失われた数分
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
昭和十七年四月、ビルマ。
三機の鍾馗が、高度を違えて飛んでいた。
白江大尉の一機が上空。
片桐義雄中尉と水野少尉の二機が、その下を並んで進む。
義雄は操縦桿をわずかに右へ倒した。
右翼が下がる。
右のフットバーを踏み、機首を旋回の内側へ向ける。操縦桿を引きながら機体を傾け、速度を落とさない範囲で右へ回った。
水野は義雄の軌跡をそのまま追わなかった。
一拍遅れて旋回へ入り、義雄の右後方へ戻る。
二機の間隔は伸びた。
だが、切れてはいない。
『上ばかり見るな』
白江の声が無線へ入った。
義雄はすぐに左下を見た。
何もいない。
右後方へ首を回す。
水野の鍾馗は見える。
もう一度、上を見た。
白江の機体が消えていた。
「水野、開け」
『了解』
二機が左右へ分かれた。
義雄は操縦桿を前へ押し、機首をわずかに下げた。速度を得ながら右へ旋回する。
水野は反対へ回った。
直後、白江の鍾馗が二機の間を降下してきた。
義雄は追わない。
操縦桿を引きすぎず、白江が降下の速度を上昇へ変える位置を予測する。
白江は水野へ機首を向けた。
『水野、追われているぞ』
『わかっています!』
水野の鍾馗が左へ急旋回した。
翼端から細い白煙が引かれる。
白江は、その後ろへ回り込もうとした。
義雄は白江の背後を追わなかった。
白江が水野を射撃位置へ捉える前に、その進路を横切れる場所へ向かう。
速度を失わないよう、機体の傾きを抑える。
操縦桿を引く。
機首が上がり、速度が高度へ変わっていく。
白江は水野を追うことをやめた。
機体を反転させ、義雄へ向かう。
義雄も無理に機首を合わせなかった。
操縦桿を前へ戻して降下し、白江との距離を取る。
その間に、水野が高度を回復する。
二機は、ふたたび互いを見える位置へ戻った。
『面白くないな』
白江の声がした。
「お褒めいただき、ありがとうございます」
『褒めていない』
白江の鍾馗が上昇する。
義雄は追わなかった。
水野も追わない。
二機は間隔を保ち、白江が次に降りてくる方向を探した。
しばらくして、白江から訓練終了の合図が入った。
*
三機が発進した飛行場へ帰還した。
義雄は場周へ入り、速度を落とした。
脚を下ろす。
機体の下で抵抗が増し、計器盤の脚位置表示灯が点灯する。フラップを下げ、スロットルを絞りながら降下を続けた。
最終旋回を終え、滑走路へ機首を合わせる。
操縦桿とフットバーを細かく使い、横風で流される機体を中心へ戻す。
接地の直前に操縦桿を引いた。
主輪が地面を捉える。
速度が落ちるにつれて尾輪が下がり、前方の視界が機首に遮られた。
義雄は左右を見ながら機体を誘導し、所定の位置で発動機を止めた。
操縦席から降りると、先に着陸していた白江が待っていた。
「面白くない飛び方を覚えたな」
飛行中と同じことを、白江はもう一度言った。
「大尉に教わりました」
「俺は、あんな臆病な飛び方は教えていない」
「生きて次を撃つ飛び方だと教わりました」
白江は義雄の顔を見た。
やがて、腹の底から笑った。
「言うようになったじゃないか」
大きな手が義雄の肩へ伸びる。
その横にいた水野が、何も言われないうちに一歩離れた。
白江の手が義雄の肩を叩く。
義雄の身体が半歩動いた。
「水野」
「はい」
「なぜ逃げた」
「いえ。自分は何も」
「空でもそれくらい早く動け」
「はい」
白江はもう一度笑った。
その笑いが収まってから、手にしていた紙を義雄へ差し出した。
「命令が来た」
義雄は紙を受け取った。
飛行第六四戦隊への転任。
白江は、その第三中隊長に補される。
「いつ、発たれるのですか」
「すぐだ」
水野が白江と義雄を交互に見た。
「大尉が抜けたら、上は誰が見るんです」
白江は義雄を指した。
「片桐が見る」
「自分が?」
「お前以外に誰がいる」
「自分は水野少尉と組んでいます」
「だから、そこから目を上げろ。今度はお前が、二機と敵の両方を見るんだ」
義雄は転任命令を白江へ返した。
「自分は、大尉の代わりにはなれません」
「俺の代わりをやれとは言っていない」
白江は紙を受け取り、折り畳んだ。
