ゴムひも
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
夜が明けても、水野少尉の鍾馗は格納庫へ入らなかった。
翼の下に作業灯が置かれ、刈屋中尉と整備兵たちが左翼を囲んでいる。
外板には、弾痕を中心として白墨の線が引かれていた。
機銃の取付部が歪み、その後方では補助翼の操縦系統にも損傷が見つかっていた。
刈屋は外された点検蓋の奥へ手を入れ、しばらく黙っていた。
「よく帰ってきたものだ」
水野は、叱られた子供のように立っていた。
「操縦はできました」
「できたことと、次もできることは違う」
刈屋は翼の奥を指した。
「撃たれた場所だけ塞いで飛ばしたら、次は帰ってこれん。弾がどこを通って、何を曲げて、どこに無理を残したか。そこまで見なければ、修理したことにはならん」
義雄は水野を見た。
「操縦が重くなったのは、撃たれてすぐか」
「いえ。帰り道です」
「どちらへ倒したときだ」
「左です。倒すときより、戻すときのほうが遅かった気がします」
刈屋が顔を上げた。
「それも記録する」
「自分の感覚ですよ」
「操縦者の感覚まで含めて、飛行機だ」
刈屋は整備兵に命じ、操縦索と滑車をさらに奥まで調べさせた。
水野は少し考えてから言った。
「それと、帰りに一度だけ、発動機が咳をしました」
「いつだ」
「海岸へ戻る少し前です。出力を下げたときに、一度だけ」
刈屋の目が細くなった。
「燃料系統も見る。思い出したことは、どんな小さなことでも言え」
義雄は、黙ってチュチマの文字盤を見た。
戦闘そのものは、長くなかった。
追い、撃ち、離れる。
それだけの間にも、機体には目に見えない無理が残る。
「中尉」
水野が義雄を見た。
「昨日のあれ、もう少し追えば撃てたと思うんです」
「照準器へ入ったのか」
「あと少しで」
「そのとき、お前の機体はどちらへ滑っていた」
水野は答えられなかった。
「なら、狙っていたことにはならん。筒の中へ敵を入れることと、弾を当てることは別だ」
「追うことが間違いなんですか」
「違う。追い続けても射撃位置へ入れないと判断したら、次に撃てる場所を取り直すんだ」
刈屋が翼の下から言った。
「話が済んだなら、水野少尉は休め。機体より先に操縦者が壊れたら、こちらでは直せん」
水野は反論しかけたが、刈屋と義雄の顔を交互に見て、口を閉じた。
*
その日の午後、白江大尉は机の上へ地図を広げた。
三つの小石が、先頭を頂点とする三角形に並べられている。
「昨日、最初の一撃までは形になっていた。だが、水野が敵を追った途端、三機とも互いの位置を見失いかけた」
水野が口を開いた。
「自分が編隊を崩したからでありますか」
「それだけじゃない。片桐はお前を助けるために戻り、俺も二人をまとめるために攻撃位置を捨てた」
白江は腹の底から笑い、先頭の石をつまみ上げた。
「三人とも同じ高さで、てんでに敵を追えば、編隊をつなぐ糸は絡まり、最後には切れる。だから、次は俺が先頭を飛ばない」
水野が目を瞬いた。
「逆ではありませんか」
「逆ではない。俺がいちばん腕が立つ。だから、いちばん広いところを見る」
白江は自分の石を、残る二つより上へ置いた。
「片桐が先導しろ。水野は片桐だけでなく、その向こうを見ろ。俺は上から、お前たちと敵の両方を見る」
もっとも技量のある白江が、敵機一機を追うことに専念せず、戦域を見渡す。
敵の動きを読み、必要な指示を出し、二機だけでは処理できない敵を抑える。
そして、隙があれば自ら撃つ。
「三機編成を捨てるわけではない」
白江は残った二つの石を指した。
「下の二機は互いだけを見ろ。俺は二機と敵の両方を見る」
三機でひとつの形を保つのではない。
