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黒いローブと見覚えのない水差し

 頬に、うっすら机の跡がついている気がした。


 最初に戻ってきたのは、そんな間の抜けた感覚だった。


 あ、寝てた。


 ミユはそう思って、ゆっくり目を開けた。


 視界の下半分はまだ少しぼやけていて、窓から差し込む午後の白い光だけが先に目に入る。


 教室の空気はぬるくて、少しだけ乾いていた。


 五時間目と六時間目のあいだの、あの中途半端にだらけた時間帯だ。


 すぐそばで誰かの笑い声がした。


「絶対そっちの方が似合うって。」


 前の席の子の声だ。


 寝る前までしていた会話の続き。リップの色味がどうとか、限定がどうとか、そういうどうでもいい話。


 頭の奥で、居眠りする前の空気がゆっくり繋がる。


 そうだ。


 昼休み明け、前の席の子と新作のコスメの話をしていた。


 ピンクベージュにするか、少しオレンジっぽい色にするか。


 限定って言葉に弱いの、ほんと分かりやすいよね、みたいな話で小さく笑っていたはずだ。


 スマホには未返信のメッセージが一件あった。


『帰り寄れる?』


 まだ返していない。


 行ってもいいし、今日はだるいって断ってもいい。


 そういう、別に大事件じゃない予定。


 今日が特別いい日だったわけじゃない。


 小テストは返ってくるし、古典は眠いし、放課後どうしようかなってぼんやり考えてるくらいの、普通の日。


 でも、その普通がちゃんと自分の生活だった。


 教室のざわめき。


 机を引く音。


 誰かがシャーペンを落とす音。


 先生が来る前の、ちょっとゆるんだ空気。


 なのに。


「……あれ?」


 ミユは眉を寄せた。


 音が、遠い。


 聞こえてはいる。


 笑い声も、机を動かす音も、誰かが小さく喋っている気配も、たしかにある。


 なのに全部が、薄い膜を一枚挟んで届いてくるみたいに、少しだけ曇っていた。


 教室は明るい。


 窓も、黒板も、前の席の背中も、ちゃんとそこにある。


 おかしいのは、教室じゃない。


 たぶん、自分の方だ。


「……何これ?」


 小さく呟いた声まで、やけに乾いて聞こえた。


 身体を起こそうとして、ミユは机に手をついたまま止まる。


 妙に、力が入らない。


 熱があるとか、貧血っぽいとか、そういう分かりやすい不調じゃない。


 ただ、身体の中の何かが少し抜けている感じがする。


 指先も肩も胸の奥も、自分のもののはずなのに、ちょっとだけ頼りない。


「……やだな。」


 前の席を見る。


 さっきまで話していたはずの子が、そこにいる。


 髪型も、制服のリボンの色も分かる。


 顔もちゃんと見える。


 なのに、見たはずの印象が次の瞬間には少しだけ掴みにくくなる。


 周囲のクラスメイトも同じだった。


 みんないる。


 たぶん会話もしてる。教室の形も保ってる。


 それなのに、全部がほんの少しだけ遠い。


 そこにあるはずの温度が、自分のところまでうまく届いてこない。


 気持ち悪い。


 ミユは息を浅く吸って、窓の外を見る。


 グラウンドも、隣の校舎も、曇りかけの空も見える。


 いつもの景色だ。


 ちゃんと知ってる景色なのに、見ている自分の感覚の方が少しだけずれていた。


 そのとき、視界の端に黒いものが引っかかった。


「……え?」


 反射的にそっちを見る。


 教室のいちばん後ろ、掃除用具入れの横。


 そこに、ローブ姿の何かがいる。


 全身を覆う、ぼろぼろの布――のように見えた。


 黒とも灰色ともつかない色で、裾は裂け、袖口は擦り切れているように見える。


 顔も隠れている。というより、そこだけ暗く沈んでいる。


 男か女かも分からない。


 背の高さも体つきも、ちゃんと見ようとすると曖昧になる。


 なのに、“そこにいる”ことだけが嫌にはっきりしていた。


「誰……?」


 声に出したのに、誰も振り向かなかった。


 前の席の子も、その隣の子も、誰ひとり後ろを見ない。


 ミユだけだった。


 それが見えているのは、自分だけなんだと分かった。


「ちょっと待って、何あれ……!?」


 視線を逸らす。


 もう一度見る。


 いない。


「……は?」


 さっきまでいた場所が空っぽだった。


 背筋がぞわっとする。


 見間違い。


 寝ぼけてる。


 そう思おうとしたのに、うまくいかなかった。


 あんなにはっきり見たものを、なかったことにはできない。


 ミユは教室の後ろを見たまま、机に置いた手に力を込める。


 その瞬間、窓際の床に黒い影のようなものが揺れた。


「っ。」


 さっきのローブではない。


 いや、同じものなのかもしれない。


 けれど、そこに立っているというより、床と壁の境目に滲んでいるみたいだった。


 水面に落ちた墨が広がるように、黒い布の端だけがふらっと揺れて、すぐに薄くなる。


 そこにあるはずのないものが、ミユにだけ見えていた。


「……なんなの?」


 放っておけばいい。


 絶対その方がいい。


 そう思うのに、気になる。


 見えたものを見なかったことにして席に戻る方が、もっと気持ち悪かった。


 ミユは椅子を引いた。


 脚が床を擦る音が、自分だけに大きく聞こえる。


 なのにやっぱり、誰もこっちを見ない。


 教室の後ろへ向かう。


 窓際の黒い揺らぎはもう消えていた。


