見えてしまったもの
奥の通路の先。
灯りの届かない角の向こうで、何かが動いた。
さっき聞こえた音と同じだ。
ベッドのスプリングが沈むみたいな、あの音。
「……誰か、いる?」
いる。
ミユは一歩だけ近づく。
フローリングの床が、やけに乾いた音を立てた。
曲がり角の向こう。
そこに、それはいた。
「――っ。」
言葉が止まる。
人の形をしている。
している、けど。
服を着ているのか、肌がそう見えているのか分からなかった。
上半身には、衣服の輪郭みたいなものが貼りついている。
でもそれは布ではなく、白く乾いた皮膚の一部が、服の形を真似しているようにも見えた。
下半身にも、布切れのような影が引っかかっている。
ちゃんと服を着ているとも言えない。
人間の生活を、途中まで真似たもの。
ミユには、そう見えた。
でも一番おかしいのは、そこじゃない。
動き方だった。
ベッドの上に座っている。
座っているはずなのに、姿勢が安定していない。
背中がゆらゆら揺れて、首が少し遅れて動く。
こっちを見ている。
……いや、“見ている感じがする”。
目が合っているかどうか分からないのに、視線だけが張り付く。
「……何!?」
ミユは思わず後ずさる。
嫌だ。
人に近いから余計に嫌だ。
さっきの部屋の“生活感”が、そのまま壊れた形でここにいる感じがする。
そいつが、ゆっくりと口を開いた。
言葉になっていない音が漏れる。
何かを言おうとしている。
でも意味にならない。
そのまま、立ち上がる。
動きが一拍遅れる。
足が床につくタイミングと、体重の乗り方がズレている。
――近づいてくる。
「ちょっと待って、来ないで!」
反射的に言う。
通じるわけがないのに。
そいつは止まらない。
ゆらゆらと、でも確実に距離を詰めてくる。
途中で一度、壁に肩をぶつける。
それでも止まらない。
そのまま、また歩く。
「いや無理なんだけど!」
声が上ずる。
逃げるか、どうするか。
考えるより先に、身体が動く。
「……っ。」
胸の奥がざわつく。
怖い。
でも、分かる。
あれはただの人じゃない。
何かが崩れて、形だけ残っている。
その違和感が、はっきり輪郭を持つ。
――見てしまった。
そう思った瞬間だった。
目の前のそれが、一歩踏み込んだ。
その動きが、今度はちゃんと見えた。
遅い。
でも、不気味にブレる。
「……っ、来るなら来なさいよ!」
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
でも、このまま押される方がもっと嫌だった。
ミユは踏み出した。
踏み出した、はいいけど。
「いや無理無理無理!」
一歩出た瞬間に後悔した。
距離、近い。
思ったより全然近い。
あと三歩もない。
あれが腕を伸ばしたら普通に届く距離だ。
そいつの動きが、ぐにゃりと揺れる。
まっすぐ来ているはずなのに、軌道が少しずつズレる。
近づいているのに、距離感が掴めない。
「ちょっと、ほんとにやめてって!」
言いながら、後ろに下がる。
でも、さっきと違う。
視界の中で、“どこがおかしいか”だけは妙にはっきりしていた。
胸のあたり。
正確には、胸の中心より少し右。
そこだけ、輪郭が変だ。
肌でも、影でも、空気でもない。
何かがずれて重なっているみたいな、変な違和感。
「……そこ!」
思わず叫んだ。
なんで分かるのかは分からない。
でもそこだ、と確信だけがあった。
そいつが一歩踏み込む。
ミユは反射的に手を前に出した。
「来ないで!」
その瞬間。
指先から、細い光が走った。
「――っ。」
眩しい、というほどでもない。
でも確かに、白い線が一瞬だけ空気を裂いた。
それはまっすぐ、さっき見えた“そこ”に当たる。
ぱちん、と乾いた音。
そいつの身体が、そこで一瞬だけ止まった。
「……え?」
ミユは自分の手を見る。
何も持ってない。
なのに今、何か出た。
もう一度、そいつを見る。
