鍾馗
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
昭和十六年の冬、片桐義雄は帰国した。
ドイツで見た機体と戦技について報告するため、帰国後まもなく陸軍航空審査部へ呼び出された。
報告室の机には、義雄が作成した書類が並べられている。
「ドイツ式の編隊運用について、説明してもらおう」
向かいに座った将校が言った。
義雄は、報告書へ目を落とした。
「三機編隊は、三機すべてが糸でつながれたように動けるなら、攻撃にも防御にも優れています」
「ならば、それでよいのではないか」
「問題は、三機すべてに相当な技量が要求されることです」
義雄は、ドイツで見た飛行を思い出した。
「二機編隊なら、互いに相手の一機だけを意識すればよい。三機編隊が糸でつながれているとすれば、二機編隊はゴムひものような連携になります」
「ゴムひも?」
「距離が開いても、切れなければ戻せる。常に完全な形を保つ必要はありません」
義雄は、言葉を選んだ。
「一撃離脱を行うなら、二機編隊のほうが扱いやすい場合があります」
報告室の扉が開いた。
入ってきた男は、義雄より年下に見えた。
だが、肩幅は広く、丸い顔の下には太い首が続いている。部屋が急に狭くなったように感じるほど、大柄な男だった。
「白江保彦大尉だ」
紹介された白江は、義雄へ大きな手を上げた。
「話は聞いたぞ。ドイツ帰りの片桐中尉だな」
「はい」
「ここでは、ドイツで見たものをそのまま持ち込めば済むとは思わないことだ」
白江は机の上の報告書を指で叩いた。
「この部隊にいるのは、ドイツ人ではない。乗る機体もBf109ではない」
「承知しています」
「なら、何を持ち帰った?」
義雄は少し考えた。
「戦法ではなく、考え方です」
白江の目が、わずかに細くなった。
「具体的には」
「機体の性能と、操縦者の技量を切り離して考えないこと。速い機体なら、速さを残して使う。曲がらない機体なら、曲がらないことを前提に戦う。編隊も同じです」
白江は黙って義雄を見た。
「ドイツ帰りの理屈屋かと思ったが、そうでもないらしい」
「理屈どおりに飛べたことは、まだ一度もありません」
白江は一拍置いてから、腹の底から笑った。
「よし。理屈だけの男ではないらしい」
大きな手が、報告書をひとまとめにした。
「飛んでみろ。お前の考えが、どこまで機体に通じるか、俺が見てやる」
白江大尉は、独立飛行第四七中隊で義雄を指導する立場にあった。
義雄はその日から、白江の下で鍾馗の試験と戦技研究に加わった。
数日後、試験飛行の日が来た。
白江に呼ばれた義雄は、審査部の格納庫前へ出た。
そこに、まだ見慣れない機体が置かれていた。
正式名称は、二式単座戦闘機。
鍾馗と呼ばれる機体だった。
太い胴体に、肩を怒らせたような短く小さな主翼。
機首には大きな空冷発動機が収まり、全体が前へ力を集中させているように見える。
義雄は、ドイツで見たBf109を思い出した。
小さな主翼と大きな出力。
旋回性能だけに頼らず、速度と上昇力で戦うための形。
「似ているな」
背後から白江が言った。
「Bf109に」
「はい。考え方が似ています」
「だが、同じではない」
「乗ってみなければわかりません」
「そのとおりだ」
義雄は鍾馗の操縦席へ乗り込んだ。
左手をスロットルへ置く。
右手で操縦桿を握り、両足をフットバーへ乗せる。
操縦桿の動きと、ラダーの踏み代を確かめた。
正面には、風防を貫くように長い筒型の照準器が据えられている。
Bf109では、小さな硝子板の向こうに照準環が浮かんで見えた。
鍾馗のものは違う。
射撃するときには顔を寄せ、狭い筒の中へ片目を正確に合わせなければならない。
機体を旋回させながら使うとなれば、姿勢が少し崩れただけでも目標を見失うだろう。相手の未来位置へ照準を置くには、相手機の動きだけでなく、自機の姿勢と、機体にかかる加速度まで含めて判断する必要がある。
起動車が接続される。外部動力でプロペラが回り始めた。
発動機が始動する。
低く太い音が、機体全体を震わせた。
Bf109とは違う。
だが、九七戦とも違う。
振動が大きい。
それでいて、ばらばらではない。
機体の前方に、巨大な力がひとつにまとまっている。
