ベッドの並ぶ部屋
「……ぅ、っ。」
鼻先に、木の匂いがした。
顔を上げる。
「……は?」
そこは、部屋だった。
いや、部屋“みたいなもの”だった。
足元はフローリング。つやの消えた木の床がまっすぐ続いている。壁紙みたいな白い壁。ところどころに室内灯みたいな橙色の明かり。見た感じだけなら、誰かの家の中だ。
けれど、家ではありえない。
廊下の先にまた廊下があって、その途中にベッドが置いてある。
寝室みたいな空間の向こうに、また別のフローリングの通路が続いている。
部屋と部屋の境目が曖昧で、生活空間がそのまま迷路みたいに増殖していた。
ベッド。
扉。
サイドテーブル。
カーテン。
鏡台みたいな台。
乱れたシーツ。
閉じた扉。
半開きの扉。
何もない床。
そこにまたベッド。
「……何ここ。」
声が小さくなる。
気持ち悪い。
全部、人の生活に近い。
近いのに、近いだけで終わっていない。
誰かの家の中で見るはずのものばかりなのに、置かれ方も距離感もめちゃくちゃだ。
くつろぐためのものが、休めない配置で並んでいる。
眠るための場所が、通路を塞ぐ障害物みたいに置かれている。
それが嫌だった。
生活の形だけ真似して、中身がない感じがする。
しんと静まり返った空間の奥で、布の擦れる音がした。
「っ。」
ミユは反射的に振り向いた。
誰もいない。
ただ、少し先のベッドのシーツが、ほんのわずかに沈んでいるように見えた。
「……やめてよ……。」
喉がひりつく。
ここは何かいる。
でも、まだ見えない。
見えないのに、“人がいたあと”みたいなものだけが空間のあちこちに残っていた。
枕に残るへこみ。
床に片方だけ落ちた室内履きみたいなもの。
半分だけ開いた引き出し。
乱れたシーツ。
閉まりきらない扉。
どれもこれも、生活の途中で人が消えたみたいで、嫌に生々しい。
「……帰りたいんだけど……。」
半分泣きそうになりながら呟く。
でも、返事はない。
代わりに、奥の通路の先で灯りがひとつ、ふっと弱くなった。
消えかけて、また戻る。
その奥だけが、なぜか見えてしまう。
「いや、行かないでしょ普通……。」
そう言いながら、ミユは立ち上がった。
行きたくない。
ほんとに嫌だ。
絶対変だし、絶対ろくなことにならない。
でも、このままここで立っている方がもっと嫌だった。
周囲を見回す。
部屋の壁の一部に、鏡がかかっていた。
小さめの、楕円に近い壁掛け鏡。
こんな空間にあるのが自然すぎて、逆にぞっとする。
そこに映った自分の顔は青ざめていて、目だけがやけに落ち着かなかった。
「……最悪。」
思わず漏れる。
その瞬間、鏡の中の背景が、ほんの一拍遅れて揺れた。
「――え?」
ミユは息を止める。
今、ずれた。
自分じゃない。
後ろの景色が、一瞬だけ遅れた。
振り返る。
誰もいない。
もう一度、鏡を見る。
今度は何も起きない。
自分と、背後の迷路みたいな部屋が映っているだけだ。
「……うそでしょ。」
でも分かる。
この空間は、どこかがおかしい。
鏡も、床も、ベッドも、部屋の並びも、全部が少しずつ狂っている。
閉じ込められている、というだけじゃない。
ここに長くいたら、自分が何を怖がっているのかも、どこへ戻りたいのかも、少しずつ分からなくなりそうだった。
ひとりでいる感覚。
休みたい感覚。
誰かの部屋に入ってしまったみたいな落ち着かなさ。
見てはいけないものを見そうな感じ。
そういうものだけが、じわじわ広がってくる。
「……ほんとに、何なの?」
答えはない。
ただ、奥の方から、かすかに軋む音がした。
ベッドのスプリングが沈むみたいな、小さな音。
誰かが、座ったみたいな。
ミユは息を呑んで、その暗い通路の先を見た。
灯りの届かない曲がり角の向こうに、何かがいる。
まだ姿は見えない。
けれど、その気配だけが、やけに人間くさかった。




