クワンタンの空
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
昭和十七年一月。
独立飛行第四七中隊は、マレー半島東岸のクワンタンに進出していた。
前年十二月九日にサイゴンへ入り、二十七日までバンコクで機体の整備と訓練を続けた。その間にも、戦況は刻々と南へ動いていた。
飛行場には、熱気と湿気がこもっていた。
整備兵が覆いを外し、鍾馗の機銃弾と給弾装置を確認している。
機首の発動機覆いから覗く銃口。その内側には7.7mm機銃が二挺。主翼には、さらに大口径の12.7mm機銃が左右対称に二挺収められている。
試作審査を終えたばかりの機体だった。
九七戦とは、姿も扱いも違う。
だが、義雄はもう、その違いに戸惑わなかった。
操縦席へ身体を収める。
狭い。
九七戦よりも窮屈に感じるが、計器の配置は素直だった。操縦桿を握り、フットバーへ足を置く。
革手袋越しに、操縦桿の表面を確かめる。
白江大尉が、隣の機体のそばから声をかけた。
「今日は英軍の戦闘機が出る」
「機種は?」
「おそらくバッファローだ。英国極東空軍のブリュースター・バッファローMk.I」
白江は空を見上げた。
「三機編隊で来る可能性が高い。向こうの後ろを無理に追うな。機体としては格下だが、速度を失ったら足元をすくわれる」
「了解」
「聞こえなければ、手信号で伝える。無理に無線へ頼るな」
白江大尉が一番機、義雄が二番機、水野少尉が三番機だった。
三機は滑走路へ向かった。
白江の機体が先頭に立つ。
義雄はその右後方、水野は左後方についた。
白江を頂点にした、緩い楔形だった。
白江の機体が先に動き出した。
義雄も続く。
スロットルを開く。
ハ109が低く唸り、機体が滑走路を走り始めた。
操縦桿を軽く前へ倒す。
尾輪が浮き、機首が下がる。
前方の視界が開けた。
プロペラの反トルクで機首が左へ振られる。義雄は右足を踏み足し、ラダーで機首を滑走路の中心線へ戻した。
速度が乗る。
操縦桿をわずかに引くと、主輪が地面を離れた。
義雄は脚を引き込む。
計器盤の脚位置表示灯で格納を確認し、フラップを格納した。
スロットルは維持する。
機体は速度を増しながら、南の空へ上がっていった。
編隊の間隔を整える。
義雄は白江の右後方につき、水野の位置を左後方に確認した。
まだ、三機編隊として完全に噛み合っているわけではない。
だが、九七戦のころのように、互いの翼を近づけて飛ぶ必要はなかった。
距離があっても、相手の位置を意識できる。
白江が一度だけ機体を振った。
敵機発見の合図だった。
義雄は前方へ視線を送った。
その向こうで、ゴマ粒くらいに見えるいくつかの機影が動いていた。
高度を取り、太陽を背にしている。
機影が近づくにつれ、翼の形が見えてきた。
英国極東空軍のブリュースター・バッファローMk.I。
三機編隊だった。
ずんぐりとした胴体の中ほどから、主翼が左右へ広がっている。
白江が機首を下げた。
三機の鍾馗が、間隔を保ったまま降下へ入る。
義雄は操縦桿を前へ倒した。
機首が下がり、速度が増す。
スロットルは絞らない。
高度を速度へ変える。
白江機が先頭を飛ぶ。
義雄はその右後方、水野はさらに左後方から続いた。
三機で一機を追うのではない。
白江が敵編隊を崩し、義雄がその離脱を援護しながら次の敵を叩く。水野はさらに後ろから入り、義雄の死角を補う。
白江が敵一番機へ射撃した。
機銃が火を吐く。
敵一番機は射線を外すため、右へ急旋回した。
白江は追わない。
そのまま敵編隊の下を抜け、速度を保って離脱する。
敵二番機が、離脱する白江機へ機首を向けようとした。
義雄は、その動きを見ていた。
白江の後ろを追うのではなく、敵二番機が白江へ向かう飛行線を横切る。
操縦桿を倒し、補助翼で機体を傾ける。
ラダーを当てて横滑りを抑える。
筒型照準器へ右目を寄せた。
狭い円形の視野へ、敵二番機が入ってくる。
まだ機体には横向きの力が残っている。
このまま筒の中心へ敵機を入れても、狙点と着弾点は一致しない。
義雄は旋回を浅くした。