義雄は回転計を見ながら、スロットルを少し開いた。
機体が前へ出る。
地上滑走では、機首が高く、前方が見えにくい。
義雄は機体を小さく蛇行させながら、左右の視界を交互に確かめた。
滑走路へ正対する。
左手でスロットルを押し開く。
発動機音が一段高くなり、機体が前へ跳ねた。
プロペラの反トルクで、機首が左へ振られようとする。
義雄は右足を踏み足した。
機首が中心線へ戻る。
踏み足しすぎない。
足を戻しすぎれば、今度は反対へ振られる。
義雄はフットバーへの入力を細かく調整しながら、機体を滑走路の中央へ置き続けた。
速度が乗る。
操縦桿を軽く前へ倒す。
尾輪が浮いて機首が下がり、前方視界が開けてきた。
義雄は速度計を確認し、操縦桿をゆっくり引いた。
主輪が滑走路を離れる。
鍾馗は、九七戦のように軽く浮き上がるのではなかった。
大きな力に押し上げられ、空中へ出ていく。
義雄は脚引込レバーを操作した。
主脚が格納されていく振動が、操縦席へ伝わる。
続けてフラップを格納する。
その間も、スロットルは維持した。
機首を上げすぎず、速度を落とさない。
操縦桿をわずかに戻し、脚とフラップの格納が終わるのを待つ。
鍾馗は速度を抱えたまま、上昇へ移った。
義雄は機首を少しずつ上げた。
高度を取ろうとして操縦桿を引きすぎれば、速度を失う。
速度を残そうと機首を下げれば、高度が取れない。
義雄はその境目を探りながら、鍾馗を上昇させた。
高度が取れたところで、場周から離れる。
右へ旋回した。
操縦桿を右へ倒す。
エルロンが機体を傾ける。
右足でラダーをわずかに踏み、機首を旋回方向へ合わせる。
操縦桿を少し引き、エレベーターで機首を支える。
旋回に入った鍾馗は、機首を素直に内側へ向けた。
だが、速度が落ちる兆候も早い。
義雄はスロットルをわずかに開き、操縦桿を戻した。
無理に曲げるのではなく、速度を残して旋回を維持する。
機体は重い。
しかし、重さがそのまま鈍さになっているわけではない。
力を失わなければ、動きは速い。
高度を変え、速度を変え、旋回半径を変える。
鍾馗は、操縦者がどう使うかを待っていた。
数度の試験飛行を終え、義雄は飛行場へ戻った。
飛行場の上空で高度を落とし、場周へ入る。
第一旋回で滑走路の延長線から外れ、第二旋回で背風に乗った。
義雄はスロットルを戻し、速度を落としながら飛行場を横目に見る。
滑走路との位置関係を確認し、脚下げレバーを操作した。
主脚が降りてくる振動が、足元から伝わる。
計器盤の脚位置表示灯で固定を確認し、フラップを一段下げた。
第三旋回へ入る。
操縦桿を引きすぎず、ラダーで機首を整える。
速度が落ちすぎないようにスロットルを残し、滑走路へ向かう角度を作った。
第四旋回。
義雄はフラップをさらに下げた。
機体が沈み始める。
スロットルをわずかに調整し、向かい風に正対する。
最終進入に入った。
滑走路が正面へ伸びている。
義雄は操縦桿をわずかに前後させ、降下率と速度を整えた。
接地直前、機体が左へ流れた。
右足を踏み、ラダーで機首を中心線へ戻す。
主輪が接地する。
操縦桿を少し引いて尾輪を下ろし、速度が落ちるにつれて足の入力を増やしていく。
機体が停止した。
義雄が操縦席から降りると、白江が待っていた。
「どうだ」
「力があります」
「それだけか」
「力を使う場所を、操縦者が選ばなければならない機体です」
白江は鍾馗を見上げた。
「扱いにくいか」
「いいえ。扱い方を要求してくる」
「同じことだろう」
「違います」
義雄は機体へ目を向けた。
「扱いにくい機体は、操縦者を拒みます。これは、使い方を間違えなければ応じる」
白江はしばらく黙っていた。
「その言い方は、ドイツで覚えたのか」
「九七戦に乗っていたころからです」
白江の視線が、義雄へ戻った。
「なら、お前は機体の話を聞くのが得意らしい」
「話しているわけではありません。音や振動を覚えているだけです」
「同じことだ」
白江はそう言って、鍾馗の機首へ歩み寄った。
「次は編隊で試す。ドイツの二機編隊が、ここで形になるか見せてもらおう」
義雄の僚機を務めることになったのは、水野少尉だった。
九七戦での飛行経験があり、操縦は堅実だった。
ただし、新しい機体に慣れるのは早くない。
