黒い棘と白い靄
女の人は、まだミユを見ていた。
「動ける?」
問われて、ミユは一瞬だけ口を開きかける。
動けるかどうかなんて、自分でもよく分からなかった。
足は震えてるし、息も変だし、さっきの変な感覚もまだ抜けていない。
皮膚の下を、見知らぬ何かが薄く流れているみたいで気持ち悪い。
でも、ここで無理だと言ったら、本当にその場に崩れそうで嫌だった。
「……たぶん。」
やっとそれだけ言う。
言った瞬間、自分でちょっと後悔する。
たぶんって。
「うん。じゃあ、そのまま後ろに。」
静かな声だった。
優しいのに、逆らう余地がない。
ミユはこくりと頷いて、一歩下がる。
そのすぐ前で、奥の暗がりがまた揺れた。
まだいる。
一つじゃない。
曲がり角の向こうの半開きの扉の隙間。
ベッドとベッドのあいだ。
さっきまで気配だけだったものが、今は少しずつ輪郭を持って見える。
人に似た何か。
生活の途中で崩れたみたいなものたちが、静かに、でも確実にこちらを向いていた。
「……まだいるんですけど。」
「うん。」
女の人は前を見たまま答える。
「いるね。」
「いるね、じゃなくて――。」
言いかけて、言葉が少し崩れる。
敬語をちゃんと使おうとしたのに、喉のところでひっかかる。
「……まだいるんだけど。」
奥の気配が動く。
また来る。
「大丈夫。」
またそれだ。
そればっかりなのに、ちゃんと本当に聞こえる。
女の人が、すっと右手を上げる。
それだけだった。
詠唱もないし、構えらしい構えもない。
というか魔法ってこう、呪文とか唱えるんじゃないの?
ただ、何かを確かめるみたいに指先をわずかに動かしただけ。
瞬間。
床に、黒い線が走った。
「……っ。」
フローリングの板目に沿うようでいて、そうじゃない。
部屋の形にも家具の位置にも関係なく、まるで最初からそこに刻まれていた見えない筋だけが今になって浮かび上がったみたいに、細い黒が空間へ滲む。
一本。
また一本。
それは増えていくというより、見えるようになっていく感じだった。
そして、最初に踏み出した一体の足元で、ぴし、と音が鳴る。
黒い棘みたいなものが、床の下から突き上がる。
細く、鋭く、まっすぐに。
床を破ったはずなのに、床は壊れていない。
木の板の下から生えてきたんじゃなくて、その位置にだけ“刺さる”ことが決まっていたものが、急に姿を見せたみたいだった。
一本目が足を貫く。
二本目が逃げようとした脇腹へ届く。
三本目は、その少し先。
まだ届いていないのに、次に避けるはずだった場所を先に塞いでいる。
「……なにそれ!?」
思わず漏れた。
怖い。
さっきまで自分を受け止めてくれていた人と、同じ人のやることに見えなかった。
でも女の人は、まるで散らかった部屋を片づけているみたいな顔で前を見ている。
……いや、待って。
その顔、さっき私と話してた時とほとんど同じなんだけど。
そんな穏やかな顔で、敵の逃げ道を全部潰してるんだけど。
え。
こわっ。
ミユは思わず息を止めた。
奥の一体が無理やり身をひねる。
その軌道へ、また黒い線が走る。
半開きの扉の向こうから伸びてきた腕が、ぎこちなく振られる。
その腕が通るはずだった場所に、先に尖った黒が生える。
遅いわけじゃない。
むしろ逆だ。
全部、先回りしている。
「――っ。」
目の前の一体が、棘みたいなものに縫い止められたまま暴れる。
その足元から、今度は太い黒がゆっくりと伸び上がった。
ゆっくりなのに、確実だった。
ためらいがない。
それが一番怖かった。
それはそのまま、中心を貫く。
空気がひずむ。
人の形をしていたものが、一瞬だけ内側からほどけるみたいにぶれたかと思うと、次の瞬間には、白い靄みたいな粒になって崩れた。
終わりじゃない。
他のものも来る。
でも、来る先から止められる。
扉の影から現れたものは、足を出した瞬間に床から黒い棘が立って崩れた。
ベッドの向こうから覗いたものは、その輪郭ごと黒い線に縫い付けられて、形を保てなくなった。
