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知らない部屋

次にミユが膝をついていたのは、木の床の上だった。


「っ、いた……!」


 板張りの感触。


 冷たい木。


 少し乾いた布と、閉めきった部屋の匂い。


 さっきまで、水の中みたいな音がしていた気がする。


 なのに、身体は濡れていない。


 ただ、全身の内側だけがまだ流されているみたいに、気持ち悪く揺れていた。


 ミユは片手を床についたまま、浅く息をした。


「……何……今の……。」


 声が震える。


 顔を上げて、息が止まった。


 そこは知らない部屋だった。


 狭すぎず、広すぎない。


 寝台と机と棚がある。


 最低限暮らせそうな形はしているのに、全部が“自分のものじゃない”と分かる程度に、他人の気配を残していた。


 窓際の椅子。


 端に置かれたランプ。


 棚に並ぶ使い込まれた器。


 本が数冊。


 机の上には、置き方に癖のある小物が少し。


 誰かがここで生活していた。


 でも、それは自分じゃない。


「……何ここ……。」


 自分の部屋じゃない。


 ホテルでもない。


 知らない誰かの生活の中に、いきなり放り込まれた感じだった。


 ミユは膝を立て、ふらつきながら立ち上がる。


 窓の外を見る。


 見知らぬ景色があった。


 木造の建物。


 石畳の道。


 遠くで風に鳴る看板。


 それに、窓の向こうに見える湖のような水面。


 知らない。


 何もかも。


「……うそでしょ。」


 そう言った声は、思ったより冷静だった。


 それが、逆に気持ち悪かった。


 本当なら、もっと叫ぶとか、泣くとか、腰が抜けるとか、そういう反応をする場面のはずだった。


 でも、状況があり得なさすぎて、感情の方が追いついてこない。


 知らない部屋。


 知らない景色。


 さっきまで教室にいたはずの自分。


 全部がうまく繋がらない。


「……夢?」


 口に出してみる。


 でも、膝をついた木の床は冷たかった。


 指先に残る痛みも、喉の奥の乾きも、妙にはっきりしている。


 夢にしては、嫌なところだけ現実っぽかった。


 教室は?


 学校は。


 前の席の子は?