鍾馗では、機体の加速に置いていかれ、無線の途切れにも悩まされていた。
「片桐中尉」
水野が言った。
「こちらから呼んでも、返事がないときがあります」
「聞こえていないのか、届いていないのか」
「わかりません」
「そこを切り分ける必要があります」
義雄は白江へ報告した。
編隊飛行中、僚機からの声が雑音に沈む。
聞こえたと思った瞬間に途切れ、聞き返す余裕もない。
「機体の性能以前に、これでは編隊が組めません」
義雄が言った。
白江は太い腕を組んだ。
「戦闘中、しゃべり続けるつもりか」
「必要なことだけ伝わればいいのです」
「その必要なことが伝わらん」
「だから、改良します」
整備兵の列の後ろに、ひとりの技術将校が立っていた。
「どのように?」
男が訊いた。
義雄は振り向いた。
「刈屋正意中尉だ」
白江が紹介した。
「無線の件を聞きました。どこで、どう聞こえないのか、詳しく教えてください」
義雄は、飛行中の状況を説明した。
離陸直後は聞こえる。
回転を上げ、機体が振動し始めると雑音が増える。
高度を取って速度が乗ると、送信した声が相手へ届かないことがある。
機体によって、聞こえ方にも差がある。
刈屋は口を挟まず、手帳へ書き込んでいた。
「無線機そのものだけではなく、取り付けと配線も確認します」
「部品を選べますか」
義雄が訊いた。
「良いものを選べるだけの余裕があれば」
「上申します。編隊内だけでも、明瞭に通話できるようにしたい」
刈屋は手帳から顔を上げた。
「編隊内だけ?」
「全員と話す必要はありません。互いの僚機と、短い声が確実に通じればいい」
刈屋は少し考えた。
「それなら、試す価値はあります」
それから数日、鍾馗の無線には手が入った。
部品を選び、接地を確認し、配線を見直す。
アンテナの取り回しを変え、発動機を回した状態で通信を試す。
機体ごとに結果を記録し、同じ部品を使っても音の違うものを分けた。
完全な改良ではない。
しかし、聞こえないものを聞こえるようにするには、まずどこで聞こえなくなるかを確かめなければならなかった。
無線の試験には、水野も加わった。
義雄が地上から呼び、水野が操縦席で返す。
白江が別の機体から割り込み、どの声がどこまで届くかを確認する。
その結果、水野の機体では、送信時に雑音が増えることがわかった。
刈屋は配線をたどり、無線機の固定方法を変えた。
義雄は水野の操縦席の脇に立ち、チュチマの上側の押しボタンを押した。
文字盤中央の長い秒針が動き始める。
「回転を上げてから、雑音が出るまでを測る。始めろ」
水野は操縦席から身を乗り出し、義雄の左腕を取った。
「中尉の時計、なんかすげえですね」
「クロノグラフだ。経過時間を測れる」
「ドイツで買ったんですか」
「時計同士を交換した」
「高いんでしょう、それ」
義雄は少し考えた。
「日本で同じものを手に入れようとすれば、お前の俸給が三月分、まるごと消えるくらいだ」
水野は義雄の腕を離し、両手を慌てて胸元へ引っ込めた。
「先に言ってくださいよ!」
別の機体のそばで、白江が腹を揺らして笑った。
「触ったくらいで壊れる時計を、片桐が戦闘機へ持ち込むものか」
「大尉は怖くないんですか」
「俺の機体のほうが高い」
「そういう話ですか?」
白江の笑い声が、格納庫の前へ響いた。
水野が発動機を回す。
「片桐中尉、聞こえます」
「こちらも聞こえる」
水野が少し驚いたように返した。
「前より、ずっと近い声に聞こえます」
義雄は無線機ではなく、水野の声そのものを聞いた。
声が届く。
それだけで、機体の中の距離が縮まったように感じられた。
さらに、義雄は水野と白江に別の合図を提案した。
咽喉マイクを指で叩く。
カッ。
一回なら、受信した。
カッ、カッ。
二回なら、了解して実行する。
カッ、カッ、カッ。
三回なら、異常か中止。
「声が届かなくても、音なら届く場合があります」
義雄が説明すると、水野が試してみた。
カッ。
しばらくして、義雄の機体へ返事が来る。
カッ、カッ。
白江がそれを聞いて、大きく笑った。
「まるで電信だな」
「電信より速い」
「戦闘機の中で、指を叩いて会話するのか」
「会話ではありません。意思を確認するだけです」
白江は、鍾馗の操縦席を見た。
