序章
冬の朝だった。
窓の外では、まだ名前のつかない薄明かりの中を、雪が静かに落ちていた。
石畳には昨夜の雪が薄く残り、遠くを通る馬車の車輪だけが、湿った音を引いていく。
モニカは暖炉の火を見つめながら、冷めかけたスープを木匙でゆっくりとかき混ぜていた。
豆と玉ねぎ、それから少しだけの干し肉。
贅沢ではない。
けれど、この街では十分に温かな食事だった。
二階の窓からは、広場の風車が見える。
朝になると、焼きたてのパンの匂いが坂道を流れてきて、昼には広場の楽師が古い弦楽器を鳴らす。
夕方には城の鐘が鳴り、夜になれば人々は暖炉の火のそばで眠る。
静かな街だった。
少なくとも、モニカにはそう見えていた。
ただ時折。
何かが胸の奥へ引っかかることがある。
誰かの咳。
湿った呼吸音。
熱に浮かされた顔。
それらを見るたび、知らないはずの景色が、頭の奥でぼんやりと揺れた。
白い天井。
乾いた空気。
夜明け前の窓。
けれど、それが何なのかまでは思い出せない。
思い出そうとすると、雪の向こうを見るみたいに、輪郭だけが曖昧に滲んでいく。
モニカは小さく息を吐き、外套を羽織った。
市場へ向かう時間だった。
外へ出ると、冷えた空気が頬を刺した。
雪は細かく、静かに降っている。
坂道を下りながら、モニカはいつものように広場を抜け、古い石造りの路地へ入った。
その時だった。
路地裏の壁際に、人影が見えた。
老人だった。
汚れた外套をまとい、まるで捨てられた荷物みたいに雪の中へうずくまっている。
通りを行く人々は、ちらりと視線を向けるだけで、誰も立ち止まらない。
珍しい光景ではないのだろう。
モニカも最初は、そのまま通り過ぎようとした。
けれど。
老人の喉から、小さな呼吸の音が漏れた。
浅く。
濡れたような音だった。
その瞬間、モニカの足が止まる。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
暗い部屋。
青白い光。
細く鳴り続ける電子音。
誰かの声。
『吸引お願いしまーす』
知らないはずの景色が、雪崩みたいに流れ込んでくる。
モニカは息を呑んだ。
老人は小さく震えていた。
雪が、その肩へ静かに積もっていく。
「放っておけ」
通りの向こうで、誰かが言った。
「どうせ冬は越せない」
モニカはしばらく動けなかった。
遠くで、城の鐘がひとつ鳴る。
やがて彼女は、ゆっくりと膝をついた。
そして、老人の肩へそっと触れる。
その身体は、驚くほど冷たかった。