 ミユは立ち止まり、周囲を見回す。


 何もない。


 普通の教室だ。


 でも、教室の扉の向こう側に、一瞬だけ黒い裾のようなものが見えた気がした。


「……今、いたよね?」


 誰に聞かせるでもなく言って、ミユは廊下へ出た。


     *


 廊下は、教室よりは少しだけ現実感があった。


 ワックスの匂いも、遠くの足音もある。


 けれどやっぱり、自分の感覚の方が少しずつ噛み合っていない。


 旧校舎側の通路の入口に、また黒いものが揺れた。


 ローブ姿の何か。


 そう思った時には、もういない。


「何なのほんとに……。」


 だんだん腹が立ってきた。


 廊下のあちこちに薄く滲んで、消えて、また少し離れた場所に揺れる。


 壊れた映像が何度も飛ぶみたいに、黒い布の断片だけが見えたり消えたりしていた。


 それを、ミユだけが見てしまっている。


「……無理。普通に怖くなってきたんだけど。」


 引き返した方がいい。


 絶対にそうした方がいい。


 そう思ったのに、足は止まらなかった。


 見えているものを、見なかったことにする方がなぜか怖かった。


 角を曲がる。


 廊下の空気が、少しだけ重くなった。


 旧校舎側の通路は、人が少ない。


 明かりも少し暗い。


 窓から入る光だけが、床に白く伸びている。


 その光の端に、黒い裾がふらっと揺れた。


「そこ……?」


 近づく。


 消える。


 また少し先に、黒い影が滲む。


 追いつけそうで追いつけない。


 でも、逃げている感じでもない。


 誘導されているような感じでもない。


 ただ、形を保てないものが、校舎の中をふらふら漂っているように見えた。


「……なんで私だけ見えるの?」


 答えはない。


 ミユの声だけが、乾いた廊下に落ちる。


 やがて、理科準備室の前で空気が変わった。


 ローブ姿は、もうどこにもいない。


 ただ、扉の隙間から、冷たい気配だけが漏れている。


 黒いものがそこに入ったのか。


 最初からそこから出ていたのか。


 ミユには分からなかった。


「……ここ?」


 ミユは準備室の扉を見る。


 古びた引き戸。


 見慣れているはずなのに、そこだけ空気が沈んで見えた。


 暗いというより、重い。


 開けない方がいい。


 そう思った。


 でも、閉じたままにしておくのも怖かった。


 このまま教室に戻って、何もなかったことにして、あの遠い音の中に座り直す。


 それはそれで、どうしようもなく怖い気がした。


「……ほんとに、意味わかんない。」


 ミユは準備室の扉に手をかけた。


 少しだけ力を入れる。


 引き戸は、思ったより簡単に開いた。


     *


 薬品棚。


 使われなくなった実験器具。


 積まれた段ボール。


 準備室そのものは普通だ。


 少し暗くて、少し埃っぽい学校の部屋。


 けれど、部屋の中央にあるものだけが異様だった。


「……壺? いや……水差し?」


 台の上に置かれた、ひとつの水差しのような物。


 抱えられそうな大きさ。


 灰白色の表面は焼き物みたいなのに、ところどころ鈍く光を返している。


 ひびに見える筋が模様みたいに表面を巡っていて、それが本当に割れ目なのか飾りなのか分からない。


 不気味なのに、少しだけ神聖な感じもした。


「何これ……。」


 水差しの周りだけ、空気が違う。


 重い。


 静かすぎる。


 部屋の音がそこに吸われているみたいだ。


 ミユは背後を振り返る。


 誰もいない。


 ローブ姿も、もう見えない。


「ちょっと……。」


 ふざけないで、と思う。


 見えたのは確かだった。


 でも、何かを言われたわけじゃない。


 呼ばれたわけでもない。


 ただ、自分だけが見えて、自分だけがここまで来てしまった。


「いるの?喋ってよ。意味わかんないんだけど。」


 当然、返事はない。


 その沈黙が、余計に腹立たしかった。


 ミユは水差しに近づいた。


 ただ、表面を走るひびのような模様が、本当に割れ目なのか確かめたかっただけだった。


 縁の近くに、黒い糸のようなものが絡んでいるように見えた。


 さっきのローブの繊維に似ていた。


 ミユは眉を寄せる。


「……これ、さっきの……?」


 指先を伸ばす。


 ほんの少し触れて、すぐ離すつもりだった。


 指先が、灰白色の縁に触れる。


 その瞬間、水差しの表面を走る線がふっと白く浮いた。


「――え。」


 床が、沈んだ。


 落ちた、と思った。


 でも違う。


 下へ落ちているんじゃない。


 流されている。


 耳鳴りが水の中みたいに遠くなる。


 視界が傾き、準備室の棚も、壁も、窓の外の空も、形を保ったままゆっくり横へ流れていく。


 教室のざわめきが遠ざかる。


 廊下の匂いも、床の硬さも、机の跡が残った頬の感覚さえ、薄い水に溶けるみたいにほどけていく。


 水はない。


 なのに、全身が大きな流れにさらわれていた。


 押し出されるように。


 運ばれるように。


 ミユは手を伸ばそうとした。


 でも、自分の手がどこにあるのか分からない。


「ちょ、待――。」


 声は水面に落ちたみたいに途切れた。


 次の瞬間、ミユの身体はどこかへ投げ出された。


 遠くで、水の音がした気がした。


     *

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