「それで、二機編隊が強くなると?」
「少なくとも、互いに見失ったとき、戻るきっかけにはなります」
白江はしばらく考えた。
「なら、飛んでみろ」
翌日、三機編隊と二機編隊の比較試験が行われた。
三機編隊は、白江を先頭にして上昇する。
後続の二機は、左右に位置を取り、白江機との距離を保っていた。
地上から見るかぎり、編隊は整っている。
しかし、空中では三機すべてが互いを意識しなければならない。
先頭機が速度を変えれば、後続も変える。
一機が遅れれば、残る二機がそれを待つ。
編隊全体が、一本の糸で結ばれている。
義雄は、水野と二機編隊を組んでいた。
僚機との距離を一定に保つのではなく、見失わない範囲で伸縮させる。
近づきすぎれば離れる。
離れすぎれば戻る。
完全な形を維持するのではなく、切れない距離を保つ。
やがて、白江の三機編隊が旋回に入った。
義雄はすぐに追わなかった。
操縦桿を引きすぎず、エルロンで機体を傾ける。
ラダーで機首を合わせる。
スロットルを維持し、速度を残す。
白江機の後ろではなく、未来位置を予測して、そこを見下ろせる高度へ上がる。
無線に雑音が混じった。
義雄は咽喉マイクを二度叩いた。
カッ、カッ。
水野から返事が来る。
カッ、カッ。
義雄は操縦桿を少し前へ倒し、速度を乗せた。
機体を水平へ戻す。
相手の飛行線を予測し、そこを叩ける位置へ自分の機体を置く。
白江の三機編隊は、義雄の前を横切った。
義雄は白江機を追わなかった。
そのまま旋回すれば、速度を失う。
無理な追随をすれば、水野との連携も切れる。
義雄は一度離れ、再び速度を乗せた。
高度を使って上から入り、射撃機会を作る。
しかし、実弾は積んでいない。
白江機の未来位置へ機首を向ける。機影を照準器へ捉えた瞬間、義雄は咽喉マイクで吠えた。
「ダダダダダッ」
模擬射撃の申告だった。
義雄は操縦桿を戻し、上昇へ移る。
撃ったあとに追わず、速度を保ったまま離脱する。
それを繰り返した。
三機編隊は、形が整っているかぎり強い。
だが、一機の遅れが編隊全体へ伝わる。
二機編隊は、形が崩れても戻れる。
僚機の一機だけを意識し、その機体に合わせればよい。
試験を終えて帰投すると、白江は鍾馗から降りた義雄を見た。
「三度、撃ったな。今日は三度とも、よく聞こえた。刈屋に礼を言っておけ」
「はい」
「最初は遠い。あれでは当たらん。二度目は避けられた。三度目は――」
白江は白い歯を見せた。
「避けられなかった」
「三機編隊を否定するつもりはないようだな」
「三機には三機の強さがあります」
「なら、二機は?」
「扱える人間が多い」
白江は白い歯を見せて笑った。
「実際に、三機を糸でつなげられる者は多くない」
「二機なら、ゴムひもで済みます」
「切れないうちは、な」
白江の大きな手が義雄の肩を叩いた。
軽く叩いたつもりらしいが、義雄の身体は半歩前へ押し出された。
それを見た水野が、白江からそっと一歩離れた。
「まずは選抜した組で試す。部隊全体の戦法を変える話ではない」
「承知しました」
「だが、使えるものなら使う。お前の仕事は、ドイツ式をありがたがることではない」
白江は鍾馗へ目を向けた。
「この機体と、この連中で使える形にすることだ」
義雄はうなずいた。
その横で、刈屋が整備記録を閉じた。
「無線は、もう一度手を入れます」
「まだ問題があるのか」
白江が訊く。
「あります。ですが、どこが問題かは見えてきました」
刈屋は淡々と答えた。
「見えれば、直せます」
数週間後、独立飛行第四七中隊に南方派遣の命令が下った。
格納庫では、鍾馗が出発の準備を進めていた。
義雄は機体の前に立ち、黒い発動機覆いへ手を触れた。
「お前は隼にはなれないな」
鍾馗は、風と金属の振動だけを返した。
「なら、ならなくていい。お前は、お前の飛び方をしろ」
腕の上では、ドイツから来たチュチマが静かに針を進めていた。
義雄は、出発する機体の列を見た。
これから先、何機が戻り、何機が戻らないのか。
その答えを、時計は知らない。
ただ、義雄の手首で、静かに時を刻んでいた。
読んでいただき、ありがとうございます。
当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。