さっき当たった場所だけ、ほんの少しだけ黒く焼けたみたいに変色している。
「え、ちょっと待って、今の何?」
混乱している間にも、そいつはまた動き出す。
止まってない。
効いてる。
でも、止まってない。
「いやいやいや無理でしょ!」
後ろに下がる。
足がもつれそうになる。
呼吸が浅い。
でも、さっき見えた“そこ”は、まだ見えている。
そこだけ、やっぱり変だ。
なら――
「……もう一回!」
半分やけで、もう一度手を向ける。
さっきと同じように、感覚で。
何かを“押す”みたいに。
光が、また走る。
今度は少しだけ太い。
さっきと同じ場所に当たる。
じゅ、と小さく音がして、そいつの身体がぐらりと揺れた。
足が止まる。
「……効いてる?」
思わず呟く。
怖いままだけど、ほんの少しだけ、押し返せている感覚があった。
そいつの動きが、さっきより鈍い。
完全に止まってはいない。
でも、明らかに変わっている。
「……ほんとに?」
信じられない。
でも、やるしかない。
逃げ場なんてない。
また来る。
またあれが動く。
なら、その前に――
「来ないでって言ってるでしょ!」
三度目。
今度は、狙ったつもりはない。
ただ、あの“変な場所”を見て、そこに向けただけ。
光が走る。
当たる。
今度は少しだけ大きく、そいつの身体がぶれる。
ぐにゃり、と形が崩れる。
「……っ!」
いける。
そう思った瞬間だった。
視界が、揺れた。
「……え!?」
さっきまで見えていた“そこ”が、急にぼやける。
輪郭が消える。
どこがおかしいのか、分からなくなる。
「ちょ、待って、どこ!?」
焦る。
急に、分からなくなる。
さっきまであんなにはっきり見えていたのに。
そいつが動く。
今度は、早い。
「っ、やば――。」
腕が振られる。
とっさに後ろへ跳ぶ。
風を切る音が耳のすぐ横を通る。
「うそでしょ!」
距離が詰まる。
さっきより近い。
さっきより速い。
呼吸が乱れる。
手が震える。
もう一度、光を出そうとする。
でも――
出ない。
「……っ、なんで!?」
さっきと同じ感覚が掴めない。
焦るほど、分からなくなる。
どこを見るのか。
どこに向けるのか。
全部、ぐちゃぐちゃになる。
そいつが踏み込む。
もう避けきれない距離。
「――下がって。」
後ろから、知らない声がした。
やわらかい声だった。
なのに、その瞬間、足元の床が音もなく歪んだ。
ぴし、と。
細い亀裂みたいなものが、フローリングの上に走る。
「……え?」
次の瞬間。
その亀裂から、細い黒い棘のようなものが突き上がった。
躊躇いなく、まっすぐに。
そいつの身体を、下から貫く。
「――……っ。」
声にならない音が漏れる。
そいつの動きが止まる。
完全に、止まる。
棘は一本じゃない。
もう一つ、もう一つと、音もなく床を割って現れる。
逃げる方向に。
踏み出す位置に。
全部、先回りするみたいに。
気づいた時には、囲まれていた。
そいつは動けない。
動こうとするたびに、棘が増える。
足を上げれば、その先に。
腕を振れば、その軌道に。
まるで最初から、逃げ道がなかったみたいに。
「……なに、これ!」
最後に。
ひときわ太い棘が、床から静かにせり上がる。
ゆっくり。
でも、確実に。
それが、そいつの中心を貫いた。
一瞬だけ、空気が歪む。
それから。
ぱら、と。
そいつの身体が、崩れた。
粉みたいに。
煙みたいに。
形を保てなくなって、その場にほどけていく。
「……っ。」
ミユは動けなかった。
ただ、それを見ていた。
白い粒みたいなものが、空気に溶ける。
その一部が、ふわりとミユの方へ流れてくる。
「え、ちょ――。」
避ける前に、それは触れた。
肌に。
空気みたいに。
でも、確かに“何か”が入ってくる感覚があった。
「……なに、これ……。」
怖い。
でも、嫌じゃない。
むしろ、少しだけ――
足りなかったものが、戻るみたいな。
