三分前の空
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
昭和十七年初夏、松戸飛行場。
片桐義雄大尉が第三小隊を預かってから、十日あまりが過ぎていた。
白江保彦大尉が去ったあと、小隊は二機編隊を二組組み合わせた四機編成へ改められた。
第一の二機は、義雄と梶山信夫曹長。
第二の二機は、水野少尉と新田正明少尉。
形だけなら、ドイツで見たシュヴァルムに近い。
だが、四機を空へ上げれば、それだけで四機編隊になるわけではなかった。
*
「近い」
帰還した新田へ、水野が言った。
「自分では、まだ離れているつもりでした」
「お前が近いと、俺は前ばかり見ていられん。かといって離れすぎれば、今度は互いを守れない」
「はい。了解しました」
「返事はどちらか一つでいい」
「はい」
「空でも、その調子で頼む」
新田は口を閉じた。
その横で、梶山が飛行帽を脱いだ。額に残った跡を指でなぞりながら、滑走路の向こうへ目をやる。
「片桐大尉」
「何だ」
「四機で一機を追うと、四機とも同じところへ集まります」
義雄はうなずいた。
先ほどの演習でも、敵役の機体が旋回すると、新田がその後ろへ食いついた。水野が抑えようとし、梶山も反対側から敵役を押さえようとした。
結果として、三機が同じ一機へ集まりかけた。
「一組が叩くなら、もう一組は周りを見ていたほうがよろしいかと」
「続けろ」
「攻撃する組が離れたあと、次の組が入る。四機で追うんじゃなく、二機ずつ交代でかかるんです」
「そうすれば、回避機動で速度を失っていく敵機に、二機二組で波状攻撃を続けられる。こちらは優速を保ったまま、一撃離脱を繰り返せます」
「教えたことは覚えていたか」
「頭では。今日、ようやく空で分かりました」
「それでは、目の前の敵を僚機へ譲ることになるかもしれんぞ」
義雄が試すように言うと、梶山はわずかに首を傾けた。
「誰が落としたところで、敵が落ちることに変わりはありません」
水野が小さく笑った。
「お前、新田よりよほど将校向きだな」
「曹長のままで結構です。書き物が増えるのは勘弁です」
「俺の前で言うな」
義雄は苦笑しつつ、左手首のチュチマへ目を落とした。
秒針は止まることなく文字盤を回っている。
「次は、標的の後ろを取る演習ではなく、見つけるところからやる」
水野が顔を上げた。
「捜索ですか」
「邀撃だ。見つけた者が追うのではない。見つけた者の報告を使い、別の者が前へ出る」
義雄は新田を見た。
「新田少尉」
「はい」
「無線で同じ言葉を二度繰り返すな。聞こえなければ、こちらから聞き返す」
「了解しました」
「上空では、余計な一言が必要な一言を潰す」
新田は今度こそ黙ってうなずいた。
*
数日後、第三小隊へ新たな演習が命じられた。
標的は、陸軍の九七式重爆撃機一機。
その発進時刻も、予定針路も、第三小隊には知らされない。地上監視員から上がってくる目撃情報だけを頼りに発見し、邀撃する。
義雄は飛行場の一室で、机上の地図を広げた。
地図には方位線と距離が書き込まれている。その脇へ、チュチマを置く。
「報告には、必ず観測時刻をつける」
新田が地図を見たまま尋ねた。
「受信した時刻ではなく、ですか」
「敵機を見た時刻だ。発見した位置だけでは足りない。どちらへ向かい、いつそこにいたか。それがなければ、報告を受けたころには別の空を飛んでいる」
義雄は地図上の一点へ鉛筆を置き、そこから線を引いた。
「九七重が時速三百キロで飛んでいるとする。一分で五キロだ」
鉛筆の先が、地図の上を進む。
「三分前の情報なら、すでに十五キロ先へいる」
「十五キロ……」
新田が呟いた。
「報告された場所へ急行しても、そこに敵はいない。そこから追いつこうとすれば、時間と燃料を費やすだけだ。だから、敵が次に通る空へ先回りする」
梶山が地図上の線を見た。
「敵が針路を変えたら」
「別の監視所から次の報告が来る。その二つをつなげば、針路と速力を絞れる」
「報告が来なければ」
「外したと判断して、捜索へ移る。推測を事実と思い込むな」
水野が腕を組んだ。
「二機ずつで捜索範囲を分けますか」