女の人は、ただそこに立っているだけなのに。
部屋の方が、女の人のために動いているみたいだった。
怖いくらい静かだった。
悲鳴も、派手な音もない。
ただ、固定されて、逃げ道をなくされて、最後にほどけて消えていく。
それだけ。
「……っ。」
ミユは息を詰めたまま、その光景から目を離せなかった。
最後の一体が、曲がり角の影から半身だけを出したところで止まる。
そいつだけは少し違った。
「ねえ、あれだけなんか変な感じがするっ……。」
他よりも輪郭が濃い。
生活の残り香みたいなものが妙に強い。
崩れかけの人形じゃなくて、何かもう少し中心に近いもの。
そんな感じがする。
女の人も、それに気づいたらしい。
ほんの少しだけミユを見て目を細めた。
「……ああ、そっちか。」
呟く。
次の瞬間、床じゃなく、壁際の鏡台の下から黒いものが伸びた。
「え。」
そこ。
そこから出るの、と思った時にはもう遅い。
それは床を裂かない。
壁も壊さない。
ただ、その一体の“そこにいる理由”を見抜いて刺しているみたいに、ぴたりと急所へ届いた。
そいつの身体が大きく揺れる。
輪郭が、ぶれる。
人の形が保てなくなる。
その胸元のあたりから、何かがふっと零れた。
淡い、白い霧のような。
粒のような。
ミユがさっき触れたのと同じだ。
それが、ふわりと浮いて、今度は真っ直ぐ女の人の方へ流れていく。
女の人は避けなかった。
そのまま受ける。
白い靄は、彼女の指先や袖口に吸い込まれるみたいに消えた。
「……今のなに? 白い霧みたいな?」
「魔素。」
女の人があっさり言う。
その返事に、ミユは一拍遅れて反応した。
「まそ……?」
「あとで説明するね。」
「またそれ!」
「うん。ここを何とかしてからね。」
「ほんとに説明してくれる!?」
自分でも変だと思う。
こんな状況で、なんでいつものテンポみたいに返してるんだろう。
でもそうでもしないと、見たもの全部が重すぎた。
女の人はようやく少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
「うん。順番にね。」
その言葉と同時に、最後の一体もほどけた。
静かだった空間が、さらに静かになる。
さっきまでの嫌な気配が、ふっと薄くなる。
ベッドも、扉も、鏡も、全部まだそこにある。
あるのに、さっきまでそれらの隙間に張りついていた“何か”だけが抜け落ちて、部屋そのものが急に軽くなった気がした。
「……終わった?」
「魔物はね。」
「まもの!?」
「場所がまだ。」
女の人は前を向いたまま、少しだけ手を広げる。
「ここ、もう崩れるから。近くに来て。」
「え?はい!」
その言い方が、なんだか腹立つくらい落ち着いていた。
でも、さっきみたいに逆らう気にはなれない。
ミユはすぐに女の人のそばへ寄る。
その瞬間、足元が大きく揺れた。
「うわっ!」
フローリングが軋む。
部屋の奥のベッドが、輪郭ごと揺らぐ。
壁紙みたいだった白い壁が、今度は本当に薄い紙みたいにめくれ上がる。
向こうに見えるのは、別の部屋じゃない。
白い光の筋だ。
「うわ、またこれ!?」
「侵食がほどけてる。」
「分かる言い方して!」
「終わるってこと。」
鏡が割れる。
いや、割れたように見えただけで、音はない。
そこに映っていた迷路みたいな部屋の像だけがばらばらに崩れて、光の粒に変わる。
床の板目も、シーツも、扉も、生活の形だけをしていたもの全部が、下書きを消すみたいに薄くなっていく。
世界が、ほどけていた。
ミユは反射的に女の人の服の袖を掴む。
掴んでから、自分でもびっくりする。
でも離せなかった。
女の人は何も言わなかった。
ただ、少しだけその手を見てから、前を向く。
「大丈夫だよ。」
またそれだ。
白い光が強くなる。
目の奥まで白い。
さっきこの空間に飲まれた時と似てるのに、あの時よりは少しだけ怖くなかった。
たぶん、隣に誰かいるからだ。
「……戻るよ。」