「お前のやり方で、俺のいた場所を埋めろ」
白江の言葉は、それだけだった。
義雄は、それ以上答えなかった。
返事を言葉にしてしまえば、その場で引き受けたことになるような気がした。
しかし、断る理由も思いつかなかった。
*
白江の出発する朝、飛行場には薄い靄がかかっていた。
白江の荷物は少なかった。
衣嚢と飛行具。それだけを手にして、これまで何度もそうしてきたように、別の戦場へ移っていく。
義雄と水野、刈屋中尉が見送りに出た。
白江は刈屋を見る。
「世話になった」
「大尉の機体には、さほど手を焼かされませんでした」
「俺の扱いがいいからな」
「その代わり、大尉についていこうとして壊した機体を、何機調べたと思っています」
「壊したのは乗っていた奴だ」
「無理についてこさせた人間にも、いくらか責任はあります」
白江は反論せず、笑った。
続いて、水野を見る。
「追いすぎるな」
「もう追いません」
「それも困る。撃てるときは追え」
「どちらなんですか」
「自分で決めろ。そのために操縦席へ座っている」
水野は口を閉じた。
白江は最後に、義雄の襟元へ目を向けた。
「いつまで中尉でいるつもりだ」
「自分で決められることではありません」
「なら、決める奴にわからせろ」
白江の指が、義雄の階級章へ向けられる。
「肩書が仕事へ追いついていないとな」
「大尉が余計なことを書かなければ、静かに飛んでいられます」
「もう書いた」
「何をです」
「さあな」
白江は白い歯を見せた。
義雄の肩へ手を伸ばす。
義雄は身構えた。
白江は叩かず、その手を差し出した。
義雄も手を出す。
白江の大きな手が、義雄の手を強く握った。
「生きていろ、片桐」
「大尉も」
「俺は死なん」
白江はそう言って手を離した。
振り返らず、待っていた車へ歩いていく。
義雄たちは、その大きな背中が見えなくなるまで立っていた。
水野が、小さく息を吐いた。
「本当に、行ってしまいましたね」
「ああ」
「次から、中尉が上を飛ぶんですか」
義雄は答えず、飛行場へ並んだ鍾馗を見た。
白江の持ち機だけが、乗る者を失って残されていた。
*
それから間もなく、日本本土が米軍機の空襲を受けたとの報告が届いた。
空母から発進した双発爆撃機が、低空で本土へ侵入したという。
水野は、何度も報告書を読み返した。
「双発機が、空母からですか」
「そう書いてある」
「そんなことができるんですか」
「できたから、飛んできた」
義雄は答えた。
敵機は東京だけでなく、複数の都市を攻撃した。
迎撃は十分に機能しなかった。
空襲を受け、独立飛行第四七中隊には本土帰還命令が下った。
*
帰国して数日後、義雄は中隊長室への出頭を命じられた。
扉の前で服装を整え、入室する。
机の向こうには、独立飛行第四七中隊長の黒木少佐がいた。
「片桐義雄中尉、出頭いたしました」
義雄の申告を受け、黒木は机上の書類を開いた。
「片桐中尉。本日付をもって、大尉に進級した」
義雄は姿勢を正した。
「謹んで拝命いたします」
黒木は書類を机へ置いた。
「あわせて、第三小隊長を命ずる」
義雄は一瞬、答えるのを忘れた。
第三小隊。
義雄と水野が、白江大尉のもとで飛んできた小隊だった。
今度は義雄が、その先頭に立つ。
「自分が、第三小隊を率いるのですか」
「そうだ」
黒木は義雄を見た。
「だが、白江と同じことをしろとは言わん。南方でお前たちが試した編隊戦術を、今度は小隊長として完成させろ」
「現在の三機編成で、でしょうか」
「一機増やす」
黒木は、机上に四つの駒を置いた。
「四機を二つに分ける。二機編隊を二個。お前がドイツで見てきたとおりの形だ。あちらではシュヴァルムと言うんだったか」
「よろしいのですか」
「そのために実戦へ持っていった。試さずに報告書だけ積み上げても仕方あるまい」
黒木は四つの駒を、二つずつ離して置いた。
「水野少尉は残す。補充として、新任少尉一名と古参下士官一名をつける」
「承知しました」
「自分で飛ぶだけでは済まんぞ。飛べる者を増やせ」
義雄は、白江に言われた言葉を思い出した。
――お前のやり方で、俺のいた場所を埋めろ。
「努めます」
黒木は小さくうなずいた。
「期待している、片桐大尉」
*
その日の午後、階級章を替えた義雄が格納庫へ向かうと、水野と見慣れない二人の搭乗員が待っていた。