「いや。今日は四機を割らない。第一組を上に置き、第二組は少し下げる。第一組が攻撃し、第二組がその離脱を援護する。その次は交代だ」
義雄はチュチマを腕へ戻した。
「四機で一機を追うな。一組が叩き、もう一組が空を見る」
*
鍾馗の発動機が、一機ずつ目を覚ました。
排気とプロペラの搔いた空気が、地面の砂塵を巻き上げる。
義雄は計器を確認し、整備兵の合図を待ってスロットルを押し出した。機体が動き出すと、フットバーを細かく使い、滑走路へ向ける。
発進位置でいったん止まり、油温と油圧を確かめる。
前方は問題なく開けている。
義雄はブレーキを解き、スロットルを前へ送った。
プロペラの反トルクで左へ振られようとする機首を、右フットバーを踏んで押さえる。速度が乗ったところで操縦桿をわずかに前へ倒し、尾輪を浮かせた。
滑走路の先が、機首越しに見えてくる。
さらに加速して操縦桿を軽く引くと、車輪が地面を離れた。脚を引き込み、フラップを格納しながら、スロットルは維持する。
梶山が右後方へついた。
少し遅れて、水野と新田が続く。
第一組は高度二千五百。第二組はそこから二百ほど下に置いた。
四機は互いに近づきすぎず、離れすぎず、東の空へ向かった。
しばらくして、受話器に地上からの声が入った。
『双発一、高度約二千。松戸飛行場より北東二十五キロ。針路南西。観測時刻、九時十二分』
義雄は時計を見た。
九時十五分。
三分前だ。
報告地点へ向かっては遅い。
義雄は地図板へ目を落とし、観測地点から南西へ線を伸ばした。九七重の巡航速力なら、すでに十五キロほど進んでいる。
操縦桿を左へ倒す。
機体が左へ傾くのに合わせ、左フットバーを踏む。横滑りを抑えながら旋回へ入り、予測した進路の前方へ機首を向けた。
『第一組、左へ。第二組、続け』
返事が重なった。
『了解』
『了解しました』
義雄は眉を寄せた。
『新田、復唱は要らん』
一瞬の沈黙のあと、咽喉マイクを指で叩く短い音が二度返った。
操縦桿をわずかに前へ押し、機首を下げる。高度を少し速度へ換えながら、鍾馗を南西へ走らせた。
もう一度、地上から報告が入った。
『双発一、高度約千八百。南西へ進行中。観測時刻、九時十七分』
声が雑音に崩れ、最後の一部が聞き取れなかった。
義雄は咽喉マイクを押さえた。
『観測地点を再送せよ』
返ってきた声も、発動機の高い唸りへ紛れた。
梶山の機体がわずかに翼を振った。
聞こえていない。
義雄はスロットルをわずかに戻した。回転を少し落とすと、雑音の底から地上員の声が浮かび上がった。
観測地点を聞き取ると、ふたたびスロットルを押し出す。
二つの地点を結べば、針路はほとんど変わっていない。高度だけが下がっている。
『第一組、右前方を捜索。第二組、左前方。編隊は崩すな』
返答の代わりに、短い打音が続いた。
義雄は機首をわずかに右へ向けた。
見えるのは、薄い雲と、その下に霞む田畑だけだった。
敵がいるはずだと思うと、雲の切れ端まで機影に見える。
思い込みを捨て、遠くから近くへ、空を区切って見る。
そのとき、梶山の声が入った。
『双発一。左前方下。高度、およそ千八百。距離四千』
余計な言葉がない。
義雄は左へ視線を振った。
小さな黒い点が、雲の下を横切っている。双発機特有の、横へ広い機影だった。
『第一組、攻撃。第二組、上方援護』
操縦桿を左へ倒し、機体を傾ける。左フットバーを踏んで機首を旋回方向へ合わせ、九七重の後方上空へ回り込む。
梶山が離れすぎない間隔で続いた。
目標の真後ろへはつかない。
後方上空から斜めに降り、航路を横切る一度きりの攻撃線を作る。
義雄は機首を下げた。
重力に引かれ、速度計の針が上がる。目標が筒型照準器の視野へ近づいてきた。
まだ遠い。
射撃できる位置へ入っても、今日は撃たない。写真銃が攻撃の成否を記録する。
九七重の機影が、視野の中心へ流れ込む。
義雄は無理な追随にならないよう、操縦桿を引きすぎなかった。相手の進路を横切る一瞬だけ照準を合わせ、操縦桿上部の射撃ボタンを押す。
そのままできるだけ速度を保ちながら、上昇して離脱する。
梶山も続いて攻撃線を通過した。
『第二組、攻撃』
義雄は上昇しながら振り返った。
水野の鍾馗が高度を速度へ換え、九七重へ向かって降りていく。新田はその右後方につき、今度は近づきすぎていない。
