発を数日後に控えたある日、思いがけない来客があった。

「マーサ殿?」

「わざわざ呼び出さなくても、これくらいは来るよ」

 マーサは、馬車の旅で少し疲れた様子を見せながらも、いつも通りの調子で笑った。

「ライリーは」

「国王になった身だ。そう簡単には、国を空けられないよ。だから、代わりにあたしが来た」

「わざわざ、ここまで」

「あんたとは、長い付き合いだろう。顔も見ずに見送るなんて、できないよ」

 二人は、しばらく、静かに向き合っていた。

「あんたの正体、知ってたのは、あたしだけだったね」

 マーサが、ぽつりと言った。

「どうして、お気づきに?」

「さあね」

 マーサは、意味深に目を細めた。

「本当の名前を隠して、違う名で生きる。そういうものの気配には、敏くなるのさ。あたしも、人のことは言えない身の上だからね」

「マーサ殿も、何か?」

「さあて、どうだろうね」

 はぐらかすように、マーサは笑った。

「長生きしてりゃ、誰にだって、一つや二つ、隠し事はあるものさ」

「そうかもしれません」

 仁は、小さく頷いた。

「マーサ殿がいなければ、この秘密を、もっと長く、一人で抱え込んでいたかもしれません」

「お互い様さ」

 マーサは、仁の肩を、軽く叩いた。

「帰ってからも、ちゃんと生きな。あんたの腕なら、向こうでも、きっと誰かの役に立つ」

「ありがとうございます」

「それと」

 マーサは、少し真剣な顔になった。

「桜子のこと、頼んだよ。あの子は、あんたのことを、ちゃんと見送るつもりでいる。最後まで、優しくしてやりな」

「もちろんです」

 仁は、深く頷いた。

 短い再会と、それ以上に短い別れだった。

 それでも、長年の秘密を分かち合ってきた者同士にしか分からない、確かな絆があった。

 ◇

 夜、誰もいなくなった診療室で、仁は、長年座ってきた椅子に腰を下ろした。

「レイモンドとして生きた日々も、確かに、私自身だった」

 誰にともなく、そう呟く。

 身代わりとして与えられた名前。それでも、その名で積み重ねてきた三十年は、紛れもなく、仁自身が生きた時間だった。

 患者を救った喜び。誰にも言えなかった孤独。そして、ようやく出会えた、心を許せる人。

 その全てを胸に、仁は、静かに目を閉じた。

 窓の外には、帝都ローズの夜が、いつも通り、静かに更けていった。

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