操縦桿を少し戻し、ラダーの踏み量を緩める。
横滑りが収まる。
敵機そのものではなく、弾着までに進む位置へ筒の中心を置く。
距離が詰まった。
義雄は操縦桿上部の射撃ボタンを押した。
機首の7.7mm機銃二挺と、主翼の12.7mm機銃二挺、計四挺が短く火を吐く。
曳光弾が、敵二番機の進路を横切った。
敵機は白江を追うのをやめ、左へ急旋回した。
義雄も、その後ろへはついていかない。
射撃ボタンから指を離し、操縦桿を引く。
速度を高度へ変えながら、敵編隊の上方へ離脱する。
白江機が前下方へ抜けていく。
その後ろには敵機はいない。
義雄は白江の離脱を確かめ、上昇を続けた。
水野機が、その下を通過した。
本来なら、義雄が追い払った敵二番機へ一撃を加え、そのまま離脱するはずだった。
だが、水野は別の敵を見ていた。
白江の攻撃をかわした敵一番機が、左へ反転している。
水野機は、その後ろへ食いつこうとしていた。
義雄は左手を動かした。
追うな。
離れろ。
手信号を送る。
しかし水野は敵一番機だけを見ていた。
操縦桿を左へ倒し、旋回するバッファローの内側へ入ろうとする。鍾馗の機首が上がり、速度が落ち始めた。
そのさらに左上方から、敵三番機が降下してきた。
水野には見えていない。
義雄は機体を傾け、警告の手信号を送った。
間に合わなかった。
敵三番機の翼から火線が伸びた。
水野機の左翼に、小さな火花が散る。
機体が大きく揺れた。
敵三番機は水野機の後方へ回り込み、さらに射撃を加えようとしている。
義雄は操縦桿を倒した。
上昇離脱で残した速度を使い、敵三番機を撃てる位置へ急ぐ。
相手の真後ろへ回る必要はない。
水野へ狙いを定めたままではいられなくすればよい。
筒型照準器へ右目を寄せた。
距離は遠い。
敵機の前方へ照準を置き、射撃ボタンを短く押す。
四挺の機銃が火を吐いた。
曳光弾がバッファローの前方を横切る。
命中はしない。
だが、敵機は水野への照準を外し、右へ急旋回した。
水野機との間が開く。
義雄は射撃ボタンから指を離した。
牽制は効いた。
ここから先は、敵の小さな旋回へ無理についていく必要はない。
義雄は速度を殺さぬよう補助翼で機体を傾け、ラダーで機首を合わせる。
敵機の後ろではなく、次に通る位置へ向けて機首を置いた。
敵機は義雄の射線から逃れようと、さらに右へ旋回する。
義雄はその内側へ無理に入らない。
小さな半径で回ろうとする敵機に対し、義雄は速度を保ったまま、その外側を大きく回る。
旋回半径は大きくとも、速度はこちらが高い。
敵機が向きを変えるより速く、その飛行線の先へ回り込んでいく。
距離が縮まるにつれ、必要な見越し量も小さくなる。
だが、自機にはまだ旋回による横向きの力がかかり、ラダーを踏む足にも機首が滑ろうとする感触が返っている。
筒の中心を敵機の進路へ置くことはできる。
いま撃っても、弾がそこへ集まるとは限らない。
義雄は射撃を控えた。
旋回を浅くし、ラダーの踏み量を緩める。
横滑りが収まり、身体を横へ押していた力が抜けていく。
大きな見越しを必要としない距離まで近づいた。
義雄は筒の中心を、バッファローの胴体よりわずかに前へ置いた。
義雄は操縦桿上部の射撃ボタンを押した。
四挺の機銃が、再び短く火を吐いた。
弾丸がバッファローの胴体後部へ吸い込まれる。
敵機から白い煙が流れた。
だが、義雄はそれ以上追わなかった。
操縦桿を引き、上昇へ移る。
そのままできるだけ速度を保ちながら、上昇して離脱する。
背後で敵機が落ちていく。
撃墜を確認する余裕はない。
水野機が右下に見えた。
左翼を撃たれている。
義雄は水野の外側へ回り、帰還を促す手信号を送った。
水野が一度だけ機体を振る。
了解の合図だった。
白江が上空から降りてきた。
残ったバッファローは、もう戦う気を失っていた。
白江は追わず、三機をまとめてクワンタンへ戻した。
帰路、水野機の発動機が一度だけ大きく咳き込んだ。
義雄は水野の横へつき、機体の状態を確認する。
左翼から燃料が漏れている様子はない。