水野が攻撃線を横切った。
続いて新田が目標を照準器へ収める。だが、その機首が九七重の旋回へつられ、わずかに内側へ入り始めた。
『新田、追うな』
水野の声が飛んだ。
新田の機体が傾きを戻す。
操縦桿を引き続けて九七重の後ろへ残ることなく、速度を使って上昇へ移った。
四機は目標から離れ、上空でふたたび二組に戻った。
義雄は後方を確認した。
九七重は、何事もなかったように予定の針路を飛び続けていた。
*
帰還後、新田はまだ興奮を残した顔で言った。
「最後は、完全に照準器へ収めました」
水野が飛行帽を脱ぎながら答えた。
「入っただけだ」
「しかし、写真銃にも――」
「そのとき、どちらへ滑っていた」
新田の口が止まった。
「旋回しながら横滑りしていれば、照準器の中心と弾の行く先は同じにならん。お前は目標を入れることに夢中で、機体がどちらを向いて飛んでいたか見ていなかった」
「……左へ滑っていたと思います」
「思います、では戦場で当たらん」
以前の水野なら、自分が照準器へ収めたことだけで喜んでいただろう。
梶山が義雄の隣で言った。
「水野少尉は、教えるのがお上手ですな」
「一度、まったく同じことで叱られている。一言一句、同じ言葉でな」
水野が振り返った。
「聞こえていますよ、片桐大尉」
「聞かせた」
「でしょうね」
義雄は答えず、左手首のチュチマを見た。
演習開始から帰還まで、クロノグラフは正確に時を刻んでいた。
刈屋正意中尉が、整備兵を連れて近づいてくる。
「無線の調子は」
「高回転では聞き取りにくい。針路によっては雑音も増えた。だが、回転を少し落とせば拾えた」
「どの機体も同じですか」
「俺と梶山機で出た。水野、新田は」
「こちらもです。ただ、私の機体は右旋回中のほうがひどかった」
刈屋は手帳へ書き込んだ。
「配線の取り回しと接地を見直します。発動機の回転数と針路、症状の出た時刻も分かりますか」
「記録してある」
義雄は飛行記録を差し出した。
刈屋は記録と、義雄の腕のチュチマを交互に見た。
「この時刻は、時計を見ながら記録されたものですね」
「ああ。誤差はあっても数秒だ」
「十分です。地上で発動機を回して、同じ条件を作ってみます」
刈屋は整備兵を振り返った。
「まず片桐大尉と梶山曹長の機体から調べる。水野少尉、新田少尉の機体も、そのあとで同じ試験をする」
「俺たちも立ち会います」
水野が言うと、刈屋はうなずいた。
「お願いします。空で聞いた者にしか、雑音の違いは分かりませんから」
*
演習記録を読み終えた黒木少佐は、机の上へ書類を置いた。
「発見から接敵まで、何分だ」
「最初の報告から十二分です」
「報告地点へ直接向かった場合は」
「発見できなかった可能性があります。見つけても、後方から追いすがる形になったでしょう」
「二度目の報告は」
「観測から受信まで二分弱。二地点の情報から、針路と速力を推定しました」
黒木は報告書の表題へ目を戻した。
――時刻を付した敵機情報による邀撃演習。
「第三小隊だけのやり方にするな」
「はっ」
「観測時刻を含めた報告要領を、中隊全体へ回せ。二機編隊の交互攻撃についても、各小隊で試させる」
義雄は敬礼した。
「承知しました」
「片桐」
「はっ」
「時計だけで、敵を見つけたわけではないな」
「もちろんです。見つけたのは監視員と梶山曹長です」
「ならば、そう書いておけ。新しい戦法を作る者は、何でも自分の手柄にしたがる」
「自分の時計の手柄にするつもりもありません」
黒木は、わずかに笑った。
「それならよい」
*
初夏が過ぎるころ、独立飛行第四七中隊に、柏飛行場への移動命令が下った。
格納庫では、整備兵たちが機材をまとめ始めていた。
義雄は机に残った地図を畳み、最後にチュチマのクロノグラフを作動させた。
細い針が、黒い文字盤の上を進み始める。
三分前の空には、もう何もいない。
時計は敵の居場所を教えない。
ただ、その情報がいつの空を語っているのかだけは、正確に示していた。
読んでいただき、ありがとうございます。
当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。




