星のついた建物に行けない
扉を開けた瞬間、やわらかい風が頬に触れた。
「……あれ?」
思わず、そんな声が出る。
外には、見たことのない景色が広がっていた。
扉を出て、最初に目に入ったのは、水だった。
家のすぐ前から少し下るように道が伸びていて、その先いっぱいに、大きな水面が広がっている。
海なのか湖なのか、すぐには分からなかった。
ただ、風を受けて細かく揺れるその水は、午後の光をきらきらと返していて、思わず息を止めるくらいの光景だった。
「……きれい。」
声が、勝手にこぼれた。
怖いとか、意味が分からないとか、帰りたいとか。
そういうものが全部消えたわけじゃない。
むしろ胸の奥にはまだぐちゃぐちゃに残っている。
それでも、その水面だけは、見てしまった。
知らない場所なのに、目を離せなかった。
湖の手前には、木造の家がぽつぽつと建っている。
家が並んでいる、というほど多くはない。
ミユが出てきた家の周りにも、小さな家がいくつか離れて立っているだけだった。
道の先には、宿屋らしい少し大きな建物が見える。
別の方角には、看板を下げた店のような建物があって、その奥にまた低い屋根が二つ、三つ。
土と石が混ざった道は、きっちり整えられた道路というより、人が何度も歩いて自然に固まった道に近かった。
ところどころに石が敷かれていて、雨でぬかるまないようにしてあるのかもしれない。
手作業で作られたみたいな看板が、風に少し揺れている。
田舎町みたいだ、と思う。
でも、違う。
町というには小さすぎる。
集落というには、人の手が入りすぎている。
生活の形はちゃんとあるのに、そこにいる人の数だけが、妙に少なく感じられた。
空の色も、光の当たり方も、風の匂いも、ほんの少しずつ見慣れたものから外れている。
見たことがないのに、妙に落ち着く。
静かだった。
人の気配はある。
どこかの建物の中で誰かが動いている感じもする。
遠くで木の軋む音がして、湖の方から風が流れてくる。
けれど、騒がしさはない。
たくさんの人がいる場所のざわめきではなく、少ない人たちがそれぞれの仕事をしている気配だけが、村の中に薄く散っていた。
この場所は、ちゃんと人が暮らしている。
普通に生活があって、普通に日常が流れている。
それは分かる。
分かるのに、ミユには、この村の輪郭が午後の光の中で少しだけ薄く見えた。
今はそこにある。
でも、ずっとそうだとは言い切れない。
ふと目を離したら、何かが少しだけ変わってしまいそうな頼りなさがあった。
「……何これ……。」
暖かいのに、掴めない。
ちゃんとあるのに、少しだけ遠い。
その違和感が、じわじわと胸の奥に沈んでいく。
ミユは小さく息を吸って、視線を道の先に向けた。
「……ギルド、探さないと。」
ここに立っているだけじゃ、何も分からない。
怖さと、変な落ち着きと、その両方を抱えたまま、ミユは一歩、知らない場所の中へ踏み出した。
*
星のついた建物は、家を出て少し左に進むと道の先に見えていた。
近い。
そう思って歩き出したはずだった。
けれど、なぜか少しも近づいている気がしない。
星のついた建物は、そこに見えている。
見えているのに、道だけがそこへ続いていないような気がした。
道を進む。
午後の光が届いているはずなのに、一歩ごとに周囲の空気が少しずつ重くなる。
「……やだな……。」
小さく呟いた、その時だった。
道の先の空気が、ふっと揺れた。
風のせいじゃない。
景色そのものが、わずかに歪んだ。
「……何?」
ミユは足を止める。
石畳の少し先。
湖からの光を受けた空間が、水を垂らした絵みたいに、ゆらりと波打った。
「え?」
一歩、下がる。
目を擦って、もう一度見る。
消えない。
むしろ、広がる。
石畳の線が曲がる。
湖の光が伸びて、家の壁がねじれたみたいに見える。
空気そのものに裂け目が入ったみたいだった。
「……ねえ、今度は何?」
声が震えた。
さっき、教室からここに来たばかりだ。
まだ何も分かっていない。
家も、湖も、ギルドも、この村のことも。
何ひとつ分からないまま、また目の前の景色が壊れようとしている。
「いい加減にして……!」
逃げよう、と思った瞬間には遅かった。
ぐにゃり、と地面の感触が変わる。
「っ、ぁ――!」
足元が抜けたわけじゃない。
吸い込まれたわけでもない。
視界が反転する。
知らない村の道。
石畳。
木造の家の壁。
それらが一枚ずつ剥がれるみたいに薄くなって、次の瞬間、ミユは硬い床に手をついていた。