 さっきまで自分の周りにあったはずのものが、どこにもない。


 スマホを出そうとして、手が少し震えた。


 画面はつく。


 でも、表示されたのは圏外の文字だった。


「……え? なに? ……最悪。」


 分かっていた気もする。


 それでも、実際に圏外と出ると、喉の奥がぎゅっと詰まった。


 その時、部屋の隅で黒いものが揺れた。


「……っ。」


 いた。


 黒いローブ。


 教室で見たもの。


 廊下で見たもの。


 水差しのそばで、黒い糸みたいに見えたもの。


 今度は消えない。


 やっぱり顔は見えない。


 でも、教室で見た時よりは、少しだけ形があった。


 さっきは、ぼろぼろの布が人の形を真似しているだけみたいだった。


 今は、裂けた裾も、擦り切れた袖も、わずかに俯くような動きも分かる。


 はっきり見えるようになった、というほどではない。


 けれど、さっきよりは確かに“そこにいる”。


 それが分かるのが、余計に気持ち悪かった。


 でも、ちゃんと立っているというより、立っている形をどうにか保っているみたいだった。


「ねえ!」


 声が思ったより大きく出た。


 怖さと怒りと混乱が、まとめて口から飛び出す。


「何ここ! 何したの!? ていうか何なの、あんた!」


 ローブ姿は、すぐには答えなかった。


 ただ、薄い裾だけが、風もないのにかすかに揺れている。


「……違う。」


 掠れた声だった。


 低いのか高いのかも分からない。


 言葉そのものを、無理やり喉の奥から引っ張り出しているみたいな声。


 ミユは眉を吊り上げた。


「何が?」


「……呼んだ、わけじゃ……ない。」


「は?」


 頭に血が上る。


 呼んだわけじゃない。


 それが何の言い訳になるのか、全然分からなかった。


「じゃあ何? 私が勝手に来たって言いたいの!?」


「……違……。」


「違うって何が違うの! 教室にいて、あんたが見えて、水差し触ったらここにいたんだけど!?」


 怒鳴った声が、知らない部屋の壁に跳ね返る。


 ローブ姿は、少しだけ俯いたように見えた。


「……ごめ……ん。」


 ミユは一瞬だけ言葉を失った。


 ごめん。


 今、確かにそう言った。


 でも、その一言で納得できるような状況ではなかった。


「ごめんで済む話じゃないって!」


「……繋がって……しまった……。」


「何が!」


「……流れが……開いて……。」


「だから、何の話!」


 ローブ姿は何かを言おうとした。


 でも、声が途中で崩れた。


 言葉が形になる前に、砂みたいにほどけていく。


 ミユには、何も分からない。


 分からないのに、相手が焦っていることだけは妙に伝わってくる。


 それが余計に腹立たしかった。


「ちゃんと説明してよ!」


「……キミまで……。」


「え?」


「……流れて……。」


 ローブ姿の輪郭が、一瞬だけ大きく揺れた。


 ミユは思わず口を閉じる。


 流れて。


 その言葉だけは、さっきの感覚と繋がった。


 落ちたのではなく、流された。


 水はないのに、大きな流れにさらわれて、ここまで来た。


 でも、だから何だというのか。


 自分がここにいる理由にはなっても、納得できる説明にはならない。


「……つまり、あんたのせいでしょ。」


 声が低くなる。


「私、連れてこられたんでしょ。」


「…………。」


 ミユは床を踏んだ。


 靴の底が、木の板を小さく鳴らす。


「今すぐ。元の教室に戻して。」


 ローブ姿は動かない。


 しばらくの沈黙のあと、掠れた声が落ちた。


「……戻せ……ない。」


「は?」


「……今は……まだ……。」


「何それ。」


「……足り……ない……。」


「何が!」


 返事はない。


 ミユは唇を噛んだ。


 何が足りないのか。


 何を戻せないのか。


 全然分からない。


 でも、ローブ姿が何かを隠しているというより、言葉にできないまま壊れかけているようにも見えた。


 それが分かってしまうのが、嫌だった。


 分かったところで、許せるわけではないからだ。


「意味わかんないんだけど。」


「……ごめん。」


「謝ればいいと思ってない?」


「………。」


 返事はなかった。


 部屋の中に、嫌な沈黙が落ちる。


 ミユは荒く息を吐いて、周りを見回した。


 知らない寝台。


 知らない机。


 知らない棚。


 知らない窓の外。


 ここにあるものは全部、誰かのものだった。


 その誰かがどこにいるのかも分からない。


「ここ、誰の部屋?」


 ローブ姿は、少し間を置いてから言った。


「……ここ……しばらく……使って……いい……。」


「は?」


「……しばらくは……安全……。」


「いや、誰の許可で言ってんの!? この部屋の人は!?」


 ローブ姿は答えない。


 答えられないのか。


 答えたくないのか。


 ミユには判断できなかった。


「安全って何。外は危ないの?」


「……外……。」


 ローブ姿はそこで黙った。


 続く言葉が出てこない。


 ミユは苛立って、髪をかき上げた。


「本当に何なの……。」


 その時、ローブの裾がふっと薄くなった。


 ミユは息を呑む。


「ちょっと待って。消えないでよ。」


「……星……。」


「え?」


「星が……ついた……建物……。」


 ローブ姿は、途切れ途切れにそう言った。


「……そこ……行って……。」


「星? 建物? どこにあるの。何で行かなきゃいけないの。」


「……ギルド……。」


「ギルド?」


 聞いたことはある。


 ゲームとか、漫画とか、そういう中で。


 でも、自分の生活の中で使う言葉ではなかった。


 ミユは眉を寄せる。


「そこに行けば帰れるの?」


「……ユノ……。」


「え?」


「……話……して……。」


「誰それ。ギルドにいる人?」


 ローブ姿の輪郭が、また薄くなる。


 今度はさっきよりも大きく崩れた。


 ミユは反射的に手を伸ばす。


「待って。まだ何も分かってない。」


「……ごめ……。」


 掠れた声が、かすかに残る。


 それが最後だった。


 ローブ姿は、その場から抜け落ちるように消えた。


 煙みたいでも、光みたいでもない。


 ただ、そこにあった形だけが保てなくなって、部屋の空気にほどけたみたいだった。


「…………は?」


 しばらく声が出なかった。


 それから遅れて、怒りが込み上げる。


「言いたいことだけ言って消えないでよ!」


 叫んでも、返事はない。


 勝手に現れて、勝手に違うとか言って、勝手に謝って、肝心なことは何も説明しないまま消えた。


 最悪だった。


 本当に最悪だった。


 怖い。


 意味が分からない。


 帰りたい。


 今すぐ。


 でも、じゃあどうするのか。


 ミユは乱れた息のまま、もう一度部屋を見回した。


 知らない寝台。


 知らない器。


 窓の外の知らない景色。


 何も分からない。


 あるのは、この部屋と、星のついた建物という言葉だけ。


 ギルド。


 ユノ。


 そこへ行けば、少なくとも今よりは何か分かるのかもしれない。


「……行くしかないじゃん。」


 自分に言い聞かせるみたいに呟く。


 スマホを見る。


 やっぱり圏外だった。


 未返信のままのメッセージ画面が、そこに残っている。


『帰り寄れる?』


 たったそれだけの文が、妙に遠かった。


 返してない。


 放課後、どうするかも決めていなかった。


 ついさっきまで教室で、どうでもいい話をしていたはずなのに。


 それが今、どこにもない。


 その事実が、遅れて胸の奥に刺さる。


「……ほんと、何なの……。」


 見知らぬ場所の空気が、薄く布を揺らした。


 外のどこかで、鐘みたいな音がする。


 ミユは深く息を吸って、乱暴に吐いた。


「……行くか。」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、扉へ向かう。


 知らない部屋の床板が、靴の下で小さく鳴った。


 その音だけが不気味なくらい静かに、もう元の教室には戻れないのではないかという不安を、ミユの足元へゆっくり沈めていった。

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