二機をひとつの戦闘単位とし、残る一機がその外側を動く。
「試験では、間が伸びても戻れた。昨日は敵を追ううちに、伸びたまま戻ることを忘れた」
白江は二つの石を少し離した。
「今度は、戦場で切れないところを見せろ」
水野が二つの石を覗き込んだ。
「離れすぎたら、どうします」
「戻れ」
「近づきすぎたら」
「離れろ」
「簡単に言いますね」
白江がまた笑った。
「簡単なことを、空でできるようにするのが訓練だ」
義雄は二つの小石を見た。
糸ではない。
伸び、縮み、また戻るゴムひも。
ただし、切れてはならない。
白江は指を一本ずつ立てた。
「互いを見失わない。無理に追わない。撃ったら離れる。僚機を置いていかない」
「四つですか」
「四つしかない」
白江は大きな手を机へついた。
「四つ全部を守れ。それで帰ってこい」
*
三日後、水野の鍾馗は、ふたたび飛べる状態になった。
その朝、敵機接近の報はなかった。
白江は、新しい編成での訓練飛行を命じた。
片桐と水野が二機の組を作り、白江がその上空から指揮する。先日のブリーフィングで決めた形を、まず空で確かめるためだった。
刈屋は飛行前点検に加えて、三機の無線機を調整させていた。
同じ形式の無線機でも、聞こえ方は機体ごとに違う。
接地の取り方、配線の引き回し、空中線の状態。発動機の回転数や機体の振動によっても雑音は変わる。
「中隊すべての無線機を、新品にはできん」
刈屋は言った。
「だが、どの条件で聞こえなくなるかは調べられる」
三人はそれぞれの持ち機へ乗り込んだ。
義雄は縛帯を締め、咽喉マイクの位置を直した。
「編隊内だけでいい。僚機の声が聞こえれば、それで足ります」
翼の下に立つ刈屋が訊いた。
「聞こえんときはどうする」
義雄は咽喉マイクを指先で叩いた。
一度。
少し置いて、二度。
「一度なら受信。二度なら了解。三度なら異常、または離脱」
水野の機体から、二度の雑音が返った。
やがて三機の発動機へ火が入った。
白江の声が無線へ入った。
『遊びはそこまでだ。上がるぞ』
三機の鍾馗が誘導路へ出て、順に滑走路を離れた。
白江は先に高度を取る。
義雄と水野は、その下で二機の組を作った。
水野は義雄の右後方についた。
近すぎる。
「もう少し開け」
『しかし、離れると見失いそうです』
「俺だけを見るな。俺の向こうも見ろ」
水野の機体が、少しずつ距離を取った。
義雄が旋回すると、水野は同じ軌跡をなぞるのではなく、一拍遅れて内側へ入った。
間隔が縮む。
義雄が機首を戻すと、水野は外へ出て距離を取り直す。
形は変わる。
だが、二機は離れない。
伸び、縮み、また元へ戻る。
『敵機二。左前方、やや上』
白江の声が入った。
義雄は左上へ目を凝らした。
日の光を受け、二つの機影が旋回している。
『おそらくバッファローだ。片桐、水野。右から回れ』
「了解」
義雄は操縦桿を右へ倒し、同時に右のフットバーを踏んだ。
右翼が下がり、機首が右へ向く。
操縦桿を引き、速度を保ちながら旋回へ入る。
水野も続いた。
義雄は敵の後ろを直接追わず、敵機の動きを見下ろせる空域へ向かった。
上方では、白江が敵一番機の進路を塞いでいる。
追われた敵一番機が外側へ逃れ、その動きにつられて敵二番機も間隔を開いた。
「外の一機を取る」
返事はなかった。
義雄が右後方を見ると、水野の鍾馗はついてきている。声だけが届いていない。
だが、間隔が開き始めている。
義雄は咽喉マイクを二度叩いた。
少し遅れて、水野から二度返った。
義雄は機首を下げた。
速度が増す。
バッファローの後上方へ近づく。
水野もついてきた。
義雄は筒型照準器へ右目を寄せた。
細い筒の向こうに、狭い円形の視界が開く。
その中へ、バッファローの機影が入った。