その瞬間、視界の端に黒いものが揺れた。
「……え?」
ミユの少し横。
手を伸ばせば届きそうで、でも触れようとすれば消えてしまいそうな距離に、黒いローブの輪郭が一瞬だけ浮かんでいた。
教室で見た時よりも。
知らない部屋で話した時よりも。
ほんの少しだけ、形が濃い。
顔は見えない。
でも、そこにいると分かる。
ローブは何も言わなかった。
ただ、ミユの方を向いたように見えた。
次の瞬間には、もう消えていた。
「……今の……。」
白い粒。
身体に入ってくる感覚。
少しだけはっきり見えた黒いローブ。
それらが、頭の中でうまく繋がらない。
でも、ひとつだけ引っかかった。
もしかして。
今の白いものを集めたら、あれはもっと話せるようになるんじゃないか。
そう思った瞬間だった。
「大丈夫?」
さっきの声が、もう一度した。
はっとして振り返る。
そこに、女の人が立っていた。
長い青紫の髪。
柔らかい茶色の瞳。
この変な空間の中で、そこだけ空気の温度が違うみたいに落ち着いている。
でも、その足元からは、さっきの黒い棘が伸びていた。
いつの間に来たのか分からない。
「……っ。」
言葉が出ない。
安心と、怖さと、混乱が一気に押し寄せる。
女の人は一歩、ミユの前に出た。
自然な動きで、間に入る。
さっきまでと同じ、やわらかい声なのに。
さっきの棘の光景が、頭から離れない。
「……よかった。」
女の人は、小さく息を吐いた。
「近くで変な気配がしたから来たんだけど、間に合った。」
それから、ミユを見る。
「でも、君、よく見えてたね。」
「……は?」
ミユは反射的に一歩下がった。
助けてくれた。
たぶん、それは分かる。
でも、目の前の人の足元からは、さっきの黒い棘が伸びていた。
あれを一瞬で止めたのも、この人だ。
やわらかい声なのに、何を考えているのか分からない。
「……あなたは、どっちですか?」
「どっち?」
「……敵か味方かってことです!」
女の人は少しだけ瞬きをした。
それから、困ったように笑う。
「少なくとも、君を傷つけるつもりはないよ。」
「……味方って意味ですか?」
「うん。そう思ってくれていいよ。」
ミユはまだ下がったまま、手を握った。
さっき光が出た指先が、まだ少しだけ熱い気がした。
女の人は、無理に近づいてこなかった。
ただ、崩れたものが消えた場所へ視線を向ける。
「怖かったでしょう。」
「……怖かったに決まってるじゃないですか!」
「うん。でも、最後まで戦ってた。」
「止まれなかっただけです……。」
「それでも。」
女の人は、ミユの手を見る。
「相手の変な場所が見えてた。そこを狙ってたでしょう。」
「狙ったっていうか……そこだけ、おかしく見えたんです。」
女の人は、少しだけ目元を緩めた。
「…そっか。なるほど。」
「……何ですか?」
「見えるんだね。」
ミユは自分の手を見る。
何も持っていない。
何も変わっていない。
いつもの自分の手だ。
それなのに、さっき確かに、そこから白い光が走った。
「光も出てた。あれ、君から出てたよ。」
「……何言ってるの……?」
「魔法に近いものだと思う。」
「魔法……?」
言葉が、頭の中に入ってこない。
「いや、そんなわけないでしょ!」
反射的に言ってから、ミユはもう一度、自分の手を見る。
「……いや、出たけど。出たけど、でも、魔法って……。」
言葉が続かない。
知らない場所に飛ばされて。
変なものに襲われて。
助けてくれたらしい人は、黒い棘を出して。
今度は、自分が魔法みたいなものを出したと言われている。
頭が追いつくわけがなかった。
女の人は急かさず、少しだけ目元を緩めた。
ミユはようやく声を絞り出した。
「……何、これ?」
震えていた。
女の人は、振り返ってミユを見つめる。
「大丈夫。」
その一言で。
張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。