若い将校が、義雄の姿を認めると勢いよく敬礼した。
「新田正明少尉、本日付で第三小隊に着任いたしました」
声が大きい。
敬礼の角度も、姿勢も、教本どおりだった。
義雄は答礼した。
「片桐だ。よろしく頼む」
「はい!」
その横にいる男は、新田より一回りほど年上に見えた。
階級章は曹長。
「梶山信夫曹長です」
梶山は簡潔に名乗り、敬礼した。
義雄も答礼する。
だが、梶山の視線は義雄ではなく、その向こうに置かれた鍾馗へ向いていた。
「梶山曹長」
「はい」
「俺ではなく、何を見ている」
「大尉殿の持ち機です」
「何かわかるか」
「左の脚柱だけ、油の汚れ方が違います」
義雄は振り返った。
左脚柱の後ろ側に、細い汚れが伸びている。
すぐに漏れる量ではない。
だが、右側にはないものだった。
格納庫の奥から出てきた刈屋も、同じ場所を見た。
「いつ気づいた」
「待っている間です」
梶山が答えた。
「触ったか」
「触っていません」
「なぜだ」
「自分の持ち機ではありませんので」
刈屋は梶山の顔を見た。
それから脚柱の汚れへ視線を戻す。
「あとで開ける」
「お願いします」
義雄は水野を見た。
「二人には、もう説明したのか」
「まだです。片桐中尉――」
水野が言葉を止めた。
義雄の襟元を見る。
「片桐大尉」
義雄は返事をしなかった。
「片桐大尉」
二度目に呼ばれて、ようやく水野を見る。
「何だ」
「いえ。返事をされないので」
「まだ、俺を呼んだ気がしなかった」
「今のうちに慣れてください。こちらも呼び慣れませんから」
新田が不思議そうに二人を見ている。
梶山は何も言わなかった。
義雄は四人を見回した。
「第三小隊は、今後四機で飛ぶ」
新田の表情が引き締まる。
「従来の三機編隊ではない。二機編隊を二個作る」
義雄は水野を指した。
「水野少尉と新田少尉」
「はい」
二人が答える。
「俺と梶山曹長」
「はい」
梶山だけが短く答えた。
水野が尋ねる。
「自分が、長機ですか」
「そうだ」
水野は新田を見た。
新田は期待に満ちた目で水野を見返している。
「不服か」
「いえ。ただ、自分が教える側になるとは思っていませんでした」
「俺もだ」
義雄は答えた。
「だが、決まった」
水野は少し考えてから、新田に言った。
「俺だけを見るな。俺の向こうも見ろ」
「はい!」
言ってから、水野は眉を寄せた。
「どうされました」
新田が尋ねる。
「いや。俺も、まったく同じことを言われた覚えがあってな」
義雄は何も言わなかった。
梶山の口元が、わずかに動いた。
*
数日後、義雄は本土空襲に関する戦闘詳報を机へ広げた。
隣には刈屋がいる。
水野、新田、梶山は、壁に掛けられた地図の前へ立っていた。
義雄が見ているのは、投下された爆弾の数でも、被害を受けた建物でもなかった。
敵機が最初に発見されてから、迎撃部隊へ命令が届くまでの経過だった。
義雄は腕からチュチマを外した。
机の上へ置き、クロノグラフの押しボタンに指をかける。
「始めるぞ」
義雄がボタンを押した。
中央の針が動き始める。
水野が、最初の監視所から届いたという報告を読み上げた。
「敵らしき双発機を発見。機数不明。低空を西へ向けて飛行中」
義雄は時刻を書き留めた。
「次」
「上級司令部へ通報」
「どれだけかかった」
「記録では、約三分です」
三分。
時速四百キロで飛ぶ機体なら、その間に二十キロ進む。
「次」
「ほかの監視所からの情報と照合。敵味方の判定を確認」
「何分だ」
「五分」
さらに三十キロ以上。
義雄は地図上の駒を動かした。
最初に報告された位置から、敵機はもう大きく離れている。
「次」
「警報発令。飛行部隊へ連絡」
「次」
「搭乗員招集。発動機始動」
「次」
「発進命令」
一つ一つの手順に、数分ずつかかっていた。
誰か一人が怠けていたわけではない。
監視所は、見えたものを報告した。
司令部は、情報が正しいか確かめた。
部隊は、命令を受けて搭乗員を集めた。
整備兵は発動機を始動させ、機体を発進できる状態にした。
どの手順にも、それぞれ理由がある。
義雄はチュチマの針を止めた。
「ここで離陸したとして、敵機はどこにいる」
水野が地図を見た。