女の人の声が、すぐ近くでした。
次の瞬間、足元が抜ける。
落ちる感覚はない。
ただ、軽くなる。
部屋も、迷路も、灯りも、気配も、全部がほどけて、白く流れていった。
眩しさに、ミユは目を細めた。
「……っ。」
最初に戻ってきたのは、石の硬さだった。
手のひらの下にあるのは、さっきまでの木の床じゃない。
ざらついた石畳。
外の空気。
風。
どこか遠くの生活音。
ゆっくり顔を上げる。
「……戻った?」
知らない村の道だった。
湖の方から風が流れてくる。
さっきまで、あの変な部屋の中にいたはずなのに。
目の前には、また昼の村が戻っていた。
星のついた建物が、少し先に見える。
「……なに、これ。」
さっきと同じ言葉なのに、意味が全然違う。
女の人は少しだけ考えるみたいに間を置いた。
「今のあなたに分かる言い方をすると。」
「うん。」
「村の道に、別の場所が重なってた。」
「……重なってた?」
「うん。あなたはそこに入り込んだ。私は、それをほどいた。」
「分かるような、分からないような……。」
「ちゃんと説明するね。ギルドで。歩けるかな?」
「…信じていいやつ?」
「うん。」
女の人が、今度はちゃんと笑った。
その笑い方に、やっと少しだけ現実感が戻る。
昼の光。
石畳。
風。
誰かの洗濯物が揺れる気配。
全部ちゃんとある。
あるのに、ミユの中だけは全然戻っていなかった。
怖かった。
意味が分からない。
でも、さっき確かに光は出た。
あれを見た。
これを見た。
触れた。
戻ってきた。
その全部が、まだ身体の内側でざわざわしている。
「……どこ行けばいいの?」
「ギルド。」
女の人は、星のついた建物を指さした。
「まずは座って、水を飲んで。それから、分かるところだけ話そう。」
「……あそこがギルド?」
「うん。」
「さっきのローブみたいなのが言ってた場所。」
女の人の指が、ほんの少しだけ止まった。
「……ローブ?」
小さな声だった。
でも、聞き返し方が普通じゃなかった。
ミユはその反応に眉を寄せる。
「え? さっきちらっといた、あれです。」
ミユは、自分の少し横を指した。
「白い霧みたいなのが出た時に、一瞬だけ。見えませんでした?」
女の人は、ミユが指した場所を見る。
でも、そこにはもう何もない。
「……私は、見ていないよ。」
「え?」
ミユの背中に、冷たいものが走った。
「見てないって……あんな近くにいたんですよ?」
「うん。でも…見えなかった。」
「……私だけ?」
声が小さくなる。
教室でもそうだった。
誰も振り向かなかった。
あの黒いローブが見えていたのは、自分だけだった。
ここでも、同じ。
ミユは唇を噛んでから、早口で続けた。
「黒っぽい、ぼろぼろのローブです。教室でも見ました。そいつに、ギルドに行けって言われて……それで外に出たら、今の変な場所に巻き込まれて。」
「……黒いローブか……。」
女の人は、確かめるみたいに繰り返した。
その顔が、ほんの少しだけ曇る。
女の人はすぐには続けなかった。
ほんの一瞬、目を伏せる。
それから、こめかみに指先を当てた。
「……知らない……はずなんだけど。」
「はず?」
ミユは眉を寄せる。
女の人の顔色が、ほんの少しだけ変わったように見えた。
「……大丈夫ですか?」
聞いてから、自分でも少し驚いた。
さっきまで色んな事が起きて怖くて仕方なかったのに、今は女の人の様子の方が気になった。
女の人は、少しだけ目を瞬かせる。
それから、困ったように笑った。
「大丈夫。」
「ほんとに?」
「うん。少し…引っかかっただけ。」
「それ、大丈夫って言います?」
「たぶん。」
「たぶんって。」
ミユが思わず返すと、女の人はまた少しだけ笑った。
この人、変だ。
でも、さっきのものよりはずっとまともだ。
少なくとも、話は通じる。
たぶん。
女の人は、ギルドへ向かって歩き出す。
「大丈夫。行こっか。」
ミユはまだ震えている足に力を入れて、そのあとを追った。