身体へかかる横向きの力と、フットバーから返る力から、自機がまだ外側へ滑っていることがわかる。
義雄は敵機の進路より前へ照準を置き、さらに横滑りの分だけ外へずらした。
まだ遠い。
射撃ボタンへ指をかけたまま、義雄は距離が詰まるのを待った。
そのとき、右後方に別の機影が見えた。
白江に追われていた敵一番機だった。
水野は前方の敵へ意識を奪われている。
義雄は射撃を捨てた。
操縦桿を右へ倒し、ラダーを合わせる。
水野の右へ滑り込むように位置を変え、咽喉マイクを三度叩いた。
水野の機体が、わずかに遅れて反応した。
二度の雑音。
義雄は操縦桿を前へ押し、降下へ入った。
水野も続く。
追ってきたバッファローへ、上方から白江が突っ込んだ。
敵機は慌てて旋回し、追撃を諦める。
『そのまま離れろ』
白江の命令が入った。
三機は速度を保ち、戦闘空域から離脱した。
撃墜はない。
被弾もない。
義雄は水平飛行へ戻してから、チュチマを見た。
戦闘開始から、数分しか経っていなかった。
二機の間は何度も伸びた。
だが、切れなかった。
*
帰還後、水野は操縦席から降りるなり言った。
「撃てたと思います」
「昨日も聞いた」
「今度は、本当に照準器へ入りました」
「筒へ入れるだけならできる」
義雄は水野の機体を指した。
「あのとき、お前の機体はどちらへ滑っていた」
水野は答えられなかった。
「わからないなら、狙っていたことにはならん。それより、右から来た敵に撃たれていた」
白江が、大股で近づいてきた。
「だが、今日は帰ってきた」
水野が白江を見た。
「撃墜はありません」
「二機が互いを見失わなかった。片桐は攻撃を捨てた。お前は遅れたが、ついてきた」
義雄は言った。
「大尉が上で敵を抑えてくれたからです」
「そのために俺がいる」
白江は白い歯を見せた。
「俺までお前たちと同じ敵を追ったら、編成を変えた意味がない」
鍾馗の発動機が止まった。
整備兵たちが機体へ近づく。
その向こうから、刈屋が整備記録と工具箱を手に歩いてきた。
「無線は」
「最初の攻撃前に、一度、水野少尉の声が聞こえなくなりました」
水野もうなずいた。
「自分も、片桐中尉の声を見失いました」
義雄はチュチマを見た。
「離陸から十八分後。海岸を越えたあと、右へ旋回して南西へ向かったところです。出力はほぼ全開でした」
「合図は」
「二度と三度は聞こえました」
刈屋は整備記録へ書き込んだ。
「声は消えても、雑音は届いたわけか。空中線の引き回しを変えてみる」
刈屋は水野を見た。
「もう一度、操縦席へ入れ」
「今からですか」
「今だからだ」
水野は渋々、操縦席へ戻った。
刈屋の指示で、操縦桿を左右へ倒し、フットバーを踏む。
補助翼と方向舵が動く。
水野は何度か繰り返した。
「撃たれた直後よりは軽いです。ただ、左へ倒して戻すときだけ、右より少し遅い気がします」
義雄は左翼の補助翼を外から見た。
自分の持ち機で正常と思われる動きと比べると、戻り始めにわずかな遅れがある。
刈屋もそれを見た。
「左の操縦系統を、もう一度開ける」
整備兵たちが動き始めた。
義雄は水野を見上げた。
「明日は、もっと早く戻れ」
水野は操縦席から顔を出した。
「戻るくらいなら、最初から追いませんよ」
「それでいい」
義雄は答えた。
「追わずに撃てる位置を取れ」
白江は少し離れたところから、二人を見ていた。
刈屋は整備記録へ項目を増やした。
各機の無線状態。
操縦者の報告。
編隊の間隔。
同じ鍾馗でも、まったく同じ機体は一機もなかった。
義雄の腕で、チュチマが静かに針を進めていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。