「最初に報告された位置から、少なくとも百キロ近く先です」
「しかも、報告された進路を維持していれば、だ」
敵機は低空を飛んでいた。
山や雲に隠れ、進路を変えれば、次の監視所から見えなくなる。
機数も揃っていない。
一個の大編隊を見つければ済む空襲ではなかった。
刈屋が地図を見た。
「鍾馗なら追いつけたか」
「同じ空へ上がれれば」
「同じ空へ上げるのは、整備の仕事か」
「それ以前の仕事です」
義雄はチュチマの針を零へ戻した。
中央の針が瞬時に元の位置へ帰る。
「見つけた敵が、どこへ向かっているのか。何機いるのか。いつ、そこにいたのか。それを必要な相手へ、できるだけ早く伝える必要があります」
刈屋は詳報の一枚を手に取った。
「発動機なら、遅れる理由を調べられる」
紙を裏返す。
「人の命令は、どこを開ければ見える」
「記録するしかありません。どこで何分失ったかを」
義雄は別の紙を机へ置いた。
独立飛行第四七中隊で試してきた無線の運用記録だった。
機体番号。
飛行高度。
方位。
発動機回転数。
音声を受信できた距離。
雑音だけが届いた距離。
まったく聞こえなくなった条件。
同じ形式の無線機でも、結果は機体ごとに異なる。
「高性能な無線機を、すぐに全機へ積むことはできません」
義雄は言った。
「だが、今ある無線機が、どこまで使えるかは調べられる」
刈屋がうなずいた。
「機体ごとに記録する。配線と接地を直したあとは、同じ条件でもう一度飛ばす」
「編隊内の通話を優先します。声が届かない場合は、これまでの打音符丁を使う」
新田が尋ねた。
「地上からの連絡は、どうします」
「伝える順番を決める」
義雄は紙へ書いた。
敵機種。
機数。
高度。
方位。
進行方向。
情報を得た時刻。
「この順で伝える。わからない項目は、わからないと言えばいい。確認するまで全部を止めるよりはいい」
水野が尋ねた。
「時刻まで必要ですか」
「必要だ」
義雄は地図上の駒を指した。
「敵機は、報告された場所で待っていてはくれない」
駒を西へ動かす。
「三分前の位置と、今いる位置は違う」
「しかし、敵機の速度がわからなければ、正確な位置は出せません」
「正確でなくていい。三分前の情報だとわかれば、少なくとも三分前の場所へ向かわずに済む」
それまで黙っていた梶山が口を開いた。
「報告を受けた時刻と、敵を見た時刻が違うこともあります」
義雄は梶山を見た。
「続けろ」
「監視所が敵機を見て、電話まで走ったなら、その時間もあります。報告を受けた時刻だけでは、敵機を見た時刻はわかりません」
「そのとおりだ」
義雄は紙へ書き加えた。
発見時刻。
通報時刻。
「二つとも記録させる」
新田が目を丸くした。
「そこまで細かくするのですか」
「その数分で、敵機は何十キロも進む」
義雄は答えた。
「細かいのではない。今まで数えていなかっただけだ」
刈屋が整備記録を閉じた。
「まず四機で試す」
「お願いします」
「ただし、操縦者にも記録させる。聞こえなかったでは足りん。いつ、どの方位で、どの出力だったか」
刈屋は義雄の腕を見た。
「時計があるのは、片桐大尉だけではない」
「わかりました」
*
義雄は、その日のうちに報告書を書き始めた。
表題は、
『防空戦闘における通信及び情報伝達について』
水野が義雄の肩越しに覗き込む。
「今度は、飛び方の報告ではないんですね」
「飛び上がる前に負けないための方法だ」
義雄は筆を止めなかった。
刈屋は別の机で、鍾馗一機ごとの無線状態を表へまとめている。
同じ鍾馗でも、同じようには飛ばない。
同じ無線機でも、同じようには聞こえない。
そして、同じ情報でも、届く時刻が違えば意味が変わる。
義雄は一度だけ手を止め、チュチマのクロノグラフを作動させた。
針が文字盤の上を進み始める。
一分。
二分。
三分。
机上では、わずかな時間だった。
空を飛ぶ機械にとっては、その間にも二十キロ先へ進める。
義雄は押しボタンを押し、針を止めた。
もう一度押す。
針は瞬時に零へ戻った。
だが、失われた数分まで戻るわけではなかった。
読んでいただき、ありがとうございます。
当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。