ただし、補助翼の動きが鈍いらしく、水野機は左右の姿勢を細かく修正しながら飛んでいた。
義雄は場周へ入る前に、水野へ脚を下ろす符丁の手信号を送った。
同時に、咽喉マイクを一度叩く。
雑音の向こうで、水野の返事が聞こえた。
「……了解」
飛行場が近づく。
義雄は水野機を先に滑走路へ向かわせた。
水野は場周高度を保ったまま、滑走路と平行する区間へ入る。
スロットルを絞り、速度を落とす。
脚を下ろし、計器盤の脚位置表示灯で脚下げを確認する。
水野機は、滑走路と平行する区間を飛びながら、左右の姿勢を細かく修正していた。
水野はフラップをまず半分まで下げた。
速度が落ちるにつれ、左の補助翼が操縦桿の入力へ遅れて反応する。大きく傾ければ、水平へ戻すまでに時間がかかる。
第三旋回へ入る。
操縦桿を左へ倒し、ラダーをわずかに踏む。
左翼が沈む。
旋回を止めようと操縦桿を戻しても、機体はすぐには水平へ戻らない。
水野は右へ当て舵を加え、ようやく傾きを止めた。
義雄は後ろからそれを見ていた。
第四旋回。
最終進入へ向けて、水野が機首を滑走路へ合わせる。
フラップをさらに下げた。
機体が沈む。
水野はスロットルをわずかに開き、降下率を抑えた。
主輪が接地する。
左へ流れかけた機首を、右フットバーを踏んで戻す。
速度が落ちるにつれ、ラダーの効きが弱くなる。
水野はブレーキを片側だけ強く使わず、操縦桿を引いたまま、滑走路上をまっすぐに減速した。
やがて、機体が止まった。
義雄はその後に続いた。
自機の損傷はない。
場周へ入り、速度を落とす。
脚を下ろし、計器盤の脚位置表示灯で脚下げを確認する。フラップを段階的に下げた。
第四旋回を終えたところで、滑走路が正面へ伸びた。
操縦桿をわずかに前後させ、降下率と速度を整える。
主輪が接地する。
操縦桿を少し引き、尾輪を下ろす。
速度が落ちるにつれて、義雄は足の入力を増やしていった。
鍾馗が滑走路の上でまっすぐ減速する。
機体が停止した。
整備兵が駆け寄ってくる。
水野機の左翼には、いくつもの弾痕が開いていた。
補助翼の一部が変形し、燃料配管の近くまで弾が通っている。
それでも、帰ってきた。
義雄が操縦席から降りると、白江が待っていた。
「撃墜は?」
「確認していません」
「そうか。俺も見ておらん」
白江は大きな手で義雄の肩を叩いた。
「なら、今日の戦果は一機だ。帰ってきた水野を数えておけ」
「だが、射撃後に無理に追わなかったことは評価する」
白江は水野機へ目を向けた。
「水野を追った敵機へ、二度目の射撃をしたな」
「はい」
「一度目より近かった」
「撃てる距離まで詰めました」
「見越し射撃は?」
「使える位置ではありませんでした」
白江は白い歯を見せた。
「それでいい。見越し射撃は、できる者が、できるときに使うものだ。戦法そのものにするな」
白江は、滑走路の先へ視線を戻した。
「敵機は逃げた。こちらも帰った。今日のところは、それで十分だ」
白江は、少し離れたところで整備兵に囲まれている水野を見た。
「試験では、お前と水野は二機で動けた」
「はい」
「だが今日は、俺が先頭に立った途端、二人とも俺の後ろへ戻った」
義雄は答えなかった。
三機編隊の形を取ったことで、白江の動きへ合わせることに意識を使いすぎた。水野が敵機を追い始めたときも、義雄は白江と水野の両方を見ようとして判断が遅れた。
「試験でできることと、戦場でできることは違う」
白江は滑走路の先へ視線を戻した。
「よくわかった。次は飛び方を変える」
義雄はクワンタンの空を見上げた。
湿った空気の向こうに、先ほどのバッファローの姿が残像となる。
英国極東空軍のブリュースター・バッファローMk.I。
まだ、敵機の癖まではわからない。
だが、機体がどのように動き、どの操作に反応し、どこで無理をするのか。
それを見ていれば、次はもう少し早く手を打てる。
腕のチュチマが、静かに時を刻んでいた。
読んでいただき、ありがとうございます。
当